鉄砲の伝来 その28
『戦いが技術を進歩させる』
戦国時代の製鉄技術を明らかにする資料は残っていないので、具体的にどのような技術的進歩
があったのかは、はっきりしません。
火縄銃を撃つ足軽

水心子正秀の『剣工秘伝志』や、筆者不明の『鉄山略弁』といった鉄山技術書によると、優秀
な和鋼を製出する方法が行われるようになったのは、天文の頃からであるという。
これなどは事実の一端を示しているのでしょう。
戦国の動乱社会が、鉄砲の必要性を生み、そのため製鉄技術の一大進歩という贈り物を後世に
残した事実は間違いないことです。
古今、戦いは技術を進歩させるものですね。
鉄砲の伝来にお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、九州の群雄割拠について勉強してみたいと思います。
よかったら、お付き合いお願いいたします。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
戦国時代の製鉄技術を明らかにする資料は残っていないので、具体的にどのような技術的進歩
があったのかは、はっきりしません。
火縄銃を撃つ足軽

水心子正秀の『剣工秘伝志』や、筆者不明の『鉄山略弁』といった鉄山技術書によると、優秀
な和鋼を製出する方法が行われるようになったのは、天文の頃からであるという。
これなどは事実の一端を示しているのでしょう。
戦国の動乱社会が、鉄砲の必要性を生み、そのため製鉄技術の一大進歩という贈り物を後世に
残した事実は間違いないことです。
古今、戦いは技術を進歩させるものですね。
鉄砲の伝来にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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鉄砲の伝来 その27
『採鉱冶金業の発達』
日本の製鉄技術がわずか50年のあいだに、驚くべき進歩をみせた原因はなんであったのでしょ
う。
戦乱が続く時代であったから、刀剣と鉄砲の製作は盛んで、日本の鉄材の消費の大半はこれに注
がれていた。
堺の鉄砲鍛冶

日本刀はすでに在来の鉄で、十分に優秀なものが造られていたが、鉄砲の場合は、当初、国産の
鉄材では高性能なものができず、外国品にたよざらるを得なかった。
こうした事情に刺激されて、日本の採鉱冶金術が急速な進歩とげるようになり、製鉄業は発展し
たのでしょう。
鉄砲の普及がわが国の採鉱冶金業に大きな影響を与えたのです。
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日本の製鉄技術がわずか50年のあいだに、驚くべき進歩をみせた原因はなんであったのでしょ
う。
戦乱が続く時代であったから、刀剣と鉄砲の製作は盛んで、日本の鉄材の消費の大半はこれに注
がれていた。
堺の鉄砲鍛冶

日本刀はすでに在来の鉄で、十分に優秀なものが造られていたが、鉄砲の場合は、当初、国産の
鉄材では高性能なものができず、外国品にたよざらるを得なかった。
こうした事情に刺激されて、日本の採鉱冶金術が急速な進歩とげるようになり、製鉄業は発展し
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鉄砲の普及がわが国の採鉱冶金業に大きな影響を与えたのです。
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鉄砲の伝来 その26
『日本の製鉄技術』
ところで、鉄砲の鍛冶技術がいかに優れていても、それだけでは優秀な銃は造れない。
良質の鉄材を用いなければならないのです。
鉄砲鍛冶の道具

先に紹介した、明人が書いた『日本一鑑』で、日本国産の鉄はもろくて鉄砲の材料には不向きな
ので、シャムや中国の福建から鉄を輸入していると言っている。
その後、その明人が日本を去って半世紀をへて来日した、平戸のイギリス商館長のリチャード・
コックスは、日本産の鉄はきわめて良質である、ほめちぎっているのです。
実際、その頃の日本は朱印船貿易によって鉄と銅は、台湾・フィリピン・トンキン・安南・交趾
支那・カンボジア・シャムなどの各地に輸出していたくらいなのです。
両者の評価は相反しますが、2人の証言のあいだには半世紀という年月が流れているのです。
その間に日本の製鉄技術が飛躍的に進歩したということでしょう。
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良質の鉄材を用いなければならないのです。
鉄砲鍛冶の道具

先に紹介した、明人が書いた『日本一鑑』で、日本国産の鉄はもろくて鉄砲の材料には不向きな
ので、シャムや中国の福建から鉄を輸入していると言っている。
その後、その明人が日本を去って半世紀をへて来日した、平戸のイギリス商館長のリチャード・
コックスは、日本産の鉄はきわめて良質である、ほめちぎっているのです。
実際、その頃の日本は朱印船貿易によって鉄と銅は、台湾・フィリピン・トンキン・安南・交趾
支那・カンボジア・シャムなどの各地に輸出していたくらいなのです。
両者の評価は相反しますが、2人の証言のあいだには半世紀という年月が流れているのです。
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鉄砲の伝来 その25
『日本から中国へ』
先にも記事にしたように、練鉄銃の製法は、やがて日本から中国へ伝えられた。
これについては諸説があるようですが、いずれにしても、中国に渡った日本人によって伝えられ
たことは事実です。
日本式火縄銃

明末の書物『全浙(ぜんせつ)兵制考』によれば、日本式鉄砲の製造法は、1556年に捕虜と
なった倭寇の頭目・幸五郎なるものによって伝えられたという。
他の書物では、8年前に1548年に捕らえられた者によって伝授されたという。
ともかく日本の製銃法が中国に伝わったのは、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えてから10年
くらい後のことです。
ところが朝鮮の役では日本軍と戦火を交えるまで、40年もの歳月がたっていたのにもかかわら
ず、中国人や朝鮮人のおおかたは、日本式鉄砲の長所を見抜くことができずに、旧態依然たる原
始的手銃や、種子島銃の形だけ真似た鋳銅製の小銃をもち続けていた。
当然、精鋭な種子島銃を装備した日本軍の前に完膚なきまでたたきのめされたという。
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たことは事実です。
日本式火縄銃

明末の書物『全浙(ぜんせつ)兵制考』によれば、日本式鉄砲の製造法は、1556年に捕虜と
なった倭寇の頭目・幸五郎なるものによって伝えられたという。
他の書物では、8年前に1548年に捕らえられた者によって伝授されたという。
ともかく日本の製銃法が中国に伝わったのは、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えてから10年
くらい後のことです。
ところが朝鮮の役では日本軍と戦火を交えるまで、40年もの歳月がたっていたのにもかかわら
ず、中国人や朝鮮人のおおかたは、日本式鉄砲の長所を見抜くことができずに、旧態依然たる原
始的手銃や、種子島銃の形だけ真似た鋳銅製の小銃をもち続けていた。
当然、精鋭な種子島銃を装備した日本軍の前に完膚なきまでたたきのめされたという。
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