黒田官兵衛と長政親子が造営した大城郭 「福岡城」
『日本百名城85 福岡城』
「天守台をはじめ本丸・二の丸に壮大な石垣群が残る」
関ヶ原の戦いの戦功により、黒田官兵衛(孝高・如水)・長政親子に筑前が与えられた。
古代の迎賓館・鴻臚館(こうろかん)がおかれていた場所に1601年、福岡城築城の工事を初め、ここが明治
に至るまでの黒田氏の居城となります。
豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛と猛将黒田長政父子が、城の縄張りには特に心血を注いだ梯郭式平山
城で本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配され、47の櫓を配し縄張りの範囲は8万坪もあり、
九州一の巨城でした。
福岡城古図

<画像はクリックで全て拡大します。>
幅50mを越える内堀で本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などを囲み、中枢部は総石垣造りであった。
黒田官兵衛は築城の名手で、中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城など
に縄張りや助言を行っています。
福岡城CG再現

この福岡城には大天守、中天守、小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建てられたという事
実はいまだに確認されていません。
従来の通説では、1646年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれてい
ないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされています。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた1620年
3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が
発見されたことによって、天守があった可能性が示されています。
天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、
天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっています。
福岡城は今回の登城が初めてで、わくわくしながらの登城でしたので今でも鮮明に当日のことが回顧でき
ます。鴻臚館で百名城スタンプをゲットしてから、扇坂御門跡からの入城になりました。
扇坂御門跡

二の丸
二の丸は梅木園になっていました。松山城はみかん園になっていましたが、なぜなのでしょうか。

表御門跡
この石段を昇ると本丸です。

本丸
本丸御殿跡と本丸の井戸

御祈念櫓
ここは本丸の北東隅、つまりウシトラの方角ですから、鬼門封じ込めを行う御祈念櫓だそうです。
現在に祈念櫓は古写真と合わないので、大正寺(北九州市)移築されていた際に改築されているこのことです。

巨大な天守台

大天守への入口「鉄御門跡」
大天守台の北に位置し、本丸から天守曲輪への入口です。大正4年に崩れたため修復されています。

埋門跡と天守への入口

天守地階

天守台から見る鉄御門跡と本丸

南二の丸・西隅櫓

南二の丸・北隅櫓

「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守の想像図面を製作し、
本格的木造建築による再建にむけて運動を展開し、将来的に、天守をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や
大濠公園の一体的な整備を構想してそうです。
しかし、福岡市側は歴史資料が不足しているため天守の復元は困難との見解を福岡市議会にて示していま
す。
城郭ファンとしては、史跡を台無しにする観光目的の模擬天守の建設だけ止めて戴きたいですが、皆様は
如何ですか。
日本百名城92登城目 (登城日:平成24年6月3日)


ランキングに参加しています

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 官人で武装した人
武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。
≪本日の問題≫
「天守台をはじめ本丸・二の丸に壮大な石垣群が残る」
関ヶ原の戦いの戦功により、黒田官兵衛(孝高・如水)・長政親子に筑前が与えられた。
古代の迎賓館・鴻臚館(こうろかん)がおかれていた場所に1601年、福岡城築城の工事を初め、ここが明治
に至るまでの黒田氏の居城となります。
豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛と猛将黒田長政父子が、城の縄張りには特に心血を注いだ梯郭式平山
城で本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸が配され、47の櫓を配し縄張りの範囲は8万坪もあり、
九州一の巨城でした。
福岡城古図

<画像はクリックで全て拡大します。>
幅50mを越える内堀で本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などを囲み、中枢部は総石垣造りであった。
黒田官兵衛は築城の名手で、中津城や福岡城の他、大坂城、讃岐高松城、名護屋城(肥前国)、広島城など
に縄張りや助言を行っています。
福岡城CG再現

この福岡城には大天守、中天守、小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建てられたという事
実はいまだに確認されていません。
従来の通説では、1646年に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は描かれてい
ないため、幕府への遠慮から天守は造築されなかったとされています。
近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた1620年
3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が
発見されたことによって、天守があった可能性が示されています。
天守の解体を語ったとされるこの当時は、徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、
天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっています。
福岡城は今回の登城が初めてで、わくわくしながらの登城でしたので今でも鮮明に当日のことが回顧でき
ます。鴻臚館で百名城スタンプをゲットしてから、扇坂御門跡からの入城になりました。
扇坂御門跡

二の丸
二の丸は梅木園になっていました。松山城はみかん園になっていましたが、なぜなのでしょうか。

表御門跡
この石段を昇ると本丸です。

本丸
本丸御殿跡と本丸の井戸


御祈念櫓
ここは本丸の北東隅、つまりウシトラの方角ですから、鬼門封じ込めを行う御祈念櫓だそうです。
現在に祈念櫓は古写真と合わないので、大正寺(北九州市)移築されていた際に改築されているこのことです。

巨大な天守台

大天守への入口「鉄御門跡」
大天守台の北に位置し、本丸から天守曲輪への入口です。大正4年に崩れたため修復されています。

埋門跡と天守への入口


天守地階


天守台から見る鉄御門跡と本丸

南二の丸・西隅櫓

南二の丸・北隅櫓


「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」では、石垣や礎石から割り出した5重天守の想像図面を製作し、
本格的木造建築による再建にむけて運動を展開し、将来的に、天守をはじめ鴻臚館を含めた福岡城全体や
大濠公園の一体的な整備を構想してそうです。
しかし、福岡市側は歴史資料が不足しているため天守の復元は困難との見解を福岡市議会にて示していま
す。
城郭ファンとしては、史跡を台無しにする観光目的の模擬天守の建設だけ止めて戴きたいですが、皆様は
如何ですか。
日本百名城92登城目 (登城日:平成24年6月3日)


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 官人で武装した人
武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。
≪本日の問題≫
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大宰府防衛のために築かれた「筑前国・大野城」
春の九州城攻略に、6月1日~3日で行ってきました。
7時30分に、5月から就航している「787」で羽田を飛び立ち、9時10分には故郷地の九州に!

