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九州の群雄割拠 その52

『大友氏の近世大名化』

大友宗麟は豊前・筑前を確保することができたので、軍功のあった豊後玖珠郡の森・中島・野上・

問田、東国東郡の吉弘、宇佐郡の久保・衛藤その他の武士に対し、豊前・筑前において50町ある

いは5町の知行所を与えた。

臼杵城の宗麟のレリーフ(臼杵城登城記は「こちら」です。)
us.臼杵城 008

これは毛利対策の第一線の地域に新しい家臣団を創り出している著しい事実です。

相次ぐ戦闘、ことに戦勝による占領地に、一族または土豪を近世的家臣団として植え付けたのです。

こうして大友氏の大名領国制が近世化していった。

もまれる北九州は、それだけ早く近世封建社会に適合するようになった。



長い間、九州の群雄にお付き合い戴き、ありがとうございました。

島津氏については、別途、個別記事にしたいと思い割愛させていただきました。

次回は、北に眼を転じ奥羽の群雄を勉強してみたいと思います。よかったらお付き合いください。



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robin 20201105



<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
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九州の群雄割拠 その51

『大内輝弘が山口回復』

軍議の結果、豊後の船奉行・中務鎮興は兵船を率いさせ、進んで周防の合尾浦に行き、敵船を急襲

した。

若林氏はもともと水軍の首領であるが、豊後海軍の活躍はめざましく、鉄砲・弓矢を使うほか、白

兵戦をもって大いに戦果をあげて豊後に帰った

茶臼山にある大内輝弘の祠
oo.大内輝弘の祠

合尾浦の海戦は、大友方にとってテストの意味をもった。

その成功によって、宗麟は本格的に周防作戦を実行した。

すなわち、さきに大内氏滅亡のあと豊後に留まっていた大内輝弘を本国周防に送り込んで、毛利の

拠点を転覆しようというのであった。

輝弘は大内高弘の子、高弘は義興の弟であるから、義隆とはいとこにあたる。

宗麟は大内輝弘を周防作戦の総大将とし、再び若林鎮興を警固の船奉行に任命し、海を越え周防に

侵入させた。

そして毛利方の市川経好らを殺し、連戦連勝、大内氏の旧臣も多く輝弘に応じ、ついに山口を回復

した。

天文20年、義隆が長門大寧寺に自決してから、永禄12年のこのときまで18年経過していた。



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九州の群雄割拠 その50

『立花城落城』

毛利軍は石見の吉見氏、出雲の尼子氏、備後の神鍋氏をもその軍勢の中に加えており、永禄12

年5月の筑前立花表の戦いは、中国軍と九州軍との激突の様相であった。

立花城の位置
ta.立花城

毛利軍の中には金銀坑の山堀り人夫の一隊があって、大友軍が立てこもっている立花城の山下を

掘り進み、城内の櫓を掘り倒したり、水源を止めたりした。

このため城中では飲料水がなくなってしまった。

城の武将・田北鑑益や鶴原宗叱は高良山の大友宗麟の本営に忍者を発し、降参してもよいか聞い

た。

水がないので、しかたなく城兵は降参した。

この後も、博多松原・多々良浜で会戦を繰り返したが、勝敗は決定しなかった。

宗麟は高良山の本営を引き払って豊後に帰り、毛利氏に対して決定的打撃を与える方策を練るこ

とにした。



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九州の群雄割拠 その49

『火薬の戦争』

竜造寺氏との和議が成立したので、大友軍は全力を対毛利戦につぎ込むことができるようになった。

宗麟は諸氏を筑前に派し、各所で会戦し、鉄砲をさかんに使用した。

oo.大友宗麟 無双

毛利軍も鉄砲隊を組織していたので、両軍の死傷者の中には矢によるもののほか、手火矢すなわち

鉄砲による傷が多かった。

ことに12年5月の立花城の戦いでは、城を守る戸次鑑連に、宗麟はまだその頃めずらしかった大

砲を送って備えを固めさせており、大友と毛利の戦闘が、新兵器である鉄砲・大砲ならびに火薬の

戦争であったという。


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九州の群雄割拠 その48

『肥前の平定』

佐賀城の戦いで、竜造寺方の鍋島信生は、敵将・八郎親貞の陣営の幕にそめた紋所の杏葉が火に映

って立派に見えたので、この戦いに勝つことができたならば、記念のために家の紋にしようと思っ

たことから、鍋島氏の従来の剣菱の紋を止めてこれに変えたという。

鍋島家杏葉の紋
na.鍋島家杏葉の紋

これが鍋島氏の杏葉の紋です。

この会戦は竜造寺氏にとって生死の岐路に立つ重大な戦いであった。

翌月、大友氏からも和睦を申し込んできたので和議が成立し、隆信の弟・信周を大友氏に人質とし

た。

有馬・松浦の諸氏もまた大友方に降り、肥前は平定された。

しかし、隆信の弟・長信は多久城に入り、有馬・松浦の抑えの意味を担ったから、この和議も一時

的なものに過ぎなかった。


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