奥羽の群雄割拠 その108
『伊達政宗、人取橋の戦い その19』
芦名氏の滅亡により、会津・大沼・川沼・摩耶4郡・安積半郡・下野の塩野・越後の蒲原両郡は伊
達領となり、政宗は名実ともに奥羽最強の大名となった。
伊達政宗(1567-1636年)

政宗は治城を黒川に定め、8月伊南・伊北の地を平定、白河郡主・白河義親も麾下に参加した。
いまや仙道では須賀川の二階堂氏のみが政宗に対抗していたが、これより先、二階堂氏は当主・盛
義が没し、夫人が家政をとっていた。
夫人は伊達晴宗の娘で、政宗の伯母にあたる。
政務を握ること10年、よく民心を収攬し、佐竹・岩城氏と連盟して伊達・田村氏と対抗してきた。
10月に至り、政宗は書を送って和を勧めたが、きかないので、ついに伊達軍は須賀川城の攻撃を
開始し、城兵600は死守したが、26日、ついに落城し、二階堂氏は亡んだ。
政宗は伯母を信夫郡杉目おき厚遇したが、彼女はまもなく去って岩城氏に頼り、さらに佐竹氏の保
護を受け、佐竹氏が秋田に移る際も同行し、途上に没した。
宝樹院と号し、須賀川の二階堂氏菩提寺長禄寺に葬られた。
11月、石川郡の石川昭光が麾下に属し、12月には岩城常隆も和睦して、田村領の侵略地を返還
したから、政宗の仙道経略はここに完成した。
奥羽の戦国武将に長い間、お付き合い戴きありがとうございました。
次の戦国武将は、『鬼島津・島津義弘』を勉強したいと思います。良かったらお付き合いください。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
芦名氏の滅亡により、会津・大沼・川沼・摩耶4郡・安積半郡・下野の塩野・越後の蒲原両郡は伊
達領となり、政宗は名実ともに奥羽最強の大名となった。
伊達政宗(1567-1636年)

政宗は治城を黒川に定め、8月伊南・伊北の地を平定、白河郡主・白河義親も麾下に参加した。
いまや仙道では須賀川の二階堂氏のみが政宗に対抗していたが、これより先、二階堂氏は当主・盛
義が没し、夫人が家政をとっていた。
夫人は伊達晴宗の娘で、政宗の伯母にあたる。
政務を握ること10年、よく民心を収攬し、佐竹・岩城氏と連盟して伊達・田村氏と対抗してきた。
10月に至り、政宗は書を送って和を勧めたが、きかないので、ついに伊達軍は須賀川城の攻撃を
開始し、城兵600は死守したが、26日、ついに落城し、二階堂氏は亡んだ。
政宗は伯母を信夫郡杉目おき厚遇したが、彼女はまもなく去って岩城氏に頼り、さらに佐竹氏の保
護を受け、佐竹氏が秋田に移る際も同行し、途上に没した。
宝樹院と号し、須賀川の二階堂氏菩提寺長禄寺に葬られた。
11月、石川郡の石川昭光が麾下に属し、12月には岩城常隆も和睦して、田村領の侵略地を返還
したから、政宗の仙道経略はここに完成した。
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奥羽の群雄割拠 その107
『伊達政宗、人取橋の戦い その18』
この摺上原の戦闘で、芦名軍の戦死は2千5百と称され、伊達勢5百の討死とも伝わります。
当時、政宗は23歳、芦名義広は20歳に満たない青年であったから、戦いも機動性にとみ、まれ
に見る激烈なものであったという。
青葉城の政宗公

しかし芦名軍は内部に国家老と佐竹家からの付家老の対立があり、戦闘中にも、白石宗実らが進撃
した際、見物の百姓・雑人が騒いだのを、離反と勘違いして色めいたとあるほどで、統制も不統一
であったのです。
個々の武士はよく奮戦したが、全軍の士気は伊達軍には及ばなかったのでしょう。
政宗は休む暇もなく黒川に進軍し、芦名方では世臣の富田美作・平田左京らが降伏したため、体制
を立て直す余裕がなく、義弘は会津を捨てて常陸に走り、鎌倉以来の名族・芦名氏は滅亡した。
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この摺上原の戦闘で、芦名軍の戦死は2千5百と称され、伊達勢5百の討死とも伝わります。
当時、政宗は23歳、芦名義広は20歳に満たない青年であったから、戦いも機動性にとみ、まれ
に見る激烈なものであったという。
青葉城の政宗公

しかし芦名軍は内部に国家老と佐竹家からの付家老の対立があり、戦闘中にも、白石宗実らが進撃
した際、見物の百姓・雑人が騒いだのを、離反と勘違いして色めいたとあるほどで、統制も不統一
であったのです。
個々の武士はよく奮戦したが、全軍の士気は伊達軍には及ばなかったのでしょう。
政宗は休む暇もなく黒川に進軍し、芦名方では世臣の富田美作・平田左京らが降伏したため、体制
を立て直す余裕がなく、義弘は会津を捨てて常陸に走り、鎌倉以来の名族・芦名氏は滅亡した。
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奥羽の群雄割拠 その106
『伊達政宗、人取橋の戦い その17』
湖岸、山麓と2列になって摺上原へ進軍した。
芦名軍は先陣がまず猪苗代隊に打ちかかり、ついで伊達の2陣片倉隊をも突きくずし、全軍が政宗
の本隊をめがけ突進した。
青葉城の政宗公

