3回目の岡山城
『3回目の岡山城』
山陽路の城のライトアップ写真を撮りに4月19日~21日に行って来ました。
出発の時から天気予報は「雨」でしたが、スケジュールを組んだら日程変更ができないのが、サラリーマンの
悲しい宿命です。
岡山駅に着くと、桃太郎さんが「犬」、「きじ」、「はと」を従えて出迎えてくれました。

まずは久しぶりの岡山城です。
「西の丸 西手櫓」
江戸時代初頭に二の丸の西側の防備に設けた隅櫓で、今に残っています。
西の丸は市街地になっていますので、今回、初めてみる櫓です。 現在は小学校のグランドになっています
ので、残念ながら立ち入ることはできませんでした。

この城は、お城廻りをはじめてから、2010年2月、2012年2月、そして今回と3回目の登城になります。
【廊下門】
天守の復元時に、木造で復元されています。

【月見櫓】
二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築時に、本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓です。

【宇喜多氏築城時の石垣】
平成5年の発掘時に発見されています。

【不明(あかずの)門】
本段への入口になる門で、天守と同時に鉄筋コンクリートで復元されています。

【天守閣】
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した3層6階建ての望楼形天守閣が、昭和41年に鉄筋コンクリート造り
で復元されています。
城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造です。

この角度からがいいですね。

後楽園へ渡る橋、ここからのライトアップを撮ってみたいですね。

この時点までは小雨程度でしたので、日没の18時30分まで、岡山神社と小早川秀明の墓所がある瑞雲寺
へと向うため、一旦、岡山城を後にしました。
戻ってこれたのでしょうか。
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いつもありがとうございます。
山陽路の城のライトアップ写真を撮りに4月19日~21日に行って来ました。
出発の時から天気予報は「雨」でしたが、スケジュールを組んだら日程変更ができないのが、サラリーマンの
悲しい宿命です。
岡山駅に着くと、桃太郎さんが「犬」、「きじ」、「はと」を従えて出迎えてくれました。

まずは久しぶりの岡山城です。
「西の丸 西手櫓」
江戸時代初頭に二の丸の西側の防備に設けた隅櫓で、今に残っています。
西の丸は市街地になっていますので、今回、初めてみる櫓です。 現在は小学校のグランドになっています
ので、残念ながら立ち入ることはできませんでした。

この城は、お城廻りをはじめてから、2010年2月、2012年2月、そして今回と3回目の登城になります。
【廊下門】
天守の復元時に、木造で復元されています。

【月見櫓】
二代目藩主の池田忠雄が岡山城の増改築時に、本丸搦め手に備えて建てた江戸時代初期の隅櫓です。


【宇喜多氏築城時の石垣】
平成5年の発掘時に発見されています。

【不明(あかずの)門】
本段への入口になる門で、天守と同時に鉄筋コンクリートで復元されています。

【天守閣】
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した3層6階建ての望楼形天守閣が、昭和41年に鉄筋コンクリート造り
で復元されています。
城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造です。

この角度からがいいですね。

後楽園へ渡る橋、ここからのライトアップを撮ってみたいですね。

この時点までは小雨程度でしたので、日没の18時30分まで、岡山神社と小早川秀明の墓所がある瑞雲寺
へと向うため、一旦、岡山城を後にしました。
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日本百名城68 備中松山城
南御門や平櫓が再建され、本丸の威容が蘇る
『臥牛山上に築かれた近世屈指の山城』
備中松山城は、秋葉重信が1240年に築いたのが最初とされます。
城がある臥牛山は中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあり、毛利家などの城塞として
機能していた。
備中松山城天守(岡山県高梁市)

城主は時代とともに、共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷しています。
戦国時代の三村元親の時代には、大松山・小松山を範囲とする一大城塞となり、現在も石垣の一部が残っ
ています。
1574年、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返り、翌年にかけて三村氏と毛利氏の争い(備中兵乱)
が続いた。
城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。
備中兵乱の後は、毛利氏の領有となっています。
江戸時代になり、小堀親子(遠州)の修築を経て、1681~84年に水谷勝宗の大改修で近世三大山城とされる
最終的な城の形となっています。
城の縄張は4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の本丸に建っています。
二重二階の天守は現存する天守の中では最小ですが、日本一高いところに建っています。
平成9年に本丸南御門をはじめ平櫓・土塁などが再建されています。
平成24年2月10日
岡山市街を8時30分に出発し、岡山自動車道の賀陽ICを経由して9時50分に「ふいご峠」に到着しました。
平日の午前中ということもあり、駐車場には車は止まっていません。

