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楠木正成 その60

『節義のため湊川で死す』

湊川での正成の戦死は、前述のように考えると解釈がつきます。

彼はその抱懐している哲学の行者として、最も美しく死んでいったのであり、美しかったればこそ、

後世、彼に感憤して立ち上がる人を輩出したのです。

楠木正成墓所(神戸市・湊川神社)
ku.楠木正成墓所(湊川神社)

倫理というものは、往々にして時勢の流れと逆行することがありますが、それでも長い目で見れば、

人生に寄与していることが少なくありません。

韓退之は「伯夷頌」において、伯夷・叔斉をたたえて、この兄弟は時勢に逆行した人々であるが、

もし中国の史上、この両人がいなかったら、後世、乱臣賊子が踵(きびす)を接して出て来たに違

いないと書いています。

司馬遷は史記列伝のトップに「伯夷・叔斉伝」をおいていますが、これもここに見るところがあっ

たからでしょう。

正成が時勢を知っていたことは、後醍醐と尊氏の間を協調させようと努めてことをもってわかりま

す。

しかも彼は時勢に逆行して、節義のために湊川で死んだのです。

伯夷・叔斉以上の人物であったと思います。



楠木正成公にお付き合いいただき、ありがとうございました。

彼は金剛山一帯を本拠地とていましたが、確実な史料は存在せず、前半生はほとんど不明であり、

判明している生涯は元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどに過ぎません。

垣間見える後半生から、彼の一生を想像するのもいいものですね。

次回は、『せいしょこさん』(加藤清正)について、約1年かけて勉強したいと思います。

よかったら、お付き合いください!



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robin 20221221




<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
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楠木正成 その59

『大義名分論』

どんなに世が混濁しても、生まれつき正直な人間がいないとは言えないでしょうが、誘惑の充満して

いる時代に清白さを持ち続けるのは、生来の性質だけでは難しいのでしょう。

必ずや学問による修養と信念があってはじめて可能なことと思われます。

楠木正成(1294-1336年)
ku.楠木正成 02

正成の学問や修養について伝わるものはありませんが、彼の学問は当時、一部の知識階級で行われて

いた朱子学ではなかったのでしょうか。

人間の営みで全善のものはないですから、朱子学にも流弊はあります。

観念哲学である朱子学の大義名分論が、後醍醐一派の人々を誤った点が争うことはできませんが、予

想どおり彼が朱子学の信奉者であったとすれば、彼においてそれは最もよい意味で受用さるのでしょう。

思うに、正成は濁り切った世を規制するには、朱子学の大義名分論で行くより他はないと考え、その

行者たらんとしたのではないでしょうか。



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robin 20221220




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楠木正成 その58

『清白だった正成』

しかもなお、後醍醐の命に応じて立ち上がり、その後は生涯を勤王一途でとおし、子孫に至るまで

その節をかえていません。

尊氏は彼の人物才幹を高く買っているのですから、もし彼が尊氏に心を運んでこれに味方したら、

報いられることは一通りではなかった筈です。

彼のこの心術の潔白さは、どこから来ているのでしょう。

高 師直(不明ー1351年)
ko.高師直(こうのもろなお)02
※この画像は、従来、足利尊氏といわれていました。

この時代の豪族らが我欲旺盛で、無智で、暴悪なことは、後世の戦国時代よりまだ酷かったのです。

足利尊氏・直義の兄弟が、互いに他を陥れるために、交互に南朝に降ったことなどのほか、ひどい

話は多にも多くあります。

足利幕府の執事であった高師直が好色無比で、公卿の姫君を片っぱしから犯したことは太平記にも

ありますが、塵塚物語によると、彼は家臣の妻でよい女を、これまた片っぱしから犯したという。

仁木義長は三河・伊賀・伊勢など4国の守護であったが、神路山で狩猟し、五十鈴川で漁りすると

いう暴悪を働いています。

土岐頼遠は外出の途中光巌上皇のご幸に出あい、下馬せよといわれて、

「この頃京都でおれほどの者に下馬させる者はないはず、馬鹿者め、何を申す」

と罵った。

先駆や随身の者どもが走り寄って

「院のご幸ぞ。田舎者めが!」

と叱ったちころ、頼遠は

「院じゃと?犬のことか。犬なら射てくれよう」

と、弓に矢をつがえし、お車を中にとりこめ、馬を馳せよせ馳せ寄せ、矢を射かけたというのです。

こんな人が充満している時代に、正成の清白さはめずらしかったのです。



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robin 20221219




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楠木正成 その57

『承久の乱』

楠木正成は有名な人ですが、信用できる史料が乏しく、太平記に多く依らざるを得ません。

人物論をするにしても、信ずべからざる資料をもとにして、見当やカンをつけて論じるのも歴史を楽

しむひとつなのかもしれません。

承久の乱
sh.承久の乱

正成は最も精白な心術の人であったと思えます。

勤王の諸将といっても、その多くは幕府にたいして怨恨を含むべき因縁があった。

足利・新田の2氏が源氏の一族でありながら、臣下たる北条氏に幕府の権を奪われて、その意志のま

まに動かなければならないということは、言うまでもなく、その他の人々にしても、承久の乱に朝廷

方に味方したために所領を削られたり、その後、所領関係で怨みを含まなければならなかった者が多

い。

しかし、正成に家にはそうした因縁はない。

むしろ、成り上がりものながら、幕府のためにしばしば武功を立てて、荘園を貰ったりして、幕府の

受けは良い方だったのです。



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robin 20221218




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楠木正成 その56

『足利・新田の反目』

梅松論は足利びいきの書物ですから、正成に尊氏のことを弁護させたと解釈することもできるでし

ょう。

しかし、根のないことではないと思えます。

新田義貞(1301-1338年)
ni.新田義貞

正成は知恵明らかにして、心術曇りのない人物です。

彼の目から見る時、この争乱の根本のひとつに尊氏と新田義貞の反目確執があり、足利も新田も

つまりは我欲の人なのです。

とすれば世の平和のためには尊氏を助けて義貞を倒した方がよい。

尊氏はお人よしだから、義貞を倒した上での後醍醐の持って行きようでは、うまく操縦して叛心を

封じこめることが出来ると思案したのかも知れません。



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