日本百名城66 『津和野城』 【100名城完結】
中世の山城を生かしながら築かれた総石垣の要塞
『雲海の空に高石垣がそびえ立つ』
津和野城は1296年頃、鎌倉幕府が能登の豪族・吉見頼行を派遣して築城したのが、はじまりと伝わります。
小規模な曲輪を連ねた典型的な中世山城でしたが、1601年の関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎成正が
城山山頂を削平して、三重天守を建て壮大な石垣を設けて近世山城へと大改築しています。
現在、城跡には山城の石垣としては屈指の壮大な高石垣が残っています。
広島空港から走ってくれたビッツくん(観光リフト駐車場)

山城ですがリフトがありますので、楽チンです。

リフトを降りて、山道を10分楽しみます。

三の丸から見る人質郭と三十間台(本丸)の石垣

結構広い三十間台

三十間から見る人質郭と三の丸

三十間台から津和野の街並みが一望できます

どうして運んだのか、山城の石垣群

5年余りで、沖縄3城、北海道の3城を含めて、100名城を踏破しました!
ずっ~と大勢の方にお付き合い戴き感謝しています。
100名城の旅を記録した『日本百名城 塗りつぶし同好会』は、「こちら」です。
日本地図が真っ赤になっています、良かったら覗いて見てください!
ブログタイトルの『100名城の旅』は完結しましたが、昨年より「お城のライトアップ写真」に目覚めてしまい、
もう暫くお城廻りが続きますので、お付き合い頂ければ幸いです。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。
100名城目のスタンプは、スタンプ帳を忘れてしまいましたので、メモ用紙にスタンプになってしまいました。
<登城日:平成26年6月30日>

『雲海の空に高石垣がそびえ立つ』
津和野城は1296年頃、鎌倉幕府が能登の豪族・吉見頼行を派遣して築城したのが、はじまりと伝わります。
小規模な曲輪を連ねた典型的な中世山城でしたが、1601年の関ヶ原の戦いの行賞で入城した坂崎成正が
城山山頂を削平して、三重天守を建て壮大な石垣を設けて近世山城へと大改築しています。
現在、城跡には山城の石垣としては屈指の壮大な高石垣が残っています。
広島空港から走ってくれたビッツくん(観光リフト駐車場)

山城ですがリフトがありますので、楽チンです。

リフトを降りて、山道を10分楽しみます。

三の丸から見る人質郭と三十間台(本丸)の石垣

結構広い三十間台

三十間から見る人質郭と三の丸

三十間台から津和野の街並みが一望できます

どうして運んだのか、山城の石垣群


5年余りで、沖縄3城、北海道の3城を含めて、100名城を踏破しました!
ずっ~と大勢の方にお付き合い戴き感謝しています。
100名城の旅を記録した『日本百名城 塗りつぶし同好会』は、「こちら」です。
日本地図が真っ赤になっています、良かったら覗いて見てください!
ブログタイトルの『100名城の旅』は完結しましたが、昨年より「お城のライトアップ写真」に目覚めてしまい、
もう暫くお城廻りが続きますので、お付き合い頂ければ幸いです。
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100名城目のスタンプは、スタンプ帳を忘れてしまいましたので、メモ用紙にスタンプになってしまいました。
<登城日:平成26年6月30日>

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日本百名城 64 松江城
『江戸時代初期の現存城』
1600年の 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城。
堀尾吉晴公

月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城があった亀山に近世城郭を造営。

天守は外観4重内部5階、地下の穴倉1階、外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので
3重目の南北面に入母屋屋根の出窓をつけています。
高さは本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)。


2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落が8箇所あることを特徴としている。

地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例です。

現存城の木造天守に兵どもの吐息を感じます!


ご存知ですか?
天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から
出る。

そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中に
さらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。
石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となっています。
築城に若い娘の人柱伝説は、大分府内城、彦根城、長浜城、丸岡城、姫路城などで伝わっており、普通に行わ
れていたのかも知れません。
なんということを・・・。
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いつもありがとうございます。
日本百名城スタンプ (平成26年4月30日登城 98城目です。)
1600年の 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城。
堀尾吉晴公

月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城があった亀山に近世城郭を造営。


天守は外観4重内部5階、地下の穴倉1階、外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので
3重目の南北面に入母屋屋根の出窓をつけています。
高さは本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)。


2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落が8箇所あることを特徴としている。


地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例です。

現存城の木造天守に兵どもの吐息を感じます!




ご存知ですか?
天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から
出る。

そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされた。娘は踊りの最中に
さらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。
石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となっています。
築城に若い娘の人柱伝説は、大分府内城、彦根城、長浜城、丸岡城、姫路城などで伝わっており、普通に行わ
れていたのかも知れません。
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日本百名城スタンプ (平成26年4月30日登城 98城目です。)

日本百名城65 月山富田城
『山陰の覇者・尼子氏の居城』
月山富田城は、島根県安来市の月山(標高197m)に造営され、山頂に本丸を置く典型的な山城です。
戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏6代の盛衰の舞台となった城でもあります。

尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久
の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名になっています。
天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれ、月山富田城の戦いでも有名
な城郭です。

最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となっています。
1600年以降は堀尾氏が城主となるが、1611年に堀尾忠晴が松江城に移り廃城となっています。

城への全ての進入路は山腹の山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部と結んで
います。
山中御殿平(さんちゅうごてんなり)は、御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれ
たものと考えられています。
山中御殿


山中鹿之助 参上!

御殿の最下段にある軍事大井戸

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百名城スタンプ(平成26年4月30日登城 97城目)

月山富田城は、島根県安来市の月山(標高197m)に造営され、山頂に本丸を置く典型的な山城です。
戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏6代の盛衰の舞台となった城でもあります。

尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久
の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名になっています。
天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれ、月山富田城の戦いでも有名
な城郭です。

最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となっています。
1600年以降は堀尾氏が城主となるが、1611年に堀尾忠晴が松江城に移り廃城となっています。

城への全ての進入路は山腹の山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部と結んで
います。
山中御殿平(さんちゅうごてんなり)は、御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれ
たものと考えられています。
山中御殿



山中鹿之助 参上!

御殿の最下段にある軍事大井戸

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百名城スタンプ(平成26年4月30日登城 97城目)
