家康公の隠居城 『駿府城』
『日本百名城47 駿府城』
2月下旬に静岡の田中城、小山城と廻った帰りに駿府城に寄りましたので、もう随分時間が経ってしまいました。
前回登城したのは、2009年11月でしたので4年ぶりの再登城です。 (前回は「こちら」です。)

駿府城は、江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した城として
有名です。
このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城となっています。

天守台という案内が出ていますが、天守台は明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊され、何も残っ
ていません。
天守台跡

天守閣は、城郭史上最大のものであったそうですが、完成直後の1607年に天守や本丸御殿などが城内からの
失火により焼失しています。その後直ちに再建され、1616年に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、
駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄していたそうです。
家康公の像は沢山ありますが、駿府城の像が一番迫力があると思います。

案内板<クリックで文字が読めます>

天守台の撤去と同時に埋められた内堀(本丸堀)は、部分的に発掘されています。
この内堀を埋めたれられているだけですから、復元して欲しいものですね。

城内は公園として整備されていますので特に見るものもなく、今回は中堀の土手を歩いてみました。

wikの航空写真 *三の丸には公共施設が立ち並んでいます。

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いつもありがとうございます。

『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:御館の乱
謙信が死去すると、後北条氏から養子に迎えた上杉景虎と上杉景勝との相続争いが勃発しています。これを御館の乱といいますが、これは謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、越後国の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいると言われます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
2月下旬に静岡の田中城、小山城と廻った帰りに駿府城に寄りましたので、もう随分時間が経ってしまいました。
前回登城したのは、2009年11月でしたので4年ぶりの再登城です。 (前回は「こちら」です。)

駿府城は、江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した城として
有名です。
このとき駿府城は天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城となっています。


天守台という案内が出ていますが、天守台は明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊され、何も残っ
ていません。
天守台跡

天守閣は、城郭史上最大のものであったそうですが、完成直後の1607年に天守や本丸御殿などが城内からの
失火により焼失しています。その後直ちに再建され、1616年に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、
駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄していたそうです。
家康公の像は沢山ありますが、駿府城の像が一番迫力があると思います。

案内板<クリックで文字が読めます>

天守台の撤去と同時に埋められた内堀(本丸堀)は、部分的に発掘されています。
この内堀を埋めたれられているだけですから、復元して欲しいものですね。

城内は公園として整備されていますので特に見るものもなく、今回は中堀の土手を歩いてみました。


wikの航空写真 *三の丸には公共施設が立ち並んでいます。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:御館の乱
謙信が死去すると、後北条氏から養子に迎えた上杉景虎と上杉景勝との相続争いが勃発しています。これを御館の乱といいますが、これは謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、越後国の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいると言われます。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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日本百名城40 「山中城」
『富士の姿が美しい山中城』
北条早雲の居城「韮山城」の帰りに「山中城」に寄ってきました。
2009年11月に一度登城し百名城スタンプはゲットしていますので、今回はゆっくりと障子堀をみながら
城の外周を中心に廻ってみました。 (前回の登城記は「こちら」です。)
駐車場の「山中城跡公園案内図」 <画像はクリックで拡大します>

右側の本丸に向かいスタートすると、最初に出て来るのが、「三ノ丸堀」です。
公園化されておりますので、いつも綺麗に整備されています。

二の丸下を通過し、西の丸下に見えてくるのが「西の丸東畝堀」、個人的にはこの堀がお気に入りです。

さらに西櫓に向かって歩くと、物見台と西櫓の間の「物見下障子堀」。これが一番人気でしょうか。

西櫓をまわり込むと「西畝堀」があります。

本丸北側に廻り込むと「本丸北側堀」がありますが、ここは未整備になっています。

本丸から三ノ丸に架る「本丸北橋」。奥に見えるのが三ノ丸です。

本丸跡 想像以上に狭いです。

本丸から二ノ丸、西ノ丸を通って、物見台に富士山を見にきました。
富士山の姿が美しく見える場所ですが、雲に隠れています。残念!

