FC2ブログ

奥羽の群雄割拠 その47

『大崎氏と葛西氏の抗争 その6』

大崎義隆も同じように、領国制の確立に努力したと思われますが、この方は史実が伝わってないの

で、詳しいことはわかりません。

大崎義隆の墓(宮城県大崎市)
oo.大崎義隆の墓

ただ天正16年(1588年)の内乱を見ると、義隆の寵臣から問題が起こり、領内は義隆派と岩

手沢城主・氏家弾正派とに分かれ対立した。

氏家弾正は伊達氏に内応して出兵を依頼し、大崎氏は分解寸前に追い込まれる。

これを見ると大崎氏の方は権臣ののさばりがはなはだしく、領主の支配力は弱体化していたのです。

これは伊達・葛西の同盟政策が功を奏した結果なのでしょう。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


20210115.jpg



<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
スポンサーサイト



テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

奥羽の群雄割拠 その46

『大崎氏と葛西氏の抗争 その5』

永禄年間に入り、大崎・葛西両氏ともそれぞれ最後の領主である葛西晴信と大崎義隆の時代を迎え

た。

ou奥羽の群雄


葛西晴信は伊達氏と同盟して大崎氏に備えるという伝統的政策を維持し、北方では和賀氏を助けて

南部氏の南進を防いだ。

これに対し大崎氏は葛西領の咽喉部たる三迫方面を、依然として執拗に攻撃し、毎年のように戦闘

がくり返された。

また、晴信は、領国制確立のため、領内の小領主的な家臣の私闘に干渉し、彼らの勢力を削ること

に努めた。

すると彼らは外部の勢力と結びつき、三迫富沢氏の乱・気仙浜田氏の乱のような、思いがけない大

規模な兵乱に発展した。

しかし、全体的に見ると、これらの私闘や反乱の鎮定を通して、葛西氏の領主権はしだいに確立さ

れていった。

ただその事業が完結しないうちに、豊臣秀吉の奥羽征討を迎える結果となったのです。


ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


robin 20210114




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

奥羽の群雄割拠 その45

『大崎氏と葛西氏の抗争 その4』

天文5年(1536年)に大崎領内に反乱が起き、新井田・氏家・古川・高泉・一迫など有力な家

臣が太守・義直に反抗(天文の内乱)した。

伊達稙宗(1488-1565年)
da.伊達稙宗

義直は救援を伊達稙宗に求めた。

稙宗は3千の兵を率いて古川城を攻略したが、このとき伊達軍のほか、黒川・内ケ崎・留守・国分

・武石・長江の諸氏も出兵しています。

この出兵で稙宗は大崎領内に武威を徹底させ、次男・義宜を大崎義直の嗣子(しし)とした。

大崎氏の内紛に乗じ、伊達氏が大きいくさびを打ちこもうとしたのです。

その後、天文7年(1538年)、19年(1550年)、22年(1553年)にも、大崎・葛

西両氏は戦闘を交えたという。

こうして両者の攻防戦は、とどめなく繰り返されたが、その間に桃生方面では深谷の長江氏や山内

首藤氏が分解し、北方では佐沼・流・三迫の境界がしだいに固定していった。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


robin 20210113




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

奥羽の群雄割拠 その44

『大崎氏と葛西氏の抗争 その3』

大崎氏と葛西氏の抗争は、どのような経過をたどったのでしょう。

両氏の最初の衝突は、永享・嘉吉の兵乱の時と伝えられ、応仁元年(1467年)、文明元年(1

469年)にも衝突があったという。

寺池城
te.寺池城

文明4年(1472年)には迫川上流、磐井・栗原両郡の境にある流郷の境界についての争乱があ

り、以後、流郷やそれに隣接した三迫地方は、両者抗争の焦点となった。

ついで明応7年(1498年)大崎義兼の時、大崎領内に内乱が生じ、義兼は伊達成宗に援助を求

めた。

葛西領内でもこの内乱に呼応して騒擾がおき、葛西一族の薄衣氏は義兼に味方して、佐沼城を攻め

た。

葛西太守は薄衣城を攻めたが、磐井・本吉方面の領主は薄衣氏に味方する者もあって、領内は混乱

した。

永正12年(1515年)には登米郡吉田村で両氏の衝突があり、吉田は佐沼と登米(寺池)の中

間の土地で、佐沼は当時、大崎氏の領有であった。

ついで大永3年(1523年)7月、佐沼および深谷で両氏が交戦したという。

深谷は遠田・桃生の郡境です。

享録4年(1531年)8月には、佐沼城およびその四方の新田村付近で両者の戦闘があった。

その頃の葛西氏の当主は晴重、大崎氏は高兼でした。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


robin 20210112



<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

奥羽の群雄割拠 その43

『大崎氏と葛西氏の抗争 その2』

葛西氏は、一族を多数現地に分封し、同族的な結合力が強かった。

ただその領土の地形が北上川筋を南北に細長くのびており、統治に不便なばかりでなく、中央の登

米郡付近で領土を切断される危険があった。

葛西氏家紋(三つ柏)
ka.葛西氏家紋

そこで室町時代以降は、危険地帯の要に当たる寺池に根拠を移し、登米・栗原両郡の境にある佐沼

を前線基地として全領を防衛するとともに、寺池以北の磐井・伊沢・江刺・気仙方面の経営に全力

を注いだ。

このうち磐井・伊沢は鎌倉時代からの所領であるが、江刺・気仙は必ずしもそうでなく、一円知行

ではないから、他氏の所領も多数入り混じっていた。

特に千葉氏は千葉6党と称し、磐井・気仙方面にはすこぶるはびこっていた。

さらにその北には斯波・和賀・閉伊・稗貫・工藤・戸沢の諸氏がひかえ、北方の南部氏との中間地

帯を形成している。

このような四周の情況下において、葛西氏としては、西からの大崎氏の進出を中央部で防ぐととも

に、磐井・伊沢の地盤を固め、江刺・気仙を支配下に収め、進んで緩衝地帯の大名を帰服させる必

要があった。

そのため、もっとも警戒すべき存在は大崎氏であり、遠交近攻の立場から伊達氏との接近政策が生

まれた。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


robin 20210111




<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム