徳川家光 その64
『家光は名君?』
日光東照宮の造営には13年の長い年月を要して完成したとか、諸大名の財力をそぐために多くの金
を出させたり、建造物を寄進させたりして、幕府自身は殆んど金を使わなかったという説が踏襲され
てきたが、東照宮から出た「徳川家光公伝」によると、工期1年半、費用は全部幕府が支出し、それ
は金56万8千両、銀百貫目、米千石であるという。
日光東照宮五重塔

東照宮に諸大名から献納しとある鳥居や、石灯籠や、五重塔や、有名な杉並木の杉なども、みな後年
の寄進であるという。
『誰からの寄進も受けない。おれがひとりでやる』
と、いう家光の意志だったというのです。
家康が有難くてならず、敬愛の情を捧げたくてならない家光としては、もっともなことであったので
しょう。
日光東照宮が、ある面での日本建築の粋を集めたもので、今日立派な文化財となり、世界の人々
を驚嘆させていることも、家光の価値には関係ないことです。
徳川家の勢力が最も堅固にかたまり、将軍が最もはなやかな存在である頃に将軍となり、当時の老中
らが懸命になって家光を名君として宣伝したので、名君ということになったのだと思われます。
徳川家光にお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、キリシタン大名・蒲生氏郷を勉強してみたいと思います。
お付き合いいただければ、嬉しいです!
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いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
日光東照宮の造営には13年の長い年月を要して完成したとか、諸大名の財力をそぐために多くの金
を出させたり、建造物を寄進させたりして、幕府自身は殆んど金を使わなかったという説が踏襲され
てきたが、東照宮から出た「徳川家光公伝」によると、工期1年半、費用は全部幕府が支出し、それ
は金56万8千両、銀百貫目、米千石であるという。
日光東照宮五重塔

東照宮に諸大名から献納しとある鳥居や、石灯籠や、五重塔や、有名な杉並木の杉なども、みな後年
の寄進であるという。
『誰からの寄進も受けない。おれがひとりでやる』
と、いう家光の意志だったというのです。
家康が有難くてならず、敬愛の情を捧げたくてならない家光としては、もっともなことであったので
しょう。
日光東照宮が、ある面での日本建築の粋を集めたもので、今日立派な文化財となり、世界の人々
を驚嘆させていることも、家光の価値には関係ないことです。
徳川家の勢力が最も堅固にかたまり、将軍が最もはなやかな存在である頃に将軍となり、当時の老中
らが懸命になって家光を名君として宣伝したので、名君ということになったのだと思われます。
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徳川家光 その63
『日光東照宮造営』
家光にとって、家康は最もありがたい人であった。
家康が家光を相続者と決めてくれなければ、家光は将軍になることはできなかったのでしょう。
日光東照宮・陽明門

彼が家康を崇敬思慕したことは非常なもので、将軍となって以来、ずっとこの偉大にして、自分にと
っては特にありがたい祖父の廟所を、最も壮麗に営みたいと考え続けていたが、秀忠が生きている間
はそれが出来なかった。
秀忠が堅実好みの人であったためもあったのでしょうが、一つには自分を廃嫡する気持ちすら持って
いた父に対するあてつけのように取られる心配があったのでしょう。
秀忠が寛永9年正月24日に死に、翌年、弟の忠長を自殺させると、11年には工事設計にかかり、
13年5月に完成させた。
壮麗を極めたことは、今日、私たちが見るとおりです。
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家光にとって、家康は最もありがたい人であった。
家康が家光を相続者と決めてくれなければ、家光は将軍になることはできなかったのでしょう。
日光東照宮・陽明門

彼が家康を崇敬思慕したことは非常なもので、将軍となって以来、ずっとこの偉大にして、自分にと
っては特にありがたい祖父の廟所を、最も壮麗に営みたいと考え続けていたが、秀忠が生きている間
はそれが出来なかった。
秀忠が堅実好みの人であったためもあったのでしょうが、一つには自分を廃嫡する気持ちすら持って
いた父に対するあてつけのように取られる心配があったのでしょう。
秀忠が寛永9年正月24日に死に、翌年、弟の忠長を自殺させると、11年には工事設計にかかり、
13年5月に完成させた。
壮麗を極めたことは、今日、私たちが見るとおりです。
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徳川家光 その62
『大老・中老が舵きり』
菊池寛氏は
「鎖国は徳川氏のためにはなったが、日本のためにはならなかった。日本のためには悪いにきまって
いる」
と述べています。
江戸城天守台

鎖国したために、日本は広い世界からの風波の影響が及ぶのをまぬかれ、コップの中の平和を2世紀
半に渡って保ち、徳川家は安泰であることが出来たが、そのために日本人は損したという意味なので
しょう。
端的で、核心をえぐった意見だということでしょう。
これも家光が鎖国がよいと主張して決めた訳ではなく、大老や中老らが決めたことでしょう。
この点、家光は信長や、秀吉や、家康とは違う。
この人々はみな自分で判断し、自分が決定したのです。
秀忠とも違う。
秀忠はこの人たちほどではなかったが、それでも半分くらいは自分で考え、自分で決定しているので
す。
家光は全然重臣まかせであったといいます。
この頃の重臣たちは一人のこらずお家中心で、幕府安泰ということだけを考えて鎖国に踏み切ったに
違いないでしょう。
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菊池寛氏は
「鎖国は徳川氏のためにはなったが、日本のためにはならなかった。日本のためには悪いにきまって
いる」
と述べています。
江戸城天守台

