加藤清正 Ⅱ その157
『清州会議』
清州会議の主宰者である勝家が、秀吉を嫌い、秀吉を蹴落とそうとしているのですから、会議の空気
は最初のうちは険悪を極めた。
清州城(清州城登城記は「こちら」です。)

しかし、なんといっても、弔い合戦を企て、中心になって成し遂げたのは、秀吉です。
この功績の前には、信長の第一の長臣であり、首位将軍である勝家の威名も及ばない。
織田家の跡継ぎとして、勝家は信長の3男・三七信孝を立てることを主張した。
彼は信孝が山崎合戦に参加したことを、その理由とした。
「山崎合戦は、羽柴の首唱で行われたとはいえ、三七様がお出でであったればこそ、諸人もおおいに
働いた。つまり、三七様は山崎合戦の総大将でおわす。お後継には、三七様こそしかるべし」
と言った。
それに対して、秀吉は
「家の相続は筋目(血統)を第一とするのは古今のならわしでござる。信長公のご嫡子は信忠公、
信忠公のご嫡子は三法師様でござる。ご幼年とは申しながら、まさしきご嫡孫がおわすものを、お立
てせぬ道理はありますまい」
と主張した。
勝家は反対したが、正論であり、勲功第一の主張であり、その主張が通った。
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<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
清州会議の主宰者である勝家が、秀吉を嫌い、秀吉を蹴落とそうとしているのですから、会議の空気
は最初のうちは険悪を極めた。
清州城(清州城登城記は「こちら」です。)

しかし、なんといっても、弔い合戦を企て、中心になって成し遂げたのは、秀吉です。
この功績の前には、信長の第一の長臣であり、首位将軍である勝家の威名も及ばない。
織田家の跡継ぎとして、勝家は信長の3男・三七信孝を立てることを主張した。
彼は信孝が山崎合戦に参加したことを、その理由とした。
「山崎合戦は、羽柴の首唱で行われたとはいえ、三七様がお出でであったればこそ、諸人もおおいに
働いた。つまり、三七様は山崎合戦の総大将でおわす。お後継には、三七様こそしかるべし」
と言った。
それに対して、秀吉は
「家の相続は筋目(血統)を第一とするのは古今のならわしでござる。信長公のご嫡子は信忠公、
信忠公のご嫡子は三法師様でござる。ご幼年とは申しながら、まさしきご嫡孫がおわすものを、お立
てせぬ道理はありますまい」
と主張した。
勝家は反対したが、正論であり、勲功第一の主張であり、その主張が通った。
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加藤清正 Ⅱ その156
『悔しい勝家』
柴田勝家はくやしさに目もくらむ思いであった。
元来、勝家と秀吉は仲が悪いのです。
北ノ庄城の勝家公

勝家は信長の家臣中、第一の先輩であり、第一の身分であった。
武功も数々積んで、首位将軍の地位にある。
ところが近年、秀吉がめきめきと頭を持ち上げてきて、武功を積み、信長の大の気に入りとなった
ので、勝家はねたましくてならないのです。
その秀吉が、早くも弔い合戦をやってのけて、明智を討取ったというのです。
勝家の立場からすれば、くやしいのも当然というべきでしょう。
『3日遅れた!3日遅れた・・・』
勝家はこのままでおけば、秀吉の勢いは益々増大して、ついに信長のあとをついで天下人になるに
違いないと思った。
そうはさせたくない。
『右大臣様のあとは、ご家来の中で第一の身分であった、おれが立たずになんとしよう』
と、思った。
そこで、真っすぐに清州に来て
「右大臣様の跡目を決定し、ご遺領の分配をしないしたい故、お集まり願いたい」
との招集状を人々に出して、集まってもらっていたのです。
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柴田勝家はくやしさに目もくらむ思いであった。
元来、勝家と秀吉は仲が悪いのです。
北ノ庄城の勝家公

