長宗我部元親の四国制覇 その79
『四国統一なる』
元親は天正13年の春、ようやく伊予の平定を終え、四国の制覇をなしとげた。
土佐を統一してから10年の歳月がたっていた。
長宗我部元親(1539-1599年)

このように長年月を要したのは、長宗我部軍が農民(一領具足)を主力としていたので、専門
の兵士とは違って常時戦争をすることもできず、それに敵方への仙石や毛利軍の援助があった
ためでしょう。
こうして元親は念願であった四国制覇を完成し、全国群雄の一人としてのしあがってきたが、
わずか3ヵ月余り後に、強力な秀吉の軍と対決しなければならなくなってくるのです。
秀吉との戦いは「四国平定」(こちら)を参照してください。
長宗我部元親の四国制覇に長期にわたりお付き合い戴き、ありがとうございました。
少し戦いをお休みした後、次回の戦国合戦は、「石山合戦」を勉強してみたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
元親は天正13年の春、ようやく伊予の平定を終え、四国の制覇をなしとげた。
土佐を統一してから10年の歳月がたっていた。
長宗我部元親(1539-1599年)

このように長年月を要したのは、長宗我部軍が農民(一領具足)を主力としていたので、専門
の兵士とは違って常時戦争をすることもできず、それに敵方への仙石や毛利軍の援助があった
ためでしょう。
こうして元親は念願であった四国制覇を完成し、全国群雄の一人としてのしあがってきたが、
わずか3ヵ月余り後に、強力な秀吉の軍と対決しなければならなくなってくるのです。
秀吉との戦いは「四国平定」(こちら)を参照してください。
長宗我部元親の四国制覇に長期にわたりお付き合い戴き、ありがとうございました。
少し戦いをお休みした後、次回の戦国合戦は、「石山合戦」を勉強してみたいと思います。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
スポンサーサイト
長宗我部元親の四国制覇 その78
『河野通直の降服』
毛利の援助にもかかわらず、天正13年(1585年)の春には、久武親信は1万6千の兵を率い
て北進し、松葉・大野を抜き、多田城主の多田蔵人を降し、山田城をも占拠した。
河野直道の供養塔

河野の家臣らはこの情勢をみて
「斯(か)くては当家もいかが有(あら)んずらん。所詮(しょせん)弱みなき先に降を乞い給
はば、四国に双(なら)びなき大家にて候間、元親も自余の城主には準ずべからず。一家同門の
思ひをなし給ふべし。急ぎ書簡を遺され、然るべく候」(土佐物語)
と河野通直に進言した。
通直もとうてい元親に敵し得ないことを悟り、ついに降服し、家老の平岡某を人質として岡豊に
送ってきた。
さきに家臣の大野氏のために地蔵嶽城を追われていた宇都宮氏も、遠江守元網が西伊予の松山に
いたが、城を持つことができず、毛利氏をたよって安芸国に退却した。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
毛利の援助にもかかわらず、天正13年(1585年)の春には、久武親信は1万6千の兵を率い
て北進し、松葉・大野を抜き、多田城主の多田蔵人を降し、山田城をも占拠した。
河野直道の供養塔

河野の家臣らはこの情勢をみて
「斯(か)くては当家もいかが有(あら)んずらん。所詮(しょせん)弱みなき先に降を乞い給
はば、四国に双(なら)びなき大家にて候間、元親も自余の城主には準ずべからず。一家同門の
思ひをなし給ふべし。急ぎ書簡を遺され、然るべく候」(土佐物語)
と河野通直に進言した。
通直もとうてい元親に敵し得ないことを悟り、ついに降服し、家老の平岡某を人質として岡豊に
送ってきた。
さきに家臣の大野氏のために地蔵嶽城を追われていた宇都宮氏も、遠江守元網が西伊予の松山に
いたが、城を持つことができず、毛利氏をたよって安芸国に退却した。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
長宗我部元親の四国制覇 その77
『村上水軍にも注意喚起』
小早川隆景も11月15日付けで桂元親に
「兎(と)も角(かく)、今の姿にては道後御無力なるべきの条、先年の如く渡海せしめ、今
に於いては一弓矢申し候はでは相叶(あいかな)はざるの条、松葉・大野の儀、此節不慮無き
副(そえ)申し度く候」
村上水軍城(資料館)

「井又右(井上春忠)湯付(湯築)に逗留候間、毎事仰せ談ぜらるべく候。人々追々差渡され
候条、御心安かるべく、猶重畳(なおちょうじょう)申すべく候」(桂文書)
と手紙を出して、松葉・大野(東宇和郡)をもちこたえるよう申し送っている。
また隆景は伊予能島の村上元吉にも、12月10日付けで次の書状を出している。
宇和表御警固の儀、児三右(児玉元良)、井又右(井上春忠)の所よりも申し越し候。弥々
(いよいよ)御分別なされ、彼表(かのおもて)年内相拘(あいかわ)られ候御調儀(ごちょ
うぎ)、専一(せんいつ)に候。今の姿に於ては、道後御迷惑に及ばるべきの条、各々渡海せ
しめ一行申付くべく候。(村上文書)
すなわち、村上水軍に対し、宇和方面の防備に力をつくされるとともに、道後の河野氏が危な
いので援兵を送ることを知らせています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
小早川隆景も11月15日付けで桂元親に
「兎(と)も角(かく)、今の姿にては道後御無力なるべきの条、先年の如く渡海せしめ、今
に於いては一弓矢申し候はでは相叶(あいかな)はざるの条、松葉・大野の儀、此節不慮無き
副(そえ)申し度く候」
村上水軍城(資料館)

