蒲生氏郷 その119
『氏郷は不運な人であった?』
氏郷が中山道を通って京上りする時の彼の紀行文があって、蒲生軍紀に収めてあります。
文章も流麗な和文ですが、中に九首の歌があります。
蒲生氏郷(1556-1595年)

信濃なる浅間の嶽は何を思ふ
われのみ胸をこがすと思へば
思ひきや人の行くへは定めなし
わが古郷をよそに見んとは
あとの歌が近江路を通る時のものであることは言うまでもありません。
戦国武将としては出色の歌人であったことがわかります。
氏郷は、いわゆる文武両道の達人であったのです。
氏郷は不運な人といってよいのでしょう。
その器量に比べると、決して十分とはいえません。
秀吉の没後、15年生きていたら、天下はどんなことになったのであろうと思うと、彼のため一椈
(いっきく)の涙を誘います。
蒲生氏郷に長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は、戦国時代より少し前の南北朝時代の「楠木正儀」を勉強してみたいと思いいます。
よかったらお付き合いくだされば、幸いです。
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<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
氏郷が中山道を通って京上りする時の彼の紀行文があって、蒲生軍紀に収めてあります。
文章も流麗な和文ですが、中に九首の歌があります。
蒲生氏郷(1556-1595年)

信濃なる浅間の嶽は何を思ふ
われのみ胸をこがすと思へば
思ひきや人の行くへは定めなし
わが古郷をよそに見んとは
あとの歌が近江路を通る時のものであることは言うまでもありません。
戦国武将としては出色の歌人であったことがわかります。
氏郷は、いわゆる文武両道の達人であったのです。
氏郷は不運な人といってよいのでしょう。
その器量に比べると、決して十分とはいえません。
秀吉の没後、15年生きていたら、天下はどんなことになったのであろうと思うと、彼のため一椈
(いっきく)の涙を誘います。
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蒲生氏郷 その118
『家宝を細川忠興に贈る』
氏郷の逸話が、蒲生軍紀に出ています。
蒲生家に先祖代々伝わった佐々木高綱の鎧があった。
これを細川忠興が所望した。
細川忠興(1563-1646年)

亘理八右衛門という家来が
「これはご当家の重宝でござれば、他につかわさるることはいかが。似よりのものをもととめて、お
つかわしになるがようござる」
と言った。
氏郷は
「『なき名ぞ人には言ひてやみなまし心の問はば何と答へん』という古歌がある。人は知らずとも、
わが心がとがめる」
と言って、忠興に贈った。
忠興は所望はしたものの、人の家の重代な宝器を心ないことをしていまったと後悔して、返却しよう
と申し込んだが、氏郷は
「すでに差し上げたものでござる。さようなごしんしゃくはいらぬこと」
と受取ろうとしない。
氏郷の死後、子・秀行に返したという
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氏郷の逸話が、蒲生軍紀に出ています。
蒲生家に先祖代々伝わった佐々木高綱の鎧があった。
これを細川忠興が所望した。
細川忠興(1563-1646年)

亘理八右衛門という家来が
「これはご当家の重宝でござれば、他につかわさるることはいかが。似よりのものをもととめて、お
つかわしになるがようござる」
と言った。
氏郷は
「『なき名ぞ人には言ひてやみなまし心の問はば何と答へん』という古歌がある。人は知らずとも、
わが心がとがめる」
と言って、忠興に贈った。
忠興は所望はしたものの、人の家の重代な宝器を心ないことをしていまったと後悔して、返却しよう
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蒲生氏郷 その117
『大名の身代』
秀吉がある大名が死んで、その子の代になると、削封して国替えした例は、蒲生家だけではありませ
ん。
堀秀政の場合もそうです。
豊臣秀吉(1537-1598年)