ふいご峠の駐車場から、遊歩道的に整備された山道を700mほど登ると、天守に登城できます。
ほぼ中間地点に突如「中太鼓の丸跡」の石垣が出現します。

更に、こんな石段を登ります。

大手門跡付近の石垣
人工的に築かれた石垣と天然の岩盤が融合した高石垣は圧巻です。
正面が大手門の石垣 大手門右側の天然岩盤と融合した石垣

この岩盤は、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっているそうです。
さらに、巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。
これらの影響で上部の石垣が変形しており、将来崩落する危険があるそうです。
二の丸から望んだ現存天守(右上)と再建された五の平櫓(中央)と六の平櫓(左)

現存天守
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守です。
天守は南面に唐破風付出窓、東面に入母屋造の突出部が付けられ、凝った意匠の外観になっています。

天守入り口
現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から
渡櫓を経て天守へ至ったそうです。

天守1階
1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られていますが、城内で火を使うことは禁じられ、殆ど
使われることはなかったという。

天守2階
本当に小さい城ですが、木造の現存天守はいいですね。

日本百名城スタンプ(No68 備中松山城)

今回の旅で一番楽しみにしていた「現存天守・備中松山城」に登城できましたので、岡山駅前の桃太郎
くんに挨拶して、岡山を後にしました。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上月城の戦い
上月城の戦いは、1578年に播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦で、
この合戦で尼子氏は織田信長から見捨てられた形で、滅亡しています。
≪本日の問題≫
『臥牛山上に築かれた近世屈指の山城』
備中松山城は、秋葉重信が1240年に築いたのが最初とされます。
城がある臥牛山は中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあり、毛利家などの城塞として
機能していた。
備中松山城天守(岡山県高梁市)

城主は時代とともに、共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷しています。
戦国時代の三村元親の時代には、大松山・小松山を範囲とする一大城塞となり、現在も石垣の一部が残っ
ています。
1574年、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返り、翌年にかけて三村氏と毛利氏の争い(備中兵乱)
が続いた。
城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。
備中兵乱の後は、毛利氏の領有となっています。
江戸時代になり、小堀親子(遠州)の修築を経て、1681~84年に水谷勝宗の大改修で近世三大山城とされる
最終的な城の形となっています。
城の縄張は4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の本丸に建っています。
二重二階の天守は現存する天守の中では最小ですが、日本一高いところに建っています。
平成9年に本丸南御門をはじめ平櫓・土塁などが再建されています。
平成24年2月10日
岡山市街を8時30分に出発し、岡山自動車道の賀陽ICを経由して9時50分に「ふいご峠」に到着しました。
平日の午前中ということもあり、駐車場には車は止まっていません。


ふいご峠の駐車場から、遊歩道的に整備された山道を700mほど登ると、天守に登城できます。
ほぼ中間地点に突如「中太鼓の丸跡」の石垣が出現します。

更に、こんな石段を登ります。

大手門跡付近の石垣
人工的に築かれた石垣と天然の岩盤が融合した高石垣は圧巻です。
正面が大手門の石垣 大手門右側の天然岩盤と融合した石垣


この岩盤は、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっているそうです。
さらに、巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。
これらの影響で上部の石垣が変形しており、将来崩落する危険があるそうです。
二の丸から望んだ現存天守(右上)と再建された五の平櫓(中央)と六の平櫓(左)

現存天守
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守です。
天守は南面に唐破風付出窓、東面に入母屋造の突出部が付けられ、凝った意匠の外観になっています。

天守入り口
現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から
渡櫓を経て天守へ至ったそうです。

天守1階
1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られていますが、城内で火を使うことは禁じられ、殆ど
使われることはなかったという。


天守2階
本当に小さい城ですが、木造の現存天守はいいですね。


日本百名城スタンプ(No68 備中松山城)

