日本百名城76 徳島城
渭山に築かれた蜂須賀氏阿波支配の拠点城郭
『緑色片岩で積まれた美しい石垣が残る』
豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政が 吉野川河口の標高62mの渭山に築城したの
が徳島城です
山頂の本丸や東二の丸・西二の丸・西三の丸からなる詰の城部分と 本丸御殿が置かれた麓の
御屋敷と呼ばれた部分からなる 戦国時代を思わせる縄張りです
初代の天守は1615年頃に取り壊されたといわれ その後天守は山頂の本丸ではなく 一段下がっ
た東二の丸に建てられたが これは極めてめずらしい例であった
城内を巡る石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩によって築かれており 徳島城の特色の
ひとつです(脆い石のようで、かなり崩れています)
御屋敷には表御殿庭園がつくられたが 現在も当時のまま残り国の名勝庭園に指定されている
平成元年に城の大手門にあたる鷲の門が再建されています
鷲の門
黒門外側の三木廓に構えられていた門で明治8年の解体後も唯一残されていましたが、昭和20
年の戦災で焼失し、その後平成元年に再建されています。
写真は、百名城めぐりで平成22年9月19日に撮ったものです。

御屋敷を巡る内堀と石垣
山麓の表御門部分は御屋敷と称され、南・東・北をコの字状の堀川という水堀に囲まれていた

<クリックで拡大します>
下乗橋
御殿への正面出入り口にあたり、この橋を渡ると桝形が設けられ厳重に守られていた。
木製の太鼓橋であったが、1869年に花崗岩製となり、1908年現在のような水平の橋に改造されています。

黒門桝型
御屋敷の南面には大手桝形の黒門跡の石垣が残っています

数寄屋橋
城の鬼門(北東)にあたる門にかかる橋で、不明門とも呼ばれ凶事の際以外は開かれることの
ない門でした。現在は往時を偲ばせる木製の橋が架けられています。

百名城スタンプ
徳島城博物館でゲットしました。(65城目)駐車場の料金所にもあります。

徳島に宿泊後、次は高知城に向かいました。
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応援ありがとうございました
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解は:敵だったから
比叡山延暦寺は、信長に敵対していた浅井長政と朝倉義景の連合軍と手を結ぶ明確な
敵であった
≪本日の問題≫
『緑色片岩で積まれた美しい石垣が残る』
豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政が 吉野川河口の標高62mの渭山に築城したの
が徳島城です
山頂の本丸や東二の丸・西二の丸・西三の丸からなる詰の城部分と 本丸御殿が置かれた麓の
御屋敷と呼ばれた部分からなる 戦国時代を思わせる縄張りです
初代の天守は1615年頃に取り壊されたといわれ その後天守は山頂の本丸ではなく 一段下がっ
た東二の丸に建てられたが これは極めてめずらしい例であった
城内を巡る石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩によって築かれており 徳島城の特色の
ひとつです(脆い石のようで、かなり崩れています)
御屋敷には表御殿庭園がつくられたが 現在も当時のまま残り国の名勝庭園に指定されている
平成元年に城の大手門にあたる鷲の門が再建されています
鷲の門
黒門外側の三木廓に構えられていた門で明治8年の解体後も唯一残されていましたが、昭和20
年の戦災で焼失し、その後平成元年に再建されています。
写真は、百名城めぐりで平成22年9月19日に撮ったものです。

御屋敷を巡る内堀と石垣
山麓の表御門部分は御屋敷と称され、南・東・北をコの字状の堀川という水堀に囲まれていた


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下乗橋
御殿への正面出入り口にあたり、この橋を渡ると桝形が設けられ厳重に守られていた。
木製の太鼓橋であったが、1869年に花崗岩製となり、1908年現在のような水平の橋に改造されています。

黒門桝型
御屋敷の南面には大手桝形の黒門跡の石垣が残っています

数寄屋橋
城の鬼門(北東)にあたる門にかかる橋で、不明門とも呼ばれ凶事の際以外は開かれることの
ない門でした。現在は往時を偲ばせる木製の橋が架けられています。

百名城スタンプ
徳島城博物館でゲットしました。(65城目)駐車場の料金所にもあります。

徳島に宿泊後、次は高知城に向かいました。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解は:敵だったから
比叡山延暦寺は、信長に敵対していた浅井長政と朝倉義景の連合軍と手を結ぶ明確な
敵であった
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