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九州の群雄割拠

『佐賀城の戦い』

永禄12年3月、大友宗麟は竜造寺隆信を徹底的に攻撃して、肥前地方の不断の波乱を根本的に

平定しようと、大軍を率いて臼杵丹生島を出発、筑後高良山下の岩井川に塁を築いて本営とした。

佐賀城(佐賀城登城記は「こちら」です。)
sa.佐賀城 001

高良山の座主僧・都良寛、大祝鏡山保常も僧徒・神人らを率いて宗麟に従った。

これまでも隆信を攻撃するために部将を派遣したことはしばしばあったが、宗麟みずからの出陣

は最初であり、彼の決意のほどがわかります。

宗麟は甥の八郎親貞を大将とし、豊後の軍兵のほか、波多・後藤・鶴田・神代・八戸など肥前の

武将を誘い、佐賀城を攻めた。

竜造寺方では鍋島信生の奮戦がものすごく、これを破って退けた。

しかし、同年8月、宗麟はふたたび親貞を大将とし、神代兵を先鋒として佐賀城の西北12km

の今山に陣をとり、一撃のもとに陥落させようとした。

城内の兵数は少なく危険が迫ったが、信生は8月20日の払暁に乗じて親貞陣の背後を急襲し、

親貞を斬った。

これで大友軍は散々に逃げ散り、佐賀城の危急は救われた。



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食べたよ もう、ないですか (*`^´)=3


robin 20201028




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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九州の群雄割拠 その46

『毛利軍九州上陸』

永禄11年9月以降、毛利元就の軍が北九州に上陸し、大友軍と合戦・攻城戦を繰り返した。

大友方の対中国軍防衛の中心は、戸次鑑連(立花道雪)であった。

立花道雪(1513-1585年)
ta.立花道雪 001

この月、毛利元就の前衛軍は博多に近い多々良浜で大友軍と戦い、10月には筑前宝満城の高橋

鑑種を助けるために、吉川元春・小早川隆景を九州に派遣した。

元春が率いる海軍は豊前に到着し、宗麟方の長野壱岐守は三岳城に拠って、その前進を阻んだ。

しかし毛利軍の猛攻に三岳城は陥り、翌12年3月には、元春・隆景の大軍が豊前を席巻して筑

前に乱入し、立花城を攻めた。

元就みずから、はじめて大軍をもって安芸から門司関に軍陣を進め、元春・隆景を指揮後援した。

宗麟は田北鑑富・戸次親久らを豊前の高和に送り、元就に備えたが、他方、竜造寺との対戦中で

あるため、全力をもって中国勢にあたることができなかった。



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お代わりも貰うことができました(^^♪

robin 20201027




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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九州の群雄割拠 その45

『威信墜落の大友氏』

永禄11年4月、肥前平戸の松浦鎮信は、竜造寺隆信が攻めて来ることを聞き、豊後に救援郡の

出兵を求めた。

大友宗麟(1530-1587年)
oo.大友宗麟 001

大友宗麟は肥前唐津の波多氏のほか、筑前の小田部氏・大鶴氏に命じて鎮信を救わせた。

4月29日、隆信の平戸攻撃隊を鎮信は伊万里で迎え撃ったが、にわかに波多野氏は軍中で隆信

方に寝返り、鎮信を猛攻した。

不意を突かれた鎮信は敗れ、船に乗って平戸に退却した。

宗麟が派遣した救援軍が、すでにこのように信頼しがたいものであるから、大友氏の威信は著し

く下落した。

隆信は西肥前の大村純忠を攻めて降し、有田・松浦・有馬などの諸氏もこれを見て隆信に降伏し

た。



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食べたよ! おかわりは?

立ち上がることもなく、以前より、ずいぶんとマナーがよくなりました。

robin 20201026-1




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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九州の群雄割拠 その44

『立花道雪』

筑前の立花城は、博多に近い要地にあった。

すでに南北朝期に大友貞宗の子・貞載がここにいて立花氏を称してきたが、鑑俊の代になって大友

氏に背き、毛利に内応した。

立花道雪(1513-1585年)
ta.立花道雪 001

宗麟はこれを攻め、その子・親善のとき滅び、戸次鑑連をもって、その名跡をつがせた。

これが立花道雪である。

鑑連はもと豊後大野郡にいた大友一族であるが、彼が活躍した時代は大友氏の衰運がではじめた時

期であった。

宗麟を助けてしばしば豊前・筑前で戦ったが、弘治3年(1557年)には筑前夜須郡で秋月文種

を破り、永禄5年(1562年)には千手宗元の香春岳城を攻めて陥れ、同10年には大宰府の岩

屋城・宝満城に高橋鑑種を攻め、大友氏の筑前経営は、主として彼の活動によっていた。

元亀2年(1571年)5月、博多を抑える要衝である立花城に入り、毛利の大軍を防いで華々し

い活動を続けたが、天正13年(1585年)筑後高良山下の北野の陣中で病没した。

道雪は高橋紹運(鎮種)の長男・統虎を懇望して婿養子とした。

これが後の立花宗茂です。



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大好物の焼き肉がテーブルの載っていますが、「待て!」が出ています。

見ると欲しくなるので、視線をずらして待っています。

robin 20201024



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九州の群雄割拠 その43

『高橋鑑種の裏切り』

永禄10年(1576年)になると、大友氏と毛利氏の和は破れた。

大友宗麟は豊後の兵をもって筑前の高橋鑑重を岩屋城に攻め、筑後の兵をもって肥前の高橋鑑種を

五箇山城に攻めた。

岩屋城碑
iw.岩屋城跡

高橋氏はもと筑前の土豪であるが、宗麟の時代になってその家が断絶した。

宗麟は一族の一万田弾正忠親貫の弟をもって高橋氏を継がせた。

これが鑑種ですが、その後、筑前三笠郡を加えられ、宗麟の信頼もあつかったのに、竜造寺隆信と

結び、毛利元就に呼応して大友氏に敵対する行動に出た。

宗麟は鑑種の裏切りを怒って、戸次鑑連・臼杵鑑速らを遣わし、大いに詰問して攻めた。

鑑種は、太宰府岩屋城に敗れて、宝満城に立てこもり、数か月戦った。



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robin 20201023




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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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