日本百名城61 「高取城」
『吉野山系の急峻な山頂に築かれた近世山城』
「見る者を圧倒する高石垣が山中を巡る」
高取城は、奈良盆地南方に連なる吉野山系の標高583mの山頂に築かれた山城です。
この高取城は、最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つ
に数えられ、1615年の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残さ
れています。(備中松山城は「こちら」、岩村城は「こちら」です。)
城の起源は南北朝時代に越智氏によって築かれたといわれます。
一時廃城となるが、筒井順慶の復興後、本多太郎左衛門・利朝親子が中世の山城から近世山城へと修築。
南北に長い尾根筋に高石垣によって築き上げられ、27基もの櫓を備えた巨大な山城でした。
関が原の戦いの前哨戦で、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、要害のおかげで西軍を敗退させ、そ
の堅固さは攻略できなかったことにより証明されています。
本丸上段の天守曲輪には三重の天守がそびえ、また山城には水堀も設けられていました。
太鼓御櫓台と新御櫓台(登城日:平成23年4月7日)
「太鼓御櫓」は2重2階、「新御櫓」も同じく2重2階、その間を土塀で繋いでいたそうです。

たかとり観光案内所「夢創館」で、百名城スタンプを押印し登城しました。
道路が狭いとの情報でしたが、道路はやや狭いものの舗装整備されていて、結構快適に上ることが
できました。
駐車場はなく、行き止まりに路上駐車です。4、5台は駐車できます。

足場が悪い急坂を数分昇ると、眼の前に石垣が迫ってきます。

本丸天守台石垣
天守台の石垣は打込みハギで、隅部は算木積みで反りのない工法です。

本丸への虎口

本丸跡
本丸部分の大きさは東西に75メートル×南北に60メートル、高さは約8メートルの石垣に囲まれています。

天守台の穴蔵
このような穴蔵形式をもつ天守台は、他では犬山城、福知山城、岐阜城が同じような形式で、天守台としては
発展期の築城様式と考えられています。

天守台跡
天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模で、外観3重、地下1階の天守と推定されて
います。

百名城スタンプ(83城目)[登城日:2012.4.7]


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 藤堂高虎
藤堂高虎は、何度も主君を変えた戦国武将として知られます。それは彼自身の「武士たる
もの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れています。
仕えた主君:浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→徳川
家康→秀忠→家光
高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城
した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事と堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも
石垣の反りを重視する加藤清正と対比されます。
≪本日の問題≫
「見る者を圧倒する高石垣が山中を巡る」
高取城は、奈良盆地南方に連なる吉野山系の標高583mの山頂に築かれた山城です。
この高取城は、最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つ
に数えられ、1615年の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残さ
れています。(備中松山城は「こちら」、岩村城は「こちら」です。)
城の起源は南北朝時代に越智氏によって築かれたといわれます。
一時廃城となるが、筒井順慶の復興後、本多太郎左衛門・利朝親子が中世の山城から近世山城へと修築。
南北に長い尾根筋に高石垣によって築き上げられ、27基もの櫓を備えた巨大な山城でした。
関が原の戦いの前哨戦で、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、要害のおかげで西軍を敗退させ、そ
の堅固さは攻略できなかったことにより証明されています。
本丸上段の天守曲輪には三重の天守がそびえ、また山城には水堀も設けられていました。
太鼓御櫓台と新御櫓台(登城日:平成23年4月7日)
「太鼓御櫓」は2重2階、「新御櫓」も同じく2重2階、その間を土塀で繋いでいたそうです。

たかとり観光案内所「夢創館」で、百名城スタンプを押印し登城しました。
道路が狭いとの情報でしたが、道路はやや狭いものの舗装整備されていて、結構快適に上ることが
できました。
駐車場はなく、行き止まりに路上駐車です。4、5台は駐車できます。

足場が悪い急坂を数分昇ると、眼の前に石垣が迫ってきます。


本丸天守台石垣
天守台の石垣は打込みハギで、隅部は算木積みで反りのない工法です。

本丸への虎口

本丸跡
本丸部分の大きさは東西に75メートル×南北に60メートル、高さは約8メートルの石垣に囲まれています。

天守台の穴蔵
このような穴蔵形式をもつ天守台は、他では犬山城、福知山城、岐阜城が同じような形式で、天守台としては
発展期の築城様式と考えられています。

天守台跡
天守の大きさは東西に約16メートル、南北に約14メートルの規模で、外観3重、地下1階の天守と推定されて
います。

百名城スタンプ(83城目)[登城日:2012.4.7]


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 藤堂高虎
藤堂高虎は、何度も主君を変えた戦国武将として知られます。それは彼自身の「武士たる
もの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れています。
仕えた主君:浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→徳川
家康→秀忠→家光
高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城
した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事と堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも
石垣の反りを重視する加藤清正と対比されます。
≪本日の問題≫
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