勝家は信長の家臣中、第一の先輩であり、第一の身分であった。
武功も数々積んで、首位将軍の地位にある。
ところが近年、秀吉がめきめきと頭を持ち上げてきて、武功を積み、信長の大の気に入りとなった
ので、勝家はねたましくてならないのです。
その秀吉が、早くも弔い合戦をやってのけて、明智を討取ったというのです。
勝家の立場からすれば、くやしいのも当然というべきでしょう。
『3日遅れた!3日遅れた・・・』
勝家はこのままでおけば、秀吉の勢いは益々増大して、ついに信長のあとをついで天下人になるに
違いないと思った。
そうはさせたくない。
『右大臣様のあとは、ご家来の中で第一の身分であった、おれが立たずになんとしよう』
と、思った。
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加藤清正 Ⅱ その155
『勝家は北陸にいた』
山崎合戦から2週間ほど経った6月27日、柴田勝家は信長の遺臣の主だった連中を、尾張の清州
城に招集して、あと始末と今後のことを相談した。
柴田勝家(1522-1583年)

本能寺の変があったとき、柴田勝家は越中にいて、佐々成政、前田利家、佐久間盛政らの寄騎大名
らと、越後に攻め入る機会をうかがっていた。
急報に接して、弔合戦のために引き上げようとしたが、それまでの上杉勢との合戦に、ずいぶん不
信義のことをしているので、秀吉が毛利氏と和議したように、器用に和議が結べない。
そこで、佐々成政を越中に、前田利家を能登に、佐久間盛政を加賀にとどめて留守させ、ひとり居
城の北ノ庄に引き上げ、兵を整えて、6月16日、越前と江州の境である柳ヶ瀬まで出て来た時、
秀吉の使者にあった。
使者は山崎合戦の次第を報告する書面を携えていた。
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山崎合戦から2週間ほど経った6月27日、柴田勝家は信長の遺臣の主だった連中を、尾張の清州
城に招集して、あと始末と今後のことを相談した。
柴田勝家(1522-1583年)

本能寺の変があったとき、柴田勝家は越中にいて、佐々成政、前田利家、佐久間盛政らの寄騎大名
らと、越後に攻め入る機会をうかがっていた。
急報に接して、弔合戦のために引き上げようとしたが、それまでの上杉勢との合戦に、ずいぶん不
信義のことをしているので、秀吉が毛利氏と和議したように、器用に和議が結べない。
そこで、佐々成政を越中に、前田利家を能登に、佐久間盛政を加賀にとどめて留守させ、ひとり居
城の北ノ庄に引き上げ、兵を整えて、6月16日、越前と江州の境である柳ヶ瀬まで出て来た時、
秀吉の使者にあった。
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加藤清正 Ⅱ その154
『おれが殿様が弔合戦をなさった』
光秀の首を土民らが探し出して、秀吉方に届け出た。
秀吉は、翌々日、三井寺近くでこの話を聞き、取り寄せた。
大阪城二ノ丸の秀吉

秀吉は百姓らに大枚の金子を与えて立ち去らせた後、首実検をしたが、しばらく凝視した後、ついて
いた細い杖をふりあげ
「日向よ、あろうことか、逆心を起こして、まさしき主君を討ち葬った天罰ぞ!今こそ思い知れい!」
と、ののしりながら、杖で打ち叩いた。
これは弔合戦の際の儀式であり、しなければならないことになっていたのです。
清正は側にいて、ずっと凝視していた。
善悪の応報の迅速さを最も痛切に感じていたのです。
秀吉が主君・信長の弔合戦をおこし、見事に成し遂げたことは、秀吉の喜びはいうまでもないが、家
臣らにとっても、また非常な喜びであった。
清正や福島市松(正則)のような、子飼いで、しかも血がつながっている者にとっては、言いようも
ないほどの嬉しさであった。
「右大臣様のご家来衆数あるなかで、おれが殿様が弔合戦をなさった。誰でもない、おれが殿さまだ」
と、肩を張りたい思いであり
「だから、きっとおれが殿様が右大臣様の後をついで、天下人になりなさるであろう」
とも思い、さらに
「そうなれば、おれも励みさえすれば、大名になれるぞ」
と、目もくらむような気持になった。
清正にも、市松にも、よろこびに緊張した日が続いた。
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光秀の首を土民らが探し出して、秀吉方に届け出た。
秀吉は、翌々日、三井寺近くでこの話を聞き、取り寄せた。
大阪城二ノ丸の秀吉

