日本百名城50 井伊家の彦根城
『日本百名城50 井伊家の彦根城』
彦根城は、江戸時代の初期に彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。
城は金亀城ともいい、多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城でした。
前回の登城時には、駐車場待ちに1時間、天守登城にも1時間待ちで、炎天下で待つことは出来ません
でしたので、今回は彦根市内に宿泊して開場と同時に登場しました。(前回登城)
国宝・彦根城(登城日:平成24年11月18日)

<画像はクリックで全て拡大します>
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守、附櫓および多聞櫓の他、安土桃山時代から江戸
時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されています。
天守は国宝指定された4城の一つで、姫路城とともに遺構をよく遺している城郭です。
秋の彦根城

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和
口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされて
いますが太鼓門、などの移築伝承が多くあります。
時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれていわれ、この天秤櫓は、堀切の
上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤
ばかりのような独特な形をしています。
貸切状態で楽しめました

通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で、2重目以上の窓
はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。
各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見
せる。大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ、昭和の天守解体修理のときに、転用され
たものと見られる部材が確認されています。
木造現存城は12城、そのなかで国宝が4城、彦根城はそのなかのひとつです。


天守から三成くんの佐和山が、すぐ至近距離に見えます。
この後、佐和山城址に登りました。

玄宮園から見る、彦根城天守

次回は、彦根城にいつ来るのでしょうか。
たぶん、百名城2週目の時でしょうね!

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:小谷城
京極高次は1563年、京極高吉と京極マリア(浅井長政の姉)の長男として、浅井氏の居城である近江国の小谷城京極丸で生まれています。
≪本日の問題≫
彦根城は、江戸時代の初期に彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城です。
城は金亀城ともいい、多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城でした。
前回の登城時には、駐車場待ちに1時間、天守登城にも1時間待ちで、炎天下で待つことは出来ません
でしたので、今回は彦根市内に宿泊して開場と同時に登場しました。(前回登城)
国宝・彦根城(登城日:平成24年11月18日)

<画像はクリックで全て拡大します>
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守、附櫓および多聞櫓の他、安土桃山時代から江戸
時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されています。
天守は国宝指定された4城の一つで、姫路城とともに遺構をよく遺している城郭です。
秋の彦根城


彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和
口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされて
いますが太鼓門、などの移築伝承が多くあります。
時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれていわれ、この天秤櫓は、堀切の
上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤
ばかりのような独特な形をしています。
貸切状態で楽しめました



通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で、2重目以上の窓
はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。
各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見
せる。大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ、昭和の天守解体修理のときに、転用され
たものと見られる部材が確認されています。
木造現存城は12城、そのなかで国宝が4城、彦根城はそのなかのひとつです。



天守から三成くんの佐和山が、すぐ至近距離に見えます。
この後、佐和山城址に登りました。

玄宮園から見る、彦根城天守

次回は、彦根城にいつ来るのでしょうか。
たぶん、百名城2週目の時でしょうね!

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:小谷城
京極高次は1563年、京極高吉と京極マリア(浅井長政の姉)の長男として、浅井氏の居城である近江国の小谷城京極丸で生まれています。
≪本日の問題≫
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百名城52 観音寺城
佐々木六角氏が 繖山全域に築いた巨大山城
『日本の城で初めて築かれた 本格的な高石垣が山中に残る』
1556年 六角義賢は石垣を巡らすなど 城を大改修
1568年 織田信長が足利義昭を15代将軍として上洛する際 近隣の城を猛攻するそのすさまじしさに
義賢・義弼父子は観音寺城を捨てて逃げ出し その後 観音寺城は城主が無く廃城となる
最近まで 石田三成と大谷吉継が居た寺だと思ってました
あいにくの雨でしたので 「石寺楽市会館」でスタンプのみゲット 登城は次回です
「石寺楽市会館」は 産地直売所でした

