岐阜城の信長居館
『岐阜城の信長居館』
金華山のふもとに広がる岐阜公園は、戦国時代の岐阜城主であった斎藤道三や織田信長の居館があったと
される場所です。
園内には、信長の庭をはじめ信長居館跡、冠木門、岐阜市歴史博物館などがあります。
9月6日の『郡上おどり 「おどり納め」』に行く前に、立ち寄りました。
園外駐車場から岐阜公園への陸橋から望む岐阜城

岐阜公園マップ <画像はクリックで拡大します>

この奥に金華山ロープウェイがありますが、今回はパスです。 すぐ横には一豊&まつさんの結婚の碑も
あります。

夏でも涼しい庭園です。 信長さんの居館はこの先にあります。

居館跡の入り口には冠木門が設置され、館が建てられていた頃の雰囲気を忍ばせてくれます。

この遺構は戦国時代にはめずらしい巨石を使用した通路や石垣のほか、土塁状の遺構、階段水路建築物の
礎石の一部などが保存整備されています。

当時のまま保存されている石垣

2007年から発掘は行われていますが、上部の方はまだ発掘が行われています。

金華山へのロープウェイが頭上を通っています。 次回は乗ってみたいです。

この公園には信長公の像が2体ありますが、カメラを向けることを忘れたので、こちらも次回です。
それから、ライトアップも次回ですね。

ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
金華山のふもとに広がる岐阜公園は、戦国時代の岐阜城主であった斎藤道三や織田信長の居館があったと
される場所です。
園内には、信長の庭をはじめ信長居館跡、冠木門、岐阜市歴史博物館などがあります。
9月6日の『郡上おどり 「おどり納め」』に行く前に、立ち寄りました。
園外駐車場から岐阜公園への陸橋から望む岐阜城

岐阜公園マップ <画像はクリックで拡大します>

この奥に金華山ロープウェイがありますが、今回はパスです。 すぐ横には一豊&まつさんの結婚の碑も
あります。


夏でも涼しい庭園です。 信長さんの居館はこの先にあります。

居館跡の入り口には冠木門が設置され、館が建てられていた頃の雰囲気を忍ばせてくれます。

この遺構は戦国時代にはめずらしい巨石を使用した通路や石垣のほか、土塁状の遺構、階段水路建築物の
礎石の一部などが保存整備されています。

当時のまま保存されている石垣

2007年から発掘は行われていますが、上部の方はまだ発掘が行われています。

金華山へのロープウェイが頭上を通っています。 次回は乗ってみたいです。

この公園には信長公の像が2体ありますが、カメラを向けることを忘れたので、こちらも次回です。
それから、ライトアップも次回ですね。

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百名城38 岩村城
平成22年9月23日 天候:雨
天気を期待して新居浜のホテルで目覚めるも、無情の雨
岡山県の「鬼ノ城」と「備中松山城」は山城ですから、登城を諦めホテルを9時過ぎに出て
坂出から瀬戸大橋を渡って、中国道・名神高速・中央高速で岐阜県の恵那市を目指すこと
になりました。
瀬戸大橋


平成22年9月24日 天候:晴れ
日本百名城38 岩村城
急峻な山頂に壮大な石垣が巡る近世山城
『山麓には藩主邸の表御門や太鼓門が再建される』
岩村城は近世山城の代表で 標高717mの日本一高い地に築かれた城です
高取城・備中松山城とともに近世城郭における日本三大山城といわれています
城の創築については はっきりしませんが 1504~1521年には遠山氏の居城として築かれていた
と考えられます
戦国時代には遠山氏 江戸時代には丹羽氏と松平氏が城主となっています
城は山頂一帯に階段状に配された曲輪群と山麓部の居館群からなり 各曲輪には石垣が巡らされ
数多くの櫓や多聞櫓が建ち並んでいた
山麓部の居館群は1881年(明治14年)に焼失したが 平成2年に太鼓門や表御門などが再建されて
います
本丸の6段石垣
雛壇状に6段も積み上げられた石垣は、岩村城を代表する景観のひとつですね。

山麓部に再建された藩主邸
平成2年に再建された藩主邸 写真右は太鼓櫓と表御門(中央)

本丸の出丸まで車で行くことが出来ますので、車で・・・
道は狭いので対向車が来ないことを祈りつつ・・・
出丸に到着
狭い道路を500m位走ります(写真の右側) 「売店蘭丸」がありますが、いつ開店するのでしょうか

出丸側の本丸石垣

長局埋門跡 定番の看板

本丸の6段石垣

岩村城の石垣は、“残された石垣”が大好きな「権中納言さん」にピッタリの城だと思いました。
5泊6日の四国&岐阜の城攻めも終わり、中央高速で雑踏の東京に帰ります。
また、時間を作って城攻めに出たいと思います。
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応援ありがとうございました
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 酒を造るから
戦場では気を紛らわすために、こっそり米を発酵させて酒にしてしまう兵が少なく
なかったので、一度に4日分くらいの米を渡していました。
≪本日の問題≫
天気を期待して新居浜のホテルで目覚めるも、無情の雨
岡山県の「鬼ノ城」と「備中松山城」は山城ですから、登城を諦めホテルを9時過ぎに出て
坂出から瀬戸大橋を渡って、中国道・名神高速・中央高速で岐阜県の恵那市を目指すこと
になりました。
瀬戸大橋