たまたま西風が吹き、砲煙・馬煙が立ちこめて、形勢は伊達軍に不利に見えたが、4陣白石隊と3
陣の伊達成実隊が湖水の方から横合いに鉄砲を撃ちかけ、大内・片平の両隊も左右から救援して芦
名の本隊に攻めかかり、乱戦となった。
朝は西から吹いていた強風が、東に変わり、砂塵と硝煙で方向もわからず、馬の足音、太刀のひび
きだけが聞こえたが、ここで芦名軍は津川城主・金上盛満らが討死した。
芦名義広は退却した諸隊をまとめて、政宗の本隊に対し最後の決戦を挑み、追いつ追われつの激戦
となった。
芦名軍は小勢であり、かつ譜代の富田・平田・松本などの諸氏は、背後にあって反旗をふるがえし、
新橋川の橋を焼いて退路を絶ったから芦名軍はついに大敗し,義広はかろうじて黒川城に入った。
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湖岸、山麓と2列になって摺上原へ進軍した。
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の本隊をめがけ突進した。
青葉城の政宗公

たまたま西風が吹き、砲煙・馬煙が立ちこめて、形勢は伊達軍に不利に見えたが、4陣白石隊と3
陣の伊達成実隊が湖水の方から横合いに鉄砲を撃ちかけ、大内・片平の両隊も左右から救援して芦
名の本隊に攻めかかり、乱戦となった。
朝は西から吹いていた強風が、東に変わり、砂塵と硝煙で方向もわからず、馬の足音、太刀のひび
きだけが聞こえたが、ここで芦名軍は津川城主・金上盛満らが討死した。
芦名義広は退却した諸隊をまとめて、政宗の本隊に対し最後の決戦を挑み、追いつ追われつの激戦
となった。
芦名軍は小勢であり、かつ譜代の富田・平田・松本などの諸氏は、背後にあって反旗をふるがえし、
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奥羽の群雄割拠 その105
『伊達政宗、人取橋の戦い その16』
猪苗代氏の謀反を聞いた芦名義広は、安積・安達への進軍をあきらめて急ぎ帰国し、兵7千を12
隊に分け猪苗代に進出した。
猪苗代城大手門

義広帰国の報を聞いた政宗は、老臣の慎重論をしりぞけて猪苗代に急行、兵5千を8隊に分け、赤
埴山下の八ツ森に陣した。
6月5日、奥羽最大の戦闘が、磐梯山麓、湖水を見渡す摺上原に展開されようとした。
伊達軍は先鋒・猪苗代盛国、2隊・片倉景綱、3隊・伊達成実、4隊・白石宗実、5隊は政宗本隊、
6隊・大内定綱、後隊・片平親綱であった。
一方、芦名軍は普藤高森山に陣を敷き、一番に新国上総介、二番に羽石駿河、三番に益子新右衛門
・阿子島治部之介、湖水の岸には金子遠江・荒井長門・二本松右京・新庄弾正が陣を取り、八ツ森
の伊達軍と相対して、戦機を待った。
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猪苗代城大手門

義広帰国の報を聞いた政宗は、老臣の慎重論をしりぞけて猪苗代に急行、兵5千を8隊に分け、赤
埴山下の八ツ森に陣した。
6月5日、奥羽最大の戦闘が、磐梯山麓、湖水を見渡す摺上原に展開されようとした。
伊達軍は先鋒・猪苗代盛国、2隊・片倉景綱、3隊・伊達成実、4隊・白石宗実、5隊は政宗本隊、
6隊・大内定綱、後隊・片平親綱であった。
一方、芦名軍は普藤高森山に陣を敷き、一番に新国上総介、二番に羽石駿河、三番に益子新右衛門
・阿子島治部之介、湖水の岸には金子遠江・荒井長門・二本松右京・新庄弾正が陣を取り、八ツ森
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奥羽の群雄割拠 その104
『伊達政宗、人取橋の戦い その15』
郡山対陣の撤退後、伊達氏の友邦田村氏は内部に動揺があり、天正17年(1589年)4月、相馬
氏や岩城氏が田村領に侵入した。
伊達氏の居城・米沢城

政宗は会津・岩城討伐のため米沢を発し、5月、安積郡の阿子島・高玉両城を攻略した。
これは芦名氏が支配する城で、仙道より猪苗代への入口にあたる要衝であった。
これに対し、佐竹・岩城・相馬の諸軍は田村領を侵略し、芦名義広も岩瀬郡に進み、諸軍と連合して
安積郡に進出しようとした。
こうして第2の郡山対陣が出現する形成となったが、これを一挙に打破したものは、猪苗代盛国の伊
達氏への降伏であった。
猪苗代氏はもともと芦名家にとっては半独立の外様的家臣であり、盛国は当主・義広と不仲であった
ので、政宗は伊達成実と片倉景綱に盛国と密約を結ばせ、6月2日、猪苗代進軍を布告した。
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郡山対陣の撤退後、伊達氏の友邦田村氏は内部に動揺があり、天正17年(1589年)4月、相馬
氏や岩城氏が田村領に侵入した。
伊達氏の居城・米沢城

政宗は会津・岩城討伐のため米沢を発し、5月、安積郡の阿子島・高玉両城を攻略した。
これは芦名氏が支配する城で、仙道より猪苗代への入口にあたる要衝であった。
これに対し、佐竹・岩城・相馬の諸軍は田村領を侵略し、芦名義広も岩瀬郡に進み、諸軍と連合して
安積郡に進出しようとした。
こうして第2の郡山対陣が出現する形成となったが、これを一挙に打破したものは、猪苗代盛国の伊
達氏への降伏であった。
猪苗代氏はもともと芦名家にとっては半独立の外様的家臣であり、盛国は当主・義広と不仲であった
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