「井又右(井上春忠)湯付(湯築)に逗留候間、毎事仰せ談ぜらるべく候。人々追々差渡され
候条、御心安かるべく、猶重畳(なおちょうじょう)申すべく候」(桂文書)
と手紙を出して、松葉・大野(東宇和郡)をもちこたえるよう申し送っている。
また隆景は伊予能島の村上元吉にも、12月10日付けで次の書状を出している。
宇和表御警固の儀、児三右(児玉元良)、井又右(井上春忠)の所よりも申し越し候。弥々
(いよいよ)御分別なされ、彼表(かのおもて)年内相拘(あいかわ)られ候御調儀(ごちょ
うぎ)、専一(せんいつ)に候。今の姿に於ては、道後御迷惑に及ばるべきの条、各々渡海せ
しめ一行申付くべく候。(村上文書)
すなわち、村上水軍に対し、宇和方面の防備に力をつくされるとともに、道後の河野氏が危な
いので援兵を送ることを知らせています。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
長宗我部元親の四国制覇 その76
『河野氏危うし』
毛利輝元は桂元親に10月26日、次の手紙を送っている。
毛利輝元(1553-1625年)

去る19日の注進状、具(つぶさ)に披見せしめ候。黒潮の儀落去、是非に及ぼす候。併(し
か)し内々弱々敷(よわよわしき)趣(おもむき)の由に候条、申すに及ばず候。道後へ追々
注進せしむるの由肝要(かんよう)に候。平賀・木梨方の儀差渡し候。其の外南方(南方就正
)以下検使として明後日28日渡海に候。道後への使として、児三右(児玉元良)井又右之(
井上春忠)を進め置き候。其表加勢の儀、追々緩(ゆるがせ)無く候条、其心を得べく候。
其方長々辛労(しんろう)の上、此節別して心遣の段、察せしめ候、涯分(がいぶん)(=力
の及ぶかぎり)暖有るべからず候。迚(とて)も各々差渡し候間、詳(つく)し能(あた)は
ず候。謹言
このような輝元の励ましにもかかわらず、桂元親の苦戦は深刻となり、長宗我部軍は三間・板
島(宇和島)方面から次第に北上をはじめた。
こうなると河野氏も危うくなるし、これを援助する毛利氏も気が気でならなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
毛利輝元は桂元親に10月26日、次の手紙を送っている。
毛利輝元(1553-1625年)

去る19日の注進状、具(つぶさ)に披見せしめ候。黒潮の儀落去、是非に及ぼす候。併(し
か)し内々弱々敷(よわよわしき)趣(おもむき)の由に候条、申すに及ばず候。道後へ追々
注進せしむるの由肝要(かんよう)に候。平賀・木梨方の儀差渡し候。其の外南方(南方就正
)以下検使として明後日28日渡海に候。道後への使として、児三右(児玉元良)井又右之(
井上春忠)を進め置き候。其表加勢の儀、追々緩(ゆるがせ)無く候条、其心を得べく候。
其方長々辛労(しんろう)の上、此節別して心遣の段、察せしめ候、涯分(がいぶん)(=力
の及ぶかぎり)暖有るべからず候。迚(とて)も各々差渡し候間、詳(つく)し能(あた)は
ず候。謹言
このような輝元の励ましにもかかわらず、桂元親の苦戦は深刻となり、長宗我部軍は三間・板
島(宇和島)方面から次第に北上をはじめた。
こうなると河野氏も危うくなるし、これを援助する毛利氏も気が気でならなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
長宗我部元親の四国制覇 その75
『西園寺公広和睦』
三間表の諸城が相ついで長宗我部軍に降って、手足をもぎとられた西園寺公広は、土居清良を
頼るのみであったが、ついに長宗我部軍のために、天正12年10月19日、公広の居城・黒
瀬城は陥落した。
黒瀬城址

ちなみに西園寺公広は南予での麾下の諸城相次いで潰(つい)えて行くのをみて、自己の勢威
を維持することが不可能であることを悟り、元親と和睦したというが、後に四国が秀吉の支配
下に入り、戸田勝隆が南伊の宇和・喜多郡を領するようになってから、公広は自己の所領を回
復することが出来ないことを悟り、黒瀬城を明け渡して九島(宇和島領内)の願成寺で念仏三
昧の月日を送ったとういう。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
三間表の諸城が相ついで長宗我部軍に降って、手足をもぎとられた西園寺公広は、土居清良を
頼るのみであったが、ついに長宗我部軍のために、天正12年10月19日、公広の居城・黒
瀬城は陥落した。
黒瀬城址

ちなみに西園寺公広は南予での麾下の諸城相次いで潰(つい)えて行くのをみて、自己の勢威
を維持することが不可能であることを悟り、元親と和睦したというが、後に四国が秀吉の支配
下に入り、戸田勝隆が南伊の宇和・喜多郡を領するようになってから、公広は自己の所領を回
復することが出来ないことを悟り、黒瀬城を明け渡して九島(宇和島領内)の願成寺で念仏三
昧の月日を送ったとういう。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>