平成22年9月24日 天候:晴れ
日本百名城38 岩村城
急峻な山頂に壮大な石垣が巡る近世山城
『山麓には藩主邸の表御門や太鼓門が再建される』
岩村城は近世山城の代表で 標高717mの日本一高い地に築かれた城です
高取城・備中松山城とともに近世城郭における日本三大山城といわれています
城の創築については はっきりしませんが 1504~1521年には遠山氏の居城として築かれていた
と考えられます
戦国時代には遠山氏 江戸時代には丹羽氏と松平氏が城主となっています
城は山頂一帯に階段状に配された曲輪群と山麓部の居館群からなり 各曲輪には石垣が巡らされ
数多くの櫓や多聞櫓が建ち並んでいた
山麓部の居館群は1881年(明治14年)に焼失したが 平成2年に太鼓門や表御門などが再建されて
います
本丸の6段石垣
雛壇状に6段も積み上げられた石垣は、岩村城を代表する景観のひとつですね。

山麓部に再建された藩主邸
平成2年に再建された藩主邸 写真右は太鼓櫓と表御門(中央)


本丸の出丸まで車で行くことが出来ますので、車で・・・
道は狭いので対向車が来ないことを祈りつつ・・・
出丸に到着
狭い道路を500m位走ります(写真の右側) 「売店蘭丸」がありますが、いつ開店するのでしょうか


出丸側の本丸石垣

長局埋門跡 定番の看板


本丸の6段石垣


岩村城の石垣は、“残された石垣”が大好きな「権中納言さん」にピッタリの城だと思いました。
5泊6日の四国&岐阜の城攻めも終わり、中央高速で雑踏の東京に帰ります。
また、時間を作って城攻めに出たいと思います。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 酒を造るから
戦場では気を紛らわすために、こっそり米を発酵させて酒にしてしまう兵が少なく
なかったので、一度に4日分くらいの米を渡していました。
≪本日の問題≫
百名城39 岐阜城
天下布武を目指した 信長の拠点の城
『山麓の居住跡の巨石や水路の石組みに 信長の野望を偲ぶ』
織田信長が斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して 新たに造営したものが岐阜城である
信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する
岐阜城は 京都に対して東の要所に位置し 難攻不落の名城として知られているが 歴史上7回の落城して
いる
山頂部の平坦面は少なく 井戸も雨水を蓄えるもので戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的
に不向きであった
織田信長時代には 山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが宣教師ルイス・フロイスの書簡から
伺える 岐阜城は小牧城 安土城と同じく城下町を見下ろす景観に優れる つまり合戦のための城でなく
基本的に城主の居住空間であったのだろう
1956年に再建された復興天守は 鉄筋コンクリート構造3層4階建で 天守の設計は加納城御三階櫓の図
面や古文書を参考に構築されています
明治時代にわが国で最初の観光目的の天守が再建されましたが、昭和18年に焼失しています。
現在の天守は昭和31年に鉄筋コンクリートで再建されています。
写真は、平成22年5月9日に撮ったものです。

岐阜城公園駐車車から望む岐阜城

ロープウェー山頂駅から岐阜城まで10分程度歩きます。
途中の二の丸門です。

二の丸から望む天守。というよりここからしか見えないのかも知れません!

天守の入口ですが、岩をよじ登る感じで入城します。
天守が建つ山頂には、平らな場所はなく“山のてっぺんに城”です。

天守からの眺望は360°のパノラマです。
信長は、この風景を肴に酒を飲んだのでしょうか。信長と同じ空気を吸うことができました。

天守台の直ぐ下にある「本丸井戸」です。この井戸では籠城戦はできなかったでしょうね。

岐阜城公園にある「信長の居館」前の庭園です。
観光客は、ロープウェーでお城に上がりますので、公園では地元の方が散歩したり子供連れの人たちが
遊んだりで、すごく和やかな公園でした。

百名城スタンプを58城目ゲットしました。

次は、犬山城に向かいます。
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応援ありがとうございました
<参考文献:岐阜城リーフレット>
『山麓の居住跡の巨石や水路の石組みに 信長の野望を偲ぶ』
織田信長が斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して 新たに造営したものが岐阜城である
信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する
岐阜城は 京都に対して東の要所に位置し 難攻不落の名城として知られているが 歴史上7回の落城して
いる
山頂部の平坦面は少なく 井戸も雨水を蓄えるもので戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的
に不向きであった
織田信長時代には 山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが宣教師ルイス・フロイスの書簡から
伺える 岐阜城は小牧城 安土城と同じく城下町を見下ろす景観に優れる つまり合戦のための城でなく
基本的に城主の居住空間であったのだろう
1956年に再建された復興天守は 鉄筋コンクリート構造3層4階建で 天守の設計は加納城御三階櫓の図
面や古文書を参考に構築されています
明治時代にわが国で最初の観光目的の天守が再建されましたが、昭和18年に焼失しています。
現在の天守は昭和31年に鉄筋コンクリートで再建されています。
写真は、平成22年5月9日に撮ったものです。

岐阜城公園駐車車から望む岐阜城

ロープウェー山頂駅から岐阜城まで10分程度歩きます。
途中の二の丸門です。

二の丸から望む天守。というよりここからしか見えないのかも知れません!

天守の入口ですが、岩をよじ登る感じで入城します。
天守が建つ山頂には、平らな場所はなく“山のてっぺんに城”です。

天守からの眺望は360°のパノラマです。
信長は、この風景を肴に酒を飲んだのでしょうか。信長と同じ空気を吸うことができました。


天守台の直ぐ下にある「本丸井戸」です。この井戸では籠城戦はできなかったでしょうね。

岐阜城公園にある「信長の居館」前の庭園です。
観光客は、ロープウェーでお城に上がりますので、公園では地元の方が散歩したり子供連れの人たちが
遊んだりで、すごく和やかな公園でした。

百名城スタンプを58城目ゲットしました。

次は、犬山城に向かいます。
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<参考文献:岐阜城リーフレット>