鎖国したために、日本は広い世界からの風波の影響が及ぶのをまぬかれ、コップの中の平和を2世紀
半に渡って保ち、徳川家は安泰であることが出来たが、そのために日本人は損したという意味なので
しょう。
端的で、核心をえぐった意見だということでしょう。
これも家光が鎖国がよいと主張して決めた訳ではなく、大老や中老らが決めたことでしょう。
この点、家光は信長や、秀吉や、家康とは違う。
この人々はみな自分で判断し、自分が決定したのです。
秀忠とも違う。
秀忠はこの人たちほどではなかったが、それでも半分くらいは自分で考え、自分で決定しているので
す。
家光は全然重臣まかせであったといいます。
この頃の重臣たちは一人のこらずお家中心で、幕府安泰ということだけを考えて鎖国に踏み切ったに
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徳川家光 その61
『鎖国を“非”とする意見』
鎖国を『非』とする人々はいう。
1、鎖国のために、日本は世界の文化の進運に2世紀半遅れた。明治以降の日本のあわただしさは、
この遅れを取り戻すために生じたものである。
黒船来航

2、鎖国によって生じた功のごとく見えるものは、ことごとく日本人の功であって、鎖国そのもの
の功ではない。人間は活物である。すぐれた人間はすぐれた活物である。こんな人間は与えら
れた境遇に空しく屈服はしない。その境遇内でも最も立派に生きる努力をする。このため日本の
鎖国も美果を実らせることができたのだ。もし、鎖国時代というものがなかったら、それはそれ
でまた最善の努力をして、よき精華を咲かせたのだろう。
3、以上のようであるから、金銀も流出ばかりしなかったであろう。かえって流入させていたのか
も知れない。
4、当時の西欧諸国のありさまを見て、日本が侵略されたとは思われなく、むしろ日本こそ南洋各
地やアフリカ西部に進出していたかも知れない。
鎖国を『よし』とする人、『非』とする人、いずれの側にも理があります。
こんなことは解釈ですから、どちらが当たっているかわからないのです。
好みからいうと、鎖国を非とする論議の方に軍配をあげたいものです。
人間が努力し、成長し、変化する活物であることを認めて、これを前提としない議論は、人間を対
象とする問題においては意味がありません。
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鎖国を『非』とする人々はいう。
1、鎖国のために、日本は世界の文化の進運に2世紀半遅れた。明治以降の日本のあわただしさは、
この遅れを取り戻すために生じたものである。
黒船来航

2、鎖国によって生じた功のごとく見えるものは、ことごとく日本人の功であって、鎖国そのもの
の功ではない。人間は活物である。すぐれた人間はすぐれた活物である。こんな人間は与えら
れた境遇に空しく屈服はしない。その境遇内でも最も立派に生きる努力をする。このため日本の
鎖国も美果を実らせることができたのだ。もし、鎖国時代というものがなかったら、それはそれ
でまた最善の努力をして、よき精華を咲かせたのだろう。
3、以上のようであるから、金銀も流出ばかりしなかったであろう。かえって流入させていたのか
も知れない。
4、当時の西欧諸国のありさまを見て、日本が侵略されたとは思われなく、むしろ日本こそ南洋各
地やアフリカ西部に進出していたかも知れない。
鎖国を『よし』とする人、『非』とする人、いずれの側にも理があります。
こんなことは解釈ですから、どちらが当たっているかわからないのです。
好みからいうと、鎖国を非とする論議の方に軍配をあげたいものです。
人間が努力し、成長し、変化する活物であることを認めて、これを前提としない議論は、人間を対
象とする問題においては意味がありません。
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徳川家光 その60
『鎖国を“よし”とする意見』
鎖国の功罪については、明治以後いろいろな論議があり、『よし』とする側では、
出島鳥瞰図

1、 金銀貨の海外流出をせき止めた。
2、 国を鎖して外からの風の通い路を塞いだために、2世紀半もの間、平和が保てた。
3、 2世紀半の平和の間に、温室の中で酒が醗酵するように文化が成熟した。今日の日本的文化と
いわれるものは、みなこの時代にできたものです。
4、 こんなに高度な文化が出来ていたから、明治になって西欧の文化を容易に消化させることがで
きた。
5、 国を開いていたら、西欧諸国に侵略されていたであろう。
鎖国を可とする人々の説は、以上に尽きるようです。
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鎖国の功罪については、明治以後いろいろな論議があり、『よし』とする側では、
出島鳥瞰図

1、 金銀貨の海外流出をせき止めた。
2、 国を鎖して外からの風の通い路を塞いだために、2世紀半もの間、平和が保てた。
3、 2世紀半の平和の間に、温室の中で酒が醗酵するように文化が成熟した。今日の日本的文化と
いわれるものは、みなこの時代にできたものです。
4、 こんなに高度な文化が出来ていたから、明治になって西欧の文化を容易に消化させることがで
きた。
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鎖国を可とする人々の説は、以上に尽きるようです。
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