今回の旅で一番楽しみにしていた「現存天守・備中松山城」に登城できましたので、岡山駅前の桃太郎
くんに挨拶して、岡山を後にしました。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上月城の戦い
上月城の戦いは、1578年に播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦で、
この合戦で尼子氏は織田信長から見捨てられた形で、滅亡しています。
≪本日の問題≫
日本百名城69 鬼ノ城
角桜や門などが再建され、幻の城が姿を現しつつある
『古代吉備の要衝を占めた天険の山城』
鬼ノ城は、総社平野を見下ろす標高約400mの鬼城山に築かれた古代山城です。
「日本書記」などに記載がない謎の城ですが、長年の発掘調査の成果や他の山城との比較などから
7世紀の築城との見方が強まっています。
城外は南と東は断崖絶壁で、山の8~9合目を城壁が取り囲み、長さ2.8Kmに及んでいます。
城壁は基本的に版築土塁ですが、6ヵ所に水門や目立つ部分には高石垣が築かれている。
水門の他に東西南北4ヵ所の城門が確認され、西門周辺では、版築土塁、高石垣、角桜などが復元され
ています。
日本百名城69 鬼ノ城(岡山県総社市)

桃太郎説話や「温羅(うら)伝説」の舞台として、古くから親しまれてきた鬼ノ城(きのじょう)。
その築城の目的については、663年の「白村江の戦い」における敗北から、唐・新羅の連合軍が本土に
侵攻するのではないかと危機感を抱いた当時の政権が、西日本各地に築かせた古代山城の一つである
という説がよく知られています。
しかし鬼ノ城は、『日本書紀』などには一切登場せず、築かれた時期についても様々な説があり、未だ多
くの謎に包まれた遺跡です。

標高400mにある山城ですが、百名城スタンプが置いてある「鬼城山ビジターセンター」まで、車で
快適に上がることができます。
このセンターには清涼飲料水の販売機は設置されていませんので、持参が必要です。

ビジターセンターから登り始めると、直ぐ分岐があります。
右が西門が展望できる学習展望デッキが設置されたコースで、左が車でも上がれる平坦なコースです。

学習展望デッキから望む西門

西門付近の版築土塁

城外から見る西門
3間×2間で構成される木造3階建ての大規模な城門が復元されています。

角桜上から見る西門

車道ルートから見る西門
鬼ノ城は城壁の約2.8Kmに遊歩道が整備されていますが、今回は西門付近のみの登城でしたので、
次回は、全コースを歩いて見たいと思います。

日本百名城スタンプ


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 臼杵城
島津義久は大友領へ侵攻し、1586年12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援
に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略しています。
この時、臼杵城に籠城していた宗麟は大砲「国崩し」を使って臼杵城を死守し戦国大名と
しての意地を見せています。
≪本日の問題≫
『古代吉備の要衝を占めた天険の山城』
鬼ノ城は、総社平野を見下ろす標高約400mの鬼城山に築かれた古代山城です。
「日本書記」などに記載がない謎の城ですが、長年の発掘調査の成果や他の山城との比較などから
7世紀の築城との見方が強まっています。
城外は南と東は断崖絶壁で、山の8~9合目を城壁が取り囲み、長さ2.8Kmに及んでいます。
城壁は基本的に版築土塁ですが、6ヵ所に水門や目立つ部分には高石垣が築かれている。
水門の他に東西南北4ヵ所の城門が確認され、西門周辺では、版築土塁、高石垣、角桜などが復元され
ています。
日本百名城69 鬼ノ城(岡山県総社市)

桃太郎説話や「温羅(うら)伝説」の舞台として、古くから親しまれてきた鬼ノ城(きのじょう)。
その築城の目的については、663年の「白村江の戦い」における敗北から、唐・新羅の連合軍が本土に
侵攻するのではないかと危機感を抱いた当時の政権が、西日本各地に築かせた古代山城の一つである
という説がよく知られています。
しかし鬼ノ城は、『日本書紀』などには一切登場せず、築かれた時期についても様々な説があり、未だ多
くの謎に包まれた遺跡です。

標高400mにある山城ですが、百名城スタンプが置いてある「鬼城山ビジターセンター」まで、車で
快適に上がることができます。
このセンターには清涼飲料水の販売機は設置されていませんので、持参が必要です。