物見台から見る「障子堀」

天気が良かったので、駐車場まで戻り「岱崎出丸」まで行ってみました。(案内図の左側)
石畳が美しい「箱根旧街道」。この石畳は1680年に敷かれているそうです。

この街道に沿って、出丸は築かれています。
増築が未完成のまま4万の豊臣軍の攻撃を受け、4千の北条軍は半日で敗れています。
岱崎出丸のツバキ

すり蜂曲輪

箱根旧街道側の「一ノ堀」

山中城は整備が進んでいますので、芝がきれいな春に訪れるといいのでしょうね。
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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:浅井氏
1573年に羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で、織田信長から浅井氏の旧領を拝領し、当時は今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名し、長浜城を築城しています。
≪本日の問題≫
北条早雲の居城「韮山城」の帰りに「山中城」に寄ってきました。
2009年11月に一度登城し百名城スタンプはゲットしていますので、今回はゆっくりと障子堀をみながら
城の外周を中心に廻ってみました。 (前回の登城記は「こちら」です。)
駐車場の「山中城跡公園案内図」 <画像はクリックで拡大します>

右側の本丸に向かいスタートすると、最初に出て来るのが、「三ノ丸堀」です。
公園化されておりますので、いつも綺麗に整備されています。

二の丸下を通過し、西の丸下に見えてくるのが「西の丸東畝堀」、個人的にはこの堀がお気に入りです。

さらに西櫓に向かって歩くと、物見台と西櫓の間の「物見下障子堀」。これが一番人気でしょうか。

西櫓をまわり込むと「西畝堀」があります。

本丸北側に廻り込むと「本丸北側堀」がありますが、ここは未整備になっています。

本丸から三ノ丸に架る「本丸北橋」。奥に見えるのが三ノ丸です。

本丸跡 想像以上に狭いです。

本丸から二ノ丸、西ノ丸を通って、物見台に富士山を見にきました。
富士山の姿が美しく見える場所ですが、雲に隠れています。残念!

物見台から見る「障子堀」

天気が良かったので、駐車場まで戻り「岱崎出丸」まで行ってみました。(案内図の左側)
石畳が美しい「箱根旧街道」。この石畳は1680年に敷かれているそうです。

この街道に沿って、出丸は築かれています。
増築が未完成のまま4万の豊臣軍の攻撃を受け、4千の北条軍は半日で敗れています。
岱崎出丸のツバキ

すり蜂曲輪

箱根旧街道側の「一ノ堀」

山中城は整備が進んでいますので、芝がきれいな春に訪れるといいのでしょうね。
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いつもありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:浅井氏
1573年に羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で、織田信長から浅井氏の旧領を拝領し、当時は今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名し、長浜城を築城しています。
≪本日の問題≫
百名城40 山中城
小田原防備の要となった 箱根口の関門
『豊臣秀吉の7万という圧倒的な大軍で 4000の城兵が守る山中城は一気に陥落』
戦国末期 関東の覇者 後北条氏が 西方に対する防備の要塞として 箱根外輪山の西側斜面に築いた
山中城は 尾根筋を巧みに利用して 曲輪を配置し 街道も城域に取り込んでいた
秀吉の大軍7万に攻められ 半日で陥落した 土造山中城が痛々しく感じられました
障子堀の復元整備が良かったです
≪登城余記≫
登城51城目です
秀吉の大軍7万に攻められ半日で陥落した 土造山中城が痛々しく感じられました
障子堀の復元整備が良かったです
スタンプが置いてある売店で売っている熱々の「寒ざらし団子」は美味しかったです 寒くなるこれからの時期にお勧めです
伊東に宿泊後、小田原城に向かいます
★★★☆☆

国道1号線に面した駐車場です スタンプの設置場所の茶屋は 1号線を挟んだ反対側にあります
私は城内を探してしまいました

<クリックで拡大します>
二の丸へ

<クリックで拡大します>
本丸跡は 傾斜があってフラットでないですね

<クリックで拡大します>
単列型の障子堀

<クリックで拡大します>
宿泊地の大室山(伊東市)近くのホテルに向かいます
伊豆スカイラインは 全線走って200円でした
明日は 小田原城へ向かいます
登城日:平成21年11月23日


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『豊臣秀吉の7万という圧倒的な大軍で 4000の城兵が守る山中城は一気に陥落』
戦国末期 関東の覇者 後北条氏が 西方に対する防備の要塞として 箱根外輪山の西側斜面に築いた
山中城は 尾根筋を巧みに利用して 曲輪を配置し 街道も城域に取り込んでいた
秀吉の大軍7万に攻められ 半日で陥落した 土造山中城が痛々しく感じられました
障子堀の復元整備が良かったです
≪登城余記≫
登城51城目です
秀吉の大軍7万に攻められ半日で陥落した 土造山中城が痛々しく感じられました
障子堀の復元整備が良かったです
スタンプが置いてある売店で売っている熱々の「寒ざらし団子」は美味しかったです 寒くなるこれからの時期にお勧めです
伊東に宿泊後、小田原城に向かいます
★★★☆☆

