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楠木正儀 その62

『不運な正儀』

「南北朝の対立は、今やなんの意義もない。対立のために悪害ばかり生じているのでないか」

と、正儀は違いないと思います。

楠木正儀(1333-1390年)
ku.楠木正儀02

彼は頭が良く、思慮周密な人物であったようですから、この見当は違いないと思います。

ただ、南朝方の天皇をはじめ公卿さん達の意向や、彼の一門の者らの武士的意気地が、彼のこの考えと

摩擦衝突して、彼を単なる裏切り者にしてしまったと思います。

南北朝はやがて合一したが、それは彼が死んで間もなくの元中9年10月であった。

どこまでも不運です。

彼の志をあわれと思い、また、その不運を悲しんでしまいます。



長いあいだ、楠木正儀にお付き合いいただき、ありがとうございました。

正儀さんが不運だといいながら、時代背景がいまひとつ分りませんでした。

ということで、順番が逆になってしまいますが、次は正儀の父・楠木正成を勉強してみたいと思います。

よかったら、お付き合いください!



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robin 20221024




<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>

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楠木正儀 その61

『大義名分が根本から乱れる』

正儀が不評判だった時代背景を見てみたいと思います。

南北朝の対立は、父・正成の時代、兄・正行の時代は、倫理的に大いに意義があった。

楠木正成公(皇居外苑)
ku楠木正成公(皇居外苑)

世を上げて混濁している時代に、大義名分のイデオロギーをかかげ、あくまでも大義を守りぬき、そ

れに殉じて壮烈な死を遂げることは、道義の貴重さを天下後世に知らしめるうえに大いに意義もあれ

ば価値もあります。

しかし、正儀の時代になっては、南北の対立から生ずる悪害があまりにも大きくなり過ぎた。

南北が対立しているために、果てしなく戦乱が続き、民は塗炭の苦しみにあえいでいた。

武士らが一時の怒りや不平や私利私欲のために、あるいは南朝に降り、北朝に帰服し、それをまた両

方とも一時の利のためにきわめて容易に受け入れていた。

大義名分は根本から乱れていたのです。

大義名分の根本であるべき南朝の皇室内にもしきりに醜い内訌が起こって、てんやわんやの騒ぎであ

ったのです。



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robin 20221023




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楠木正儀 その60

『正儀没する』

長慶天皇と後亀山天皇との間の位譲りについては、色々なごたごたが推察され。穏やかな譲位では

なかったようです。

楠木正儀の墓(大阪府千早赤坂)
ku.楠木正儀の墓(千早赤坂)

貧すれば鈍するするで、多年逆境にある南朝方には、いろいろと内訌があったようです。

正儀は南朝に帰順し、左兵衛督に復し、また北朝と戦ったりして、参議までなったが、元中7、8年

頃に没しています。

再び帰順してしてから8、9年後であった。

以上のように、正儀の出所進退が、父兄の清白堂々としているのに比べて、陰惨が多すぎるところが、

当時でも、また後世においても不評判なのですが、正儀に同情するところもあります。



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robin 20221022




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楠木正儀 その59

『また南朝に帰順』

このように、北朝所属の武将としては、正儀の生活はきわめて不愉快なものであったと思われますが、

北朝や足利家の彼に対する待遇も冷たかった。

楠木正儀(1333-1388年)
ku.楠木正儀02

彼は南朝で左兵衛督の官にあったのに、北朝ではその官をうばい、数年経ってやっと中務大輔を授け

た。

中務大輔は兵衛督より一格下です。

数年勤仕して前官より一格下に任ぜられるのでは、正儀は面白いはずはない。

こういうことから、古巣恋しい気持ちでいる時、南朝では対北朝強硬派の中心であられた長慶天皇が

すでに退位されて、後亀山天皇の世となっていたので、また南朝に帰順した。



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robin 20221021




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楠木正儀 その58

『異分子的感情』

北軍のこのだらしなさは、これまでも記してきたように、当時の武士の私欲満腹の根性のいたすとこ

ろですが、この場合はまた特別な原因もあったのでしょう。

正儀の父・楠木正成(1294-1336年)
ku.楠木正成 02

正儀に対して、異分子的感情があったのと思われます。

「やつは足利家ご代々のおん敵であった楠木の子であり、弟じゃ。本来ならば首はねてしかるべき兇

徒じゃ。われらが命がけで働いてやるべきものではないぞ」

という気持ちがあったに相違ないでしょう。

後世の徳川時代でも、譜代大名の外様大名、とりわけ関ケ原役で西軍に属した大名らに対する感情を

考えると、これは容易に理解できることです。



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robin 20221020




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