今回の九州旅の友は、小さくてかわいいVitzくんです。(福岡城にて)

今回、攻略した城は、大野城(福岡)→杵築城(大分)→大分府内城→岡城(大分)→臼杵城(大分)
→飫肥城(宮崎)→鹿児島・熊本は通過のみ→原城(長崎)→島原城(長崎)→名護屋城(佐賀)
→福岡城 と10城(百名城:7)と攻略し、百名城はトータルで92城を攻略しましたので、カウントダウンが
始まりました。
大分が多かったのは、大分の「まーりたんさん」のブログ(こちら)で、事前学習が出来ていたからですね。
まーりたんさんに感謝です!
記事の準備が出来次第に紹介していきたいと思いますので、お付き合いください。
では、早速、福岡空港に近い「大野城」からです。
『日本百名城86 筑前国・大野城』
「尾根や谷間に古代の土塁・石塁が残る」
663年、百済復興を目指す倭国(後の日本)は、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れます。
そこで倭国は連合軍が海を渡って攻め込んでくることを恐れ、博多湾側からの侵攻に備え防備を固める
ため、様々な防衛施設を建設しています。
この大野城は、その防衛施設のひとつで、飛鳥時代に築城された筑前・四王寺山にある古代山城(朝鮮
式山城)です。
大宰府 (7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関)
*多賀城と同じですネ。

大野城は大宰府北方の尾根をつたって延々8200メートル以上に及ぶ土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にか
かるところでは、石垣が築かれ、城門が4ヵ所開いています。
この大野城は大宰府北方という立地から、大宰府防衛を目的とした城であると考えられています。
城内の高く平たいところには、高床式の倉庫跡がり武具の他、炭化した米粒などが検出されている事か
ら穀物なども貯蔵していたことが分かっています。
四王寺山には遊歩道が整備されていますが、車で廻りましたので各施設の確認までは至りませんでした。
大野城百軒石垣
全長約180mに渡って、基底約9m、高さ約8mの石塁で築かれています。

登城86城目(平成24年6月1日)


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 豊臣秀勝
お江の二番目の夫・豊臣秀勝は文禄の役で8千の兵を率いて、細川忠興とともに九番隊の大将として外征したが、朝鮮国の巨済島にて病没しています。
≪本日の問題≫
7時30分に、5月から就航している「787」で羽田を飛び立ち、9時10分には故郷地の九州に!

今回の九州旅の友は、小さくてかわいいVitzくんです。(福岡城にて)

今回、攻略した城は、大野城(福岡)→杵築城(大分)→大分府内城→岡城(大分)→臼杵城(大分)
→飫肥城(宮崎)→鹿児島・熊本は通過のみ→原城(長崎)→島原城(長崎)→名護屋城(佐賀)
→福岡城 と10城(百名城:7)と攻略し、百名城はトータルで92城を攻略しましたので、カウントダウンが
始まりました。
大分が多かったのは、大分の「まーりたんさん」のブログ(こちら)で、事前学習が出来ていたからですね。
まーりたんさんに感謝です!
記事の準備が出来次第に紹介していきたいと思いますので、お付き合いください。
では、早速、福岡空港に近い「大野城」からです。
『日本百名城86 筑前国・大野城』
「尾根や谷間に古代の土塁・石塁が残る」
663年、百済復興を目指す倭国(後の日本)は、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れます。
そこで倭国は連合軍が海を渡って攻め込んでくることを恐れ、博多湾側からの侵攻に備え防備を固める
ため、様々な防衛施設を建設しています。
この大野城は、その防衛施設のひとつで、飛鳥時代に築城された筑前・四王寺山にある古代山城(朝鮮
式山城)です。
大宰府 (7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関)
*多賀城と同じですネ。

大野城は大宰府北方の尾根をつたって延々8200メートル以上に及ぶ土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にか
かるところでは、石垣が築かれ、城門が4ヵ所開いています。
この大野城は大宰府北方という立地から、大宰府防衛を目的とした城であると考えられています。
城内の高く平たいところには、高床式の倉庫跡がり武具の他、炭化した米粒などが検出されている事か
ら穀物なども貯蔵していたことが分かっています。
四王寺山には遊歩道が整備されていますが、車で廻りましたので各施設の確認までは至りませんでした。
大野城百軒石垣
全長約180mに渡って、基底約9m、高さ約8mの石塁で築かれています。


登城86城目(平成24年6月1日)


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昨日の正解: 豊臣秀勝
お江の二番目の夫・豊臣秀勝は文禄の役で8千の兵を率いて、細川忠興とともに九番隊の大将として外征したが、朝鮮国の巨済島にて病没しています。
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