ビジターセンターから登り始めると、直ぐ分岐があります。
右が西門が展望できる学習展望デッキが設置されたコースで、左が車でも上がれる平坦なコースです。

学習展望デッキから望む西門

西門付近の版築土塁

城外から見る西門
3間×2間で構成される木造3階建ての大規模な城門が復元されています。

角桜上から見る西門

車道ルートから見る西門
鬼ノ城は城壁の約2.8Kmに遊歩道が整備されていますが、今回は西門付近のみの登城でしたので、
次回は、全コースを歩いて見たいと思います。

日本百名城スタンプ


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 臼杵城
島津義久は大友領へ侵攻し、1586年12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援
に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略しています。
この時、臼杵城に籠城していた宗麟は大砲「国崩し」を使って臼杵城を死守し戦国大名と
しての意地を見せています。
≪本日の問題≫
日本百名城70 岡山城
『川面に映える金烏城 岡山城』
宇喜多秀家が築いた岡山城天守閣は、1597年頃の竣工と言われています。
この時期は、豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期でした
が、古式な様式で造られ、意匠を凝らした天守閣は少ないようです。
天守閣は、大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた、「望楼型」と呼ばれる様式で、この様式は、犬山城・
丸岡城など初期の天守によく見られます。
外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が強調された姿をしており、それに金箔瓦が彩を
添えていた。「烏城」「金烏城」という異称は、これに由来します。
岡山城
ちょうど2年ぶりの登城です。前回の登城記は、「こちら」です。

秀吉没後も徳川家康らと政務の中枢にあったが、家臣団の統率に失敗し、1599年、家中騒動が勃発、歴
戦の重臣達に離反されます。
1600年の関ヶ原合戦では西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れますが、3年
後、幕府に出頭。
死罪を免れて2人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。
島にあること約50年、1655年に83歳で没した。
配流した宇喜多一族には、家秀の妻・豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられていまし
た。
今回は、レンタカーを借りての登城でしたので、駐車場が近い「大手門(南門)」から登城しました。

<クリックで拡大します>
不明門(残念ながらコンクリートです)

複合式望楼型4重6階(1597年築)
(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)

黒鉄門跡に立つと、2つの異変に気づきました。

1つは忍者の出現です。

2つ目は、中の段の石垣が崩壊寸前になっています。
2年前に来たときも、この東側が崩壊寸前でした。岡山城は石垣が弱いのでしょうか。

南門で鳥に餌をやりながら、鳥と戯れているオジさんがいらっしゃいました。
私もリタイアしたら、故郷の熊本城でやってみたいなぁ~と思いながら、岡山城を後にしました。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 越後で上杉対策中であった
上杉対策を前田利家、佐々成政らに託し京に向かったが、越前・近江国境の柳ヶ瀬峠に
到達したところで合戦の報が入り、そのまま清洲城に向かったといいます。
≪本日の問題≫
宇喜多秀家が築いた岡山城天守閣は、1597年頃の竣工と言われています。
この時期は、豊臣秀吉による天下統一事業も終わり、全国で城と城下町の整備が促進された時期でした
が、古式な様式で造られ、意匠を凝らした天守閣は少ないようです。
天守閣は、大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた、「望楼型」と呼ばれる様式で、この様式は、犬山城・
丸岡城など初期の天守によく見られます。
外壁に黒塗りの下見板を張っているため全体的に黒色が強調された姿をしており、それに金箔瓦が彩を
添えていた。「烏城」「金烏城」という異称は、これに由来します。
岡山城
ちょうど2年ぶりの登城です。前回の登城記は、「こちら」です。

秀吉没後も徳川家康らと政務の中枢にあったが、家臣団の統率に失敗し、1599年、家中騒動が勃発、歴
戦の重臣達に離反されます。
1600年の関ヶ原合戦では西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れますが、3年
後、幕府に出頭。
死罪を免れて2人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。
島にあること約50年、1655年に83歳で没した。
配流した宇喜多一族には、家秀の妻・豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられていまし
た。
今回は、レンタカーを借りての登城でしたので、駐車場が近い「大手門(南門)」から登城しました。


<クリックで拡大します>
不明門(残念ながらコンクリートです)


複合式望楼型4重6階(1597年築)
(鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)

黒鉄門跡に立つと、2つの異変に気づきました。

1つは忍者の出現です。


2つ目は、中の段の石垣が崩壊寸前になっています。
2年前に来たときも、この東側が崩壊寸前でした。岡山城は石垣が弱いのでしょうか。

南門で鳥に餌をやりながら、鳥と戯れているオジさんがいらっしゃいました。
私もリタイアしたら、故郷の熊本城でやってみたいなぁ~と思いながら、岡山城を後にしました。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 越後で上杉対策中であった
上杉対策を前田利家、佐々成政らに託し京に向かったが、越前・近江国境の柳ヶ瀬峠に
到達したところで合戦の報が入り、そのまま清洲城に向かったといいます。
≪本日の問題≫