ちょっとだけの大坂城
『歩きながらの大坂城』
仕事で大阪入りしましたが、時間がなくて大坂城公園を歩くことができません。
それなら近くにホテル取ればいいじゃんと、天満橋から大坂城に向かって歩いてみました。
ライトアップの写真を撮るための機材も用意していきましたが、大阪入りしたのが遅かったのと
極寒でホテルから出ることはできませんでした。
写真はすべてコンデジです。
おや、早速、合同庁舎前で天守閣さんが「おはよー」とほほ笑んでくれています。

大手前の信号機は、なかなか変わってくれず、寒かったです。
乾やぐらと西外堀

北外堀

京橋口から天守を探せ!

真田丸で賑わう大阪城を、ちょっとだけ覗いてみました。
次回は、じっくりと廻ってみたいものです。
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いつもありがとうございます。
初めて見ました「融雪噴水?」
北国へ行くと、道路の中央線に「融雪噴水?」が敷設してあるのは知っていましたが、金沢で水が
出ているのを初めて見ました。
この設備の本当の名前は何といのでしょうかねぇ~
この日は、積雪に備えて試運転だったそうです。

仕事で大阪入りしましたが、時間がなくて大坂城公園を歩くことができません。
それなら近くにホテル取ればいいじゃんと、天満橋から大坂城に向かって歩いてみました。
ライトアップの写真を撮るための機材も用意していきましたが、大阪入りしたのが遅かったのと
極寒でホテルから出ることはできませんでした。
写真はすべてコンデジです。
おや、早速、合同庁舎前で天守閣さんが「おはよー」とほほ笑んでくれています。

大手前の信号機は、なかなか変わってくれず、寒かったです。
乾やぐらと西外堀

北外堀

京橋口から天守を探せ!

真田丸で賑わう大阪城を、ちょっとだけ覗いてみました。
次回は、じっくりと廻ってみたいものです。
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初めて見ました「融雪噴水?」
北国へ行くと、道路の中央線に「融雪噴水?」が敷設してあるのは知っていましたが、金沢で水が
出ているのを初めて見ました。
この設備の本当の名前は何といのでしょうかねぇ~
この日は、積雪に備えて試運転だったそうです。

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大坂城・山里丸
『秀頼・淀殿自刃の地』
大坂城天守閣の南側は、たくさんの観光客で賑わっていますが、北側の「山里丸(山里曲輪)」あたりは、訪れ
る人も少なく秀頼・淀君の石碑あたりは物悲しさを感じます。
山里曲輪側から望む天守 (登城は4月25日でした)

1615年大坂夏の陣で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀君が徳川家康に敗れて自刃した場所とされる場所
が山里曲輪です。
秀頼・淀殿自刃の碑

戦火で本丸が焼けて危なくなると秀頼や淀君、千姫達は、お付きの家臣達とともに、山里曲輪の櫓の中に逃
れた。
秀頼を救う為に千姫と、そのお付きの者達は東軍のある武将と連絡を取り、この場所を千姫達は脱出し東軍
の祖父である家康のところに行き秀頼の救出を懇願したが受け入れられず、淀君、秀頼達一同は、全員がこ
この櫓の中で自刃し、ついに豊臣家は滅びたというのです。(ドラマ脚本で見られる逸話ですね)
この山里曲輪の堀土手に、淀殿の墓と表示されている祠みたいなものがありますが、淀殿の墓なのでしょうか。
淀殿の墓?

極楽橋から望む天守

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いつもありがとうございます。
広島へ南下中です。
久ぶりに富士山が良く見えました♪

大坂城天守閣の南側は、たくさんの観光客で賑わっていますが、北側の「山里丸(山里曲輪)」あたりは、訪れ
る人も少なく秀頼・淀君の石碑あたりは物悲しさを感じます。
山里曲輪側から望む天守 (登城は4月25日でした)

1615年大坂夏の陣で、豊臣秀吉の子・秀頼とその母・淀君が徳川家康に敗れて自刃した場所とされる場所
が山里曲輪です。
秀頼・淀殿自刃の碑

戦火で本丸が焼けて危なくなると秀頼や淀君、千姫達は、お付きの家臣達とともに、山里曲輪の櫓の中に逃
れた。
秀頼を救う為に千姫と、そのお付きの者達は東軍のある武将と連絡を取り、この場所を千姫達は脱出し東軍
の祖父である家康のところに行き秀頼の救出を懇願したが受け入れられず、淀君、秀頼達一同は、全員がこ
この櫓の中で自刃し、ついに豊臣家は滅びたというのです。(ドラマ脚本で見られる逸話ですね)
この山里曲輪の堀土手に、淀殿の墓と表示されている祠みたいなものがありますが、淀殿の墓なのでしょうか。
淀殿の墓?

