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島津義弘の関ヶ原 その303

『武士の意気地を見るべし その49』

井伊直政は、島津の嘆願書を快諾した。

「これよりは島津家をお守りいたす」

すがられたことで、武士の誇りが満たされたのです。

島津義弘(1535-1619年)
sh.島津義弘

義弘を討ちもらし、鉄砲傷まで負ったことも、島津の武勇を讃える気持ちに変わった。

慶長7年(1602年)4月11日、家康の裁定が下った。

島津の所領は安堵、義弘の身も保証された。

なんと、関ケ原合戦から2年もの月日が経っていた。

島津義弘は70過ぎまで島津の政事に参画し、引退後は領民の教化につとめ、波乱の生涯をふりかえ

って『御自記』を書きまとめた。

元和5年(1619年)7月21日。 享年85歳

大薩摩の長たる島津義弘は、畳の上で眠るがごとく大往生した。

「玄妙なり、関ケ原・・・」

瞳をとじるとき、義弘の目に最後に映じたのは、関ケ原の広野に咲き乱れる深紅の彼岸花であったで

しょう。


島津義弘に長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。

次回の武将は、戦国時代がまだ、まだ残る徳川家光を勉強してみたいと思います。

ぜひ、お付き合い戴ければ、嬉しいです!


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robin 20220216




<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>

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島津義弘の関ヶ原 その302

『武士の意気地を見るべし その48』

故国に帰った義弘は表舞台から姿を消し、桜島に蟄居した。

島津氏は恭順の意を示したが、だが国境を兵で固め、いつで敵を迎え撃つ気概を忘れなかった。

井伊直政(1561-1602)
ii.井伊直政
※直政は、島津軍から受けた鉄砲傷がもとに、関ケ原の戦いの2年後に没したといわれます。

島津義弘への処置は、勝者・家康に残された最大の悩みであった。

勇敢な島津は、毛利や上杉とは家風が違う。

大減封に素直に従うとは思えなかった。

南九州の全面鎮圧には多大な犠牲が伴う。

島津はいつも意外な出方をする。

義弘は、家督をゆずった島津忠恒に不可思議なことを提案した。

「井伊直政にすがれ」

「父上、何を申される。井伊直政こそ家康の腹心。関ケ原では追撃され、もっとも烈しい矛を交えた

相手ではごわはんか」

「血を流し合った仲なればこそ、人の情けも通うというものじゃ」

「そげですか」

忠恒は奇策にのった。

井伊直政に嘆願書を送り、一心に謝罪を述べたという。



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robin 20220215




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島津義弘の関ヶ原 その301

『武士の意気地を見るべし その47』

遠く近く、関ケ原の広野に戦闘中止の法螺貝が鳴り渡った。

戦は集結し、東軍の追撃も終わった。

関ケ原激戦の地碑
se.関ヶ原激戦地 001

いつしか雨も上がり、山の稜線が真っ赤な夕焼けで染まっている。

もっとも長い一日が暮れようとしていた。

義弘は山駕籠から下りて、いちど大きく背伸びした。

「天地よく知る・・・」

低くつぶやき、ゆったりと美濃の山野を見回した。

壮絶な敵中突破は成った。

半月後の9月29日、島津義弘は無事に自領の日向細島へ帰り着いた。

敗軍の帰路は困難をきわめた。

伊勢から海路をとれば安易に帰国できたが、義弘はわざわざ陸路をとって上方に向かったのです。

義弘は老いた妻を見捨てるような男でなく、家康の目が光る危険地帯に押し入った。

人質となっていた夫人を住吉で奪還し、堺港から乗船して一路、故国をめざした。



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robin 20220214




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島津義弘の関ヶ原 その300

『武士の意気地を見るべし その46』

落馬して側頭部を打った井伊直政は、意識がもうろうとしている。

追撃の命令が発せない。

井伊直政(1561-1602年)
ii.井伊直政

一緒に先頭を駆けていた家康の4子・松平忠吉までも、膝に銃創を負っていた。

「恐ろしきは薩摩のステガマリぞ・・・」

忠吉には、これ以上の追撃命令は出せなかった。

徳川四天王筆頭の井伊直政は、このときの鉄砲傷が素因となって、2年後に病死することになる。

ステガマリ最後の一弾が、義弘の窮地を救った。

最大の殊勲者・柏田源蔵は恩賞にあずかることなく、ステガマリの戦法に従い、独り井伊軍に突撃をかけ

て斬り死にした。

義弘を乗せた山駕籠は、和田村を走り抜け一之瀬の山路へ入った。

薩摩の長に付き従い者は駕籠かつぎの4名を含め、わずか13人過ぎなかった。



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robin 20220213




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島津義弘の関ヶ原 その299

『武士の意気地を見るべし その45』

「もはや防備の兵もなし・・・」

軍師の新納旅庵は万事休した。

山駕籠の義弘はまったく無防備となった。

追撃の井伊軍
ii.井伊軍

800の騎馬隊に追いつかれ、討ちとられるのは必至となった。

その時、運命の一弾が発射された。

たったひとり生き残ったステガマリの柏田源蔵が、最後の一弾を無心で撃った。

弾丸は見事に敵将。井伊直政の左肩に命中した。

「あっ」

直政は横倒しに落馬した。

臣下の者たちは馬をとめ、主君のそばに駆け寄った。

井伊の騎馬隊は、義弘の山駕籠にあと一歩にまで肉薄しながら急停止した。



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robin 20220212




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