国道1号線に面した駐車場です スタンプの設置場所の茶屋は 1号線を挟んだ反対側にあります
私は城内を探してしまいました

<クリックで拡大します>
二の丸へ

<クリックで拡大します>
本丸跡は 傾斜があってフラットでないですね

<クリックで拡大します>
単列型の障子堀

<クリックで拡大します>
宿泊地の大室山(伊東市)近くのホテルに向かいます
伊豆スカイラインは 全線走って200円でした
明日は 小田原城へ向かいます
登城日:平成21年11月23日


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百名城47 駿府城
富士を望む地に構えられた 徳川家康の隠居城
『巽櫓や二の丸東御門など 駿河の大城郭の再建が進む』
今川氏の居館を 隠居した家康が1607年に改築
西国の大名たちに負担させて 3重の堀と6重7階の天守を持つ城に大改築
その後 1635年に出火で焼失し 以降は再建されていない
≪登城余記≫
登城50城目です
記念すべき50城は家康でした 駐車場は文化会館の地下駐車場(300円/1時間)を利用しました
お城というより駿府公園で 崩壊した石垣が放置され覆いのカバーも破れていました
家康公のすぐ傍に家康が植えたという「みかんの木」があり いっぱい実を付けていました
次は山中城に向かいます。
★★☆☆☆

東御門は 櫓門・高麗門・多門櫓から構成される 枡形門が復元されています

<クリックで拡大します>
巽櫓の近くの石垣が崩壊しています 長く放置しているのでしょうか カバーも破けています

<クリックで拡大します>
十返舎 一九の『東海道中膝栗毛』です 見ていて微笑んでしまいますね

<クリックで拡大します>
平成元年に復元された巽櫓です 公開されていますが 今回は時間がなく断念しました

<クリックで拡大します>
次は 山中城に向かいます
登城日:平成21年11月23日


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『巽櫓や二の丸東御門など 駿河の大城郭の再建が進む』
今川氏の居館を 隠居した家康が1607年に改築
西国の大名たちに負担させて 3重の堀と6重7階の天守を持つ城に大改築
その後 1635年に出火で焼失し 以降は再建されていない
≪登城余記≫
登城50城目です
記念すべき50城は家康でした 駐車場は文化会館の地下駐車場(300円/1時間)を利用しました
お城というより駿府公園で 崩壊した石垣が放置され覆いのカバーも破れていました
家康公のすぐ傍に家康が植えたという「みかんの木」があり いっぱい実を付けていました
次は山中城に向かいます。
★★☆☆☆

東御門は 櫓門・高麗門・多門櫓から構成される 枡形門が復元されています

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巽櫓の近くの石垣が崩壊しています 長く放置しているのでしょうか カバーも破けています

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十返舎 一九の『東海道中膝栗毛』です 見ていて微笑んでしまいますね

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平成元年に復元された巽櫓です 公開されていますが 今回は時間がなく断念しました

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次は 山中城に向かいます
登城日:平成21年11月23日


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百名城42 掛川城
山内一豊が大改築 天守を築き上げた城
『天守は木造再建 二の丸御殿や太鼓櫓など 貴重な建物も現存する』
豊臣秀吉の直臣であった 真面目な山内一豊が大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など 近世城郭としての
体裁を整えた城郭とした
平成6年に木造による天守が再建された 木造による天守再建は戦後初である
山内一豊が 掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる 高知城の天守を参考にして再建されている

復元された大手門 正確な位置は 現在地より50mほど南にあった
門の奥に見えるのが 大手門番所

<クリックで拡大します>
復元整備された城門

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
掛川城御殿から望む天守
掛川城御殿は 1854年の大地震で倒壊したため 翌年に再建されている
京都の二条城など 御殿建築としては 全国で数カ所にしか残っていない 大変珍しい建物である

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年9月22日


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『天守は木造再建 二の丸御殿や太鼓櫓など 貴重な建物も現存する』
豊臣秀吉の直臣であった 真面目な山内一豊が大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など 近世城郭としての
体裁を整えた城郭とした
平成6年に木造による天守が再建された 木造による天守再建は戦後初である
山内一豊が 掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる 高知城の天守を参考にして再建されている

復元された大手門 正確な位置は 現在地より50mほど南にあった
門の奥に見えるのが 大手門番所

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復元整備された城門

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掛川城御殿から望む天守
掛川城御殿は 1854年の大地震で倒壊したため 翌年に再建されている
京都の二条城など 御殿建築としては 全国で数カ所にしか残っていない 大変珍しい建物である

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登城日:平成21年9月22日


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