極楽橋から望む天守

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日本百名城 54 大阪城
『豊臣と徳川が築いた天下人の大城郭』
大阪城は、水運の利に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とするべく、1583年に築城を開始。
1585年には5重8階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させ、
これによって秀吉は天下人の権威を欲しいままに示したそうな。
豊臣大坂城

しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上。
その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛り土をし、
石垣を新たに積みなおして城を築いています。
徳川大坂城

しかし、この城も1665年に焼失。
以来、昭和5年に復興されるまで天守は存在していません。
この3代目天守は豊臣大坂城を模して、徳川大坂城の天守台上に建てられています。
観光客は多いですけど、意味不明のお城というところかな。
もう随分と生きてきましたが、修学旅行以来の人生2回目の登城です。
城内はサングラスして、かん高い声をした人たちが殆どでした。

ビルデング大阪城に入ってもしかたないから、料金所で「百名城スタンプ」を聞くと、なんと入場し1階の受付
にありますとのこと・・・。
大阪城がこんな風に見えてしまいました。

600円也を払ったので、シャチホコもボッチィっと

最近、城郭のライトアップにハマッテいますので、城前のホテルをキープしていました。
【夕暮れの大阪城】 仕事で来ましたので、残念ながらカメラはミラーレスです。

【ライトアップの大阪城】


【朝日の大阪城】

百名城スタンプ(96城目) 残りは、月山富田城、松江城、吉田郡山城、津和野城の4城です。

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大阪城は、水運の利に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とするべく、1583年に築城を開始。
1585年には5重8階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具をつけた豪華な望楼型天守を完成させ、
これによって秀吉は天下人の権威を欲しいままに示したそうな。
豊臣大坂城

しかし、1615年の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上。
その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大坂城の縄張りの上に盛り土をし、
石垣を新たに積みなおして城を築いています。
徳川大坂城

しかし、この城も1665年に焼失。
以来、昭和5年に復興されるまで天守は存在していません。
この3代目天守は豊臣大坂城を模して、徳川大坂城の天守台上に建てられています。
観光客は多いですけど、意味不明のお城というところかな。
もう随分と生きてきましたが、修学旅行以来の人生2回目の登城です。
城内はサングラスして、かん高い声をした人たちが殆どでした。

ビルデング大阪城に入ってもしかたないから、料金所で「百名城スタンプ」を聞くと、なんと入場し1階の受付
にありますとのこと・・・。
大阪城がこんな風に見えてしまいました。

600円也を払ったので、シャチホコもボッチィっと

最近、城郭のライトアップにハマッテいますので、城前のホテルをキープしていました。
【夕暮れの大阪城】 仕事で来ましたので、残念ながらカメラはミラーレスです。

【ライトアップの大阪城】


【朝日の大阪城】

百名城スタンプ(96城目) 残りは、月山富田城、松江城、吉田郡山城、津和野城の4城です。

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日本百名城55 「千早城」
『鎌倉幕府の大軍を楠木正成が見事に迎え撃った城』
「山中の曲輪跡などに、太平記のロマン」
千早城は、鎌倉末期の武将楠木正成が金剛山一帯に築城した山城のひとつで、尾根上に設けられた曲輪
群のひとつの城として捉えると、下赤坂城が出丸、上赤坂城が本丸、千早城が詰めの丸にあたります。
1333年、正成軍は防御の中心となった千早城に千人ほどが籠城して、城を囲む鎌倉幕府の大軍に大石や
大木を落したり,火攻めにするなどして善戦。
千早城の模型

千早城に鎌倉幕府軍が足止めされている間に、新田義貞が東国で挙兵して鎌倉幕府を滅亡へと導いた。
城はその後、南北朝時代に畠山氏に攻められ廃城となった。
城跡には現在、曲輪跡や空堀・堀切などの跡が残り、二の丸跡には千早神社が建っています。
千早城に登城しても、遺構は確認できないとの情報でしたので、金剛山麓「まつまさ」さんで、スタンプのみ
ゲットしました。
百名城スタンプ(84城目)[登城日:2012.4.7]

桜が終わりましたが、会社の近くで撮っていたコンデジの桜を開いてみました。




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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 火縄銃の攻撃に脆弱だった
木柵と浅い堀で防御した山城は、火縄銃による攻撃に脆弱であった。そのため何重もの
深い掘と塀によって防御するようになっています。
また守城側も火縄銃で攻城側の兵を攻撃できるようになったので、堀の深さをあえて槍
の届く程度にとどめる必要がなくなっています。
≪本日の問題≫
「山中の曲輪跡などに、太平記のロマン」
千早城は、鎌倉末期の武将楠木正成が金剛山一帯に築城した山城のひとつで、尾根上に設けられた曲輪
群のひとつの城として捉えると、下赤坂城が出丸、上赤坂城が本丸、千早城が詰めの丸にあたります。
1333年、正成軍は防御の中心となった千早城に千人ほどが籠城して、城を囲む鎌倉幕府の大軍に大石や
大木を落したり,火攻めにするなどして善戦。
千早城の模型

千早城に鎌倉幕府軍が足止めされている間に、新田義貞が東国で挙兵して鎌倉幕府を滅亡へと導いた。
城はその後、南北朝時代に畠山氏に攻められ廃城となった。
城跡には現在、曲輪跡や空堀・堀切などの跡が残り、二の丸跡には千早神社が建っています。
千早城に登城しても、遺構は確認できないとの情報でしたので、金剛山麓「まつまさ」さんで、スタンプのみ
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百名城スタンプ(84城目)[登城日:2012.4.7]

桜が終わりましたが、会社の近くで撮っていたコンデジの桜を開いてみました。







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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 火縄銃の攻撃に脆弱だった
木柵と浅い堀で防御した山城は、火縄銃による攻撃に脆弱であった。そのため何重もの
深い掘と塀によって防御するようになっています。
また守城側も火縄銃で攻城側の兵を攻撃できるようになったので、堀の深さをあえて槍
の届く程度にとどめる必要がなくなっています。
≪本日の問題≫