百名城37 一乗谷城
戦国大名朝倉氏の山城と城下町
『復元された武家屋敷や町並みが 戦国城下町を偲ばせる』
一乗谷川下流沿いの 細長い谷あいに築かれた 戦国時代の城下町と 館跡および背後の山城が 一乗谷朝倉氏遺跡である
応仁の乱により 荒廃した京から 多くの公家や高僧 文人 学者たちが避難してきたため 一乗谷は飛躍的に発展し華やかな
京文化が開花した
信長の越前侵攻の前に なすすべもなく 1573年に一乗谷城は落城し朝倉氏は滅亡した

西の山裾の屋敷では 礎石4個を用いた四本柱の薬医門形式を用い 東の川側の屋敷では掘立柱2本からなる棟門形式を用いており 格式の差が見られる

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山裾の屋敷の門

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屋根は割板で葺かれ 室内には畳も敷きつめられ 舞良戸・明障子等の引戸が多く用いられている

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唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ 現存するものは 江戸時代中期頃に 再建されたものである

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登城日:平成21年9月20日


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『復元された武家屋敷や町並みが 戦国城下町を偲ばせる』
一乗谷川下流沿いの 細長い谷あいに築かれた 戦国時代の城下町と 館跡および背後の山城が 一乗谷朝倉氏遺跡である
応仁の乱により 荒廃した京から 多くの公家や高僧 文人 学者たちが避難してきたため 一乗谷は飛躍的に発展し華やかな
京文化が開花した
信長の越前侵攻の前に なすすべもなく 1573年に一乗谷城は落城し朝倉氏は滅亡した

西の山裾の屋敷では 礎石4個を用いた四本柱の薬医門形式を用い 東の川側の屋敷では掘立柱2本からなる棟門形式を用いており 格式の差が見られる

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山裾の屋敷の門

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屋根は割板で葺かれ 室内には畳も敷きつめられ 舞良戸・明障子等の引戸が多く用いられている

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唐門
朝倉館跡正面の堀に面して建つ 現存するものは 江戸時代中期頃に 再建されたものである

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百名城36 丸岡城
古式ゆかしい天守が現存する城
『かつては広大な五角形の内堀に囲まれていた』
天守が現存する 日本国内12箇所の城郭の一つで(現存天守)ある
大入母屋の上に 廻り縁のある小さな望楼を載せた 古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている

直下より見上げた天守閣
天守の一層目 大入母屋屋根と回縁部分 通し柱が無いのが特徴で 一層は2階・3階を支える支台をなしている

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現在 見られる天守は 昭和23年の福井地震によって倒壊した後 昭和30年に部材を組みなおして 修復再建されたのである

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「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は 徳川家康の家臣 本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙として有名です
「お仙」とは 後の丸岡城主本多成重(幼名.仙千代)のことです 丸岡城に この最も短い手紙文を刻んだ碑が立っています

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スタンプの設置してある「一筆啓上茶屋」の庭園

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お蕎麦とお仙ソフトが 美味しいです
Tシャツも格安でしたので 2枚ゲットしました
登城日:平成21年9月20日


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『かつては広大な五角形の内堀に囲まれていた』
天守が現存する 日本国内12箇所の城郭の一つで(現存天守)ある
大入母屋の上に 廻り縁のある小さな望楼を載せた 古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれている

直下より見上げた天守閣
天守の一層目 大入母屋屋根と回縁部分 通し柱が無いのが特徴で 一層は2階・3階を支える支台をなしている

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現在 見られる天守は 昭和23年の福井地震によって倒壊した後 昭和30年に部材を組みなおして 修復再建されたのである

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「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は 徳川家康の家臣 本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙として有名です
「お仙」とは 後の丸岡城主本多成重(幼名.仙千代)のことです 丸岡城に この最も短い手紙文を刻んだ碑が立っています

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スタンプの設置してある「一筆啓上茶屋」の庭園

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お蕎麦とお仙ソフトが 美味しいです
Tシャツも格安でしたので 2枚ゲットしました
登城日:平成21年9月20日


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