「石寺楽市会館」に掲げられた案内です

<クリックで拡大します>
「石寺楽市会館」に掲げられた案内です

<クリックで拡大します>
「石寺楽市会館」から見る繖山です

<クリックで拡大します>
名神・東名高速で帰ります

御殿場からの 富士山が綺麗でした!
登城日:平成21年11月3日


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『日本の城で初めて築かれた 本格的な高石垣が山中に残る』
1556年 六角義賢は石垣を巡らすなど 城を大改修
1568年 織田信長が足利義昭を15代将軍として上洛する際 近隣の城を猛攻するそのすさまじしさに
義賢・義弼父子は観音寺城を捨てて逃げ出し その後 観音寺城は城主が無く廃城となる
最近まで 石田三成と大谷吉継が居た寺だと思ってました
あいにくの雨でしたので 「石寺楽市会館」でスタンプのみゲット 登城は次回です
「石寺楽市会館」は 産地直売所でした

「石寺楽市会館」に掲げられた案内です

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「石寺楽市会館」に掲げられた案内です

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「石寺楽市会館」から見る繖山です

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名神・東名高速で帰ります

御殿場からの 富士山が綺麗でした!
登城日:平成21年11月3日


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百名城51 安土城
近代城郭の先駆となった信長の幻の城
『整備された大手道などが 信長の栄華を彷彿させる』
織田信長が 天下布武の拠点として 1579年に琵琶湖を望む安土山に築城
天守は 外観5重で内部は地上6階地下1階で 高さ33mの高層建築で 建具や壁には鮮やかな
金色の障壁画が描かれる
☆初めての 本格的天守
☆総石垣の 本丸
☆城内に豪華で 巨大な御殿
近江八幡に宿泊していたので 8時半には到着しましたが 既に数組の観光客が・・・
周りは田畑ですけど、駐車場 入城料 信長の館の 全てが500円なり
信長さんは 人気ありますけどね~

安土城 入口です

<クリックで拡大します>
「信長の館」は JR東海道本線を挟んだ 少し離れた場所にあります

<クリックで拡大します>
安土城は ハデハデ だったんですね~

<クリックで拡大します>

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登城日:平成21年11月3日


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『整備された大手道などが 信長の栄華を彷彿させる』
織田信長が 天下布武の拠点として 1579年に琵琶湖を望む安土山に築城
天守は 外観5重で内部は地上6階地下1階で 高さ33mの高層建築で 建具や壁には鮮やかな
金色の障壁画が描かれる
☆初めての 本格的天守
☆総石垣の 本丸
☆城内に豪華で 巨大な御殿
近江八幡に宿泊していたので 8時半には到着しましたが 既に数組の観光客が・・・
周りは田畑ですけど、駐車場 入城料 信長の館の 全てが500円なり
信長さんは 人気ありますけどね~

安土城 入口です

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「信長の館」は JR東海道本線を挟んだ 少し離れた場所にあります

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安土城は ハデハデ だったんですね~

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登城日:平成21年11月3日


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百名城50 彦根城
琵琶湖に臨む 井伊家14代の堅城
『国宝の天守に 表御殿や庭園が 彩りを添える』
彦根城築城は 将軍徳川家康の命により 佐和山城を一掃するため 1604年に着工し20年の歳月をかけて築城される
彦根城は 明治に解体の危機にみまわれたが 明治天皇が北陸巡幸を終え 彦根を通られたときに 保存するように
と大命を下されたとか
国宝の天守のほか 太鼓門 天秤櫓など 数多くの建築物が現存する
3重3階の天守は 回遊式の大名庭園 玄宮園からの眺望は絶景
太鼓門櫓方面からの天守閣(東南面)

廊下橋と天秤櫓

<クリックで拡大します>
月見櫓跡からの天守閣(東面)
近世の城で天守が残っているのは 弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、
松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城
このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝

<クリックで拡大します>
天秤櫓
天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から 太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように
各所の城から運び込んで移築されたといわれる