加賀の前田家なども、もし秀吉に先立って利家が死んだなら、同様の処置を免れることはできなかっ
たでしょう。
後世太平になってからの大名の跡目相続のようには考えていけないのです。
もっとも、こういう処置は、秀吉が取り立てた大名に限ることはいうまでもありません。
徳川であるとか、島津であるとかの外様大名は、当主死亡というのもありませんでしたが、あっても
この処置はしなかったでしょう。
これらの大名の身代は秀吉の恩恵によるものではないのです。
みな自分の力で稼ぎ出したものであり、何よりもへたなことをしては、うるさいことになるからです。
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豊臣秀吉(1537-1598年)

加賀の前田家なども、もし秀吉に先立って利家が死んだなら、同様の処置を免れることはできなかっ
たでしょう。
後世太平になってからの大名の跡目相続のようには考えていけないのです。
もっとも、こういう処置は、秀吉が取り立てた大名に限ることはいうまでもありません。
徳川であるとか、島津であるとかの外様大名は、当主死亡というのもありませんでしたが、あっても
この処置はしなかったでしょう。
これらの大名の身代は秀吉の恩恵によるものではないのです。
みな自分の力で稼ぎ出したものであり、何よりもへたなことをしては、うるさいことになるからです。
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蒲生氏郷 その116
『能力給』
秀吉は随分と好色であり、特に織田信長の血筋の女性には異常なくらい執着を持っていたことは事実
のようですから、氏郷の未亡人に対しても、恋慕の情があったのでしょう。
大阪城の秀吉公

しかし、肘鉄砲を食らってかなわぬ恋の憂さ晴らしに身代をとり上げたという解釈は、当時の大名の
務めに対する考察が足りないと思います。
当時の大名は太平無事の時代の大名とは違い、その人物が見込まれて、その地方の堅めとして、大封
をあてがわれて、その地にいたのです。
その封は、今の言葉で言えば能力給であり、当人が死んでも跡継ぎの者が当人同様の能力があればよ
いが、なければ削封されて他の重要でない土地に移されるのは当然の処置といってよいのです。
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大阪城の秀吉公

しかし、肘鉄砲を食らってかなわぬ恋の憂さ晴らしに身代をとり上げたという解釈は、当時の大名の
務めに対する考察が足りないと思います。
当時の大名は太平無事の時代の大名とは違い、その人物が見込まれて、その地方の堅めとして、大封
をあてがわれて、その地にいたのです。
その封は、今の言葉で言えば能力給であり、当人が死んでも跡継ぎの者が当人同様の能力があればよ
いが、なければ削封されて他の重要でない土地に移されるのは当然の処置といってよいのです。
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蒲生氏郷 その115
『秀吉、氏郷の未亡人に横恋慕』
氏郷の死後、秀吉は一旦、会津百万石を子細なく子の秀行に安堵したが、まもなく蒲生家の家中に家
来どもの喧嘩が起こったので、百万石をとり上げ、宇都宮18万石を与えた。
宇都宮城(宇都宮城登城記は「こちら」です。)

このことも、秀吉は悪くいわれています。
秀吉が氏郷の未亡人に横恋慕して召そうとしたが、未亡人は受け付けない。
蒲生家の家来は
「ご身上かえ給うべきことではござらぬ。お召に応じさせられてしかるべし」
と、勧めた。未亡人は
「力およばず」
とは言ったが、剃髪して尼になった。
秀吉は怒って、この処置をしたのだと、蒲生軍紀には記しています。
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氏郷の死後、秀吉は一旦、会津百万石を子細なく子の秀行に安堵したが、まもなく蒲生家の家中に家
来どもの喧嘩が起こったので、百万石をとり上げ、宇都宮18万石を与えた。
宇都宮城(宇都宮城登城記は「こちら」です。)

このことも、秀吉は悪くいわれています。
秀吉が氏郷の未亡人に横恋慕して召そうとしたが、未亡人は受け付けない。
蒲生家の家来は
「ご身上かえ給うべきことではござらぬ。お召に応じさせられてしかるべし」
と、勧めた。未亡人は
「力およばず」
とは言ったが、剃髪して尼になった。
秀吉は怒って、この処置をしたのだと、蒲生軍紀には記しています。
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