秀吉は百姓らに大枚の金子を与えて立ち去らせた後、首実検をしたが、しばらく凝視した後、ついて
いた細い杖をふりあげ
「日向よ、あろうことか、逆心を起こして、まさしき主君を討ち葬った天罰ぞ!今こそ思い知れい!」
と、ののしりながら、杖で打ち叩いた。
これは弔合戦の際の儀式であり、しなければならないことになっていたのです。
清正は側にいて、ずっと凝視していた。
善悪の応報の迅速さを最も痛切に感じていたのです。
秀吉が主君・信長の弔合戦をおこし、見事に成し遂げたことは、秀吉の喜びはいうまでもないが、家
臣らにとっても、また非常な喜びであった。
清正や福島市松(正則)のような、子飼いで、しかも血がつながっている者にとっては、言いようも
ないほどの嬉しさであった。
「右大臣様のご家来衆数あるなかで、おれが殿様が弔合戦をなさった。誰でもない、おれが殿さまだ」
と、肩を張りたい思いであり
「だから、きっとおれが殿様が右大臣様の後をついで、天下人になりなさるであろう」
とも思い、さらに
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と、目もくらむような気持になった。
清正にも、市松にも、よろこびに緊張した日が続いた。
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加藤清正 Ⅱ その153
『光秀の最後』
長い戦乱時代が続く間に、一般百姓まで殺伐な気性になっていたのです。
百姓らは戦争が行われると、必ず錆槍や、錆刀や、竹槍をかつぎ出して、落武者狩りをしたのです。
明智光秀(1528-1582年)

身分のよい武士を生け捕りにしたり、首を取ったりすれば、褒美が貰える。
そのほか具足をはぎ取ったり、刀や槍を奪ったり、金銀をさらったり、いろいろと徳がある訳だ。
光秀の脇腹を突いたのも、こうした百姓のひとりであった。
光秀は重傷ながらも、声を立てたりすれば、かえって敵に勢いをつけることになるので、咄嗟には
「ウッ」と言ったものの、あとは声をのんでこらえた。
「いかがなされました」
と、従騎がたずねると
「いや、なんでもないぞ」
と、痛みをこらえて、わざと平静な声で言って、そのまま馬を進めた。
2、3町、そのまま進んだが、出血は止まらず、痛みは強く、ついに光秀は気を失って馬上から転落
した。
従者らは驚いて、馬を飛び降り、真っ暗な中で抱き起し、介抱した。
はじめて主人が重傷を負っているのを知って、皆びっくりした。
光秀は気を取り直し
「しょせん、存命はおぼつかなく存ずる。わが首を討ってくれい」
と、言って首を打たせた。
家来らは、その首を薮かげの溝の中に隠して、それぞれ落ち失せた。
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百姓らは戦争が行われると、必ず錆槍や、錆刀や、竹槍をかつぎ出して、落武者狩りをしたのです。
明智光秀(1528-1582年)

身分のよい武士を生け捕りにしたり、首を取ったりすれば、褒美が貰える。
そのほか具足をはぎ取ったり、刀や槍を奪ったり、金銀をさらったり、いろいろと徳がある訳だ。
光秀の脇腹を突いたのも、こうした百姓のひとりであった。
光秀は重傷ながらも、声を立てたりすれば、かえって敵に勢いをつけることになるので、咄嗟には
「ウッ」と言ったものの、あとは声をのんでこらえた。
「いかがなされました」
と、従騎がたずねると
「いや、なんでもないぞ」
と、痛みをこらえて、わざと平静な声で言って、そのまま馬を進めた。
2、3町、そのまま進んだが、出血は止まらず、痛みは強く、ついに光秀は気を失って馬上から転落
した。
従者らは驚いて、馬を飛び降り、真っ暗な中で抱き起し、介抱した。
はじめて主人が重傷を負っているのを知って、皆びっくりした。
光秀は気を取り直し
「しょせん、存命はおぼつかなく存ずる。わが首を討ってくれい」
と、言って首を打たせた。
家来らは、その首を薮かげの溝の中に隠して、それぞれ落ち失せた。
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