<クリックで拡大します>
内濠と大手門橋

<クリックで拡大します>
登城日:平成21年9月20日


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『国宝の天守に 表御殿や庭園が 彩りを添える』
彦根城築城は 将軍徳川家康の命により 佐和山城を一掃するため 1604年に着工し20年の歳月をかけて築城される
彦根城は 明治に解体の危機にみまわれたが 明治天皇が北陸巡幸を終え 彦根を通られたときに 保存するように
と大命を下されたとか
国宝の天守のほか 太鼓門 天秤櫓など 数多くの建築物が現存する
3重3階の天守は 回遊式の大名庭園 玄宮園からの眺望は絶景
太鼓門櫓方面からの天守閣(東南面)

廊下橋と天秤櫓

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月見櫓跡からの天守閣(東面)
近世の城で天守が残っているのは 弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、
松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城
このうち、松本、犬山、彦根、姫路の4城の天守は国宝

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天秤櫓
天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から 太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように
各所の城から運び込んで移築されたといわれる

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内濠と大手門橋

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登城日:平成21年9月20日


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百名城49 小谷城
浅井氏の3代にわたる戦国時代屈指の堅城
『かつては山陵に無数の曲輪が展開していた』
標高約495m小谷山から 南の尾根筋に築かれ 日本五大山城の一つに数えられる
1562年 浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え 織田家と同盟関係を結んだが 越前朝倉氏とも
同盟関係にあったため 1570年 信長の越前朝倉義景攻めに際し 浅井氏は信長に反旗 姉川の合戦で
浅井氏は織田・徳川連合軍に敗北
1573年 小谷城は信長によって落城 浅井長政は自刃し 浅井氏は滅亡
「浅井長政」と「お市の方(信長の妹)」との 悲劇の舞台として語られることが多い城である
蚊や蜂が多く軽装であったため 登城は断念しました 長袖、長ズボンは必須です
主要部分の大手口にあたる番所

番所と金吾丸との間の堀切 左側が金吾丸 右側が番所跡

<クリックで拡大します>
番所跡から望む 琵琶湖です

<クリックで拡大します>
秀吉勢が 清水谷から攻め上がり 最初に落とした郭です

<クリックで拡大します>
落城の時 お市は三人の娘を連れて この大手口から城を後にした

<クリックで拡大します>
百名城スタンプは この「小谷城戦国歴史資料館」にありますが 小谷城までは結構距離がありますので
地図で説明を受け登城しました

登場日:平成21年9月20日

『2011年の大河ドラマに決定』

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『かつては山陵に無数の曲輪が展開していた』
標高約495m小谷山から 南の尾根筋に築かれ 日本五大山城の一つに数えられる
1562年 浅井長政は織田信長の妹お市の方を妻に迎え 織田家と同盟関係を結んだが 越前朝倉氏とも
同盟関係にあったため 1570年 信長の越前朝倉義景攻めに際し 浅井氏は信長に反旗 姉川の合戦で
浅井氏は織田・徳川連合軍に敗北
1573年 小谷城は信長によって落城 浅井長政は自刃し 浅井氏は滅亡
「浅井長政」と「お市の方(信長の妹)」との 悲劇の舞台として語られることが多い城である
蚊や蜂が多く軽装であったため 登城は断念しました 長袖、長ズボンは必須です
主要部分の大手口にあたる番所

番所と金吾丸との間の堀切 左側が金吾丸 右側が番所跡

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番所跡から望む 琵琶湖です

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秀吉勢が 清水谷から攻め上がり 最初に落とした郭です

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落城の時 お市は三人の娘を連れて この大手口から城を後にした

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百名城スタンプは この「小谷城戦国歴史資料館」にありますが 小谷城までは結構距離がありますので
地図で説明を受け登城しました

登場日:平成21年9月20日

『2011年の大河ドラマに決定』

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