秀吉が大陸への夢を馳せた「名護屋城」
日本百名城87 「名護屋城」
「陣城の常識を超えた高石垣や陣跡が残る巨大な陣城」
豊臣秀吉は1587年6月、豊臣秀吉は九州平定(九州の役)すると、1590年北条氏直を降し(小田原征伐)
奥羽仕置きを行い、徳川家康を関東に移封し天下統一をなします。
国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明侵攻への協力を要請
したが、朝鮮は拒絶します。
交渉決裂を聞いた秀吉は、1591年8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に
前線基地としての城築造を九州の大名に命じます。
築城に際しては、加藤清正、寺沢広高が名護屋城の普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫
工事で8か月後の1592年3月に完成しています。
名護屋城は、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれた。
城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられています。
規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なもので、唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の
中心となったそうです。
名護屋城模型(名護屋城博物館にあります)

<画像はクリックで全て拡大します>
今回の名護屋城登城には、1時間しか割り当てていませんでしたので、博物館に30分と城内「お急ぎコース」
の30分で廻ってきました。
名護屋城は、駐車場、博物館、登城がすべて無料です。佐賀県及び唐津市に感謝です!
全てが有料の天下の安土城にも見習って欲しいものです。
大手口:城の正面入口です。

大手道:東出丸から見る大手道です。

東出丸

三ノ丸
三ノ丸井戸跡がありますが、現在は埋められており深さは2mほどです。

本丸大手門
この場所の門を伊達政宗が青葉城に移築したという伝承があります。

本丸(左奥に木立が見えるところが天守台です。)
建物の基礎となる石や玉石が確認されているそうです。

天守台
五層七階の天守閣が建っていました。

また、城郭の周辺には各大名の陣屋が配置され、名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、
うち65ヵ所に遺構が残っています。
名護屋城の有力大名の陣所(名護屋城博物館よりお借りしています。)

朝鮮半島で戦線が膠着すると、1593年4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び
1597年2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させます。
この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。1598年9月18日、秀吉が
没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えています。
出兵の期間中、秀吉が名護屋城に滞在したのは、延べ1年2か月であったといいます。
出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなり、関ヶ原の戦いの後、1602年、広高は唐津城
の築城を開始し、この際に名護屋城を解体しその遺材を使用したそうですが、現在の唐津城は模擬天守で
あるため、その面影を忍ぶことはできません。
また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業を行われたよう
ですが、本格的に城が破壊されたのは、島原の乱以降のことです。
切り崩された三ノ丸の石垣(大手道付近)

島原の乱で徳川幕府が謀反の際名護屋城が利用されること恐れたためと、名護屋城を破壊することで幕府
が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたと見られています。
今回の登城は時間がなかったため、十分に城内を廻れませんでしたので、次回は一日かけて城内と各大名
陣所を廻ってみたいと思います。
日本百名城:91登城(登城日:平成24年6月3日)

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 肥前国
名護屋城は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市))にあった城で、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれ、現在、国の特別史跡に指定されています。
≪本日の問題≫
<参考文献:名護屋城博物館リーフレットなど>
「陣城の常識を超えた高石垣や陣跡が残る巨大な陣城」
豊臣秀吉は1587年6月、豊臣秀吉は九州平定(九州の役)すると、1590年北条氏直を降し(小田原征伐)
奥羽仕置きを行い、徳川家康を関東に移封し天下統一をなします。
国内統一を果たした秀吉は、世界に目を転じた。「高麗」つまり李氏朝鮮に、服属と明侵攻への協力を要請
したが、朝鮮は拒絶します。
交渉決裂を聞いた秀吉は、1591年8月、「唐入り」を翌年春に決行することを全国に告げ、肥前の名護屋に
前線基地としての城築造を九州の大名に命じます。
築城に際しては、加藤清正、寺沢広高が名護屋城の普請奉行となり、九州の諸大名を中心に動員し、突貫
工事で8か月後の1592年3月に完成しています。
名護屋城は、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれた。
城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、天守に葺かれていたものと考えられています。
規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なもので、唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治経済の
中心となったそうです。
名護屋城模型(名護屋城博物館にあります)

<画像はクリックで全て拡大します>
今回の名護屋城登城には、1時間しか割り当てていませんでしたので、博物館に30分と城内「お急ぎコース」
の30分で廻ってきました。
名護屋城は、駐車場、博物館、登城がすべて無料です。佐賀県及び唐津市に感謝です!
全てが有料の天下の安土城にも見習って欲しいものです。
大手口:城の正面入口です。


大手道:東出丸から見る大手道です。

東出丸

三ノ丸
三ノ丸井戸跡がありますが、現在は埋められており深さは2mほどです。


本丸大手門
この場所の門を伊達政宗が青葉城に移築したという伝承があります。

本丸(左奥に木立が見えるところが天守台です。)
建物の基礎となる石や玉石が確認されているそうです。


天守台
五層七階の天守閣が建っていました。


また、城郭の周辺には各大名の陣屋が配置され、名護屋城周辺には118ヵ所の陣跡が確認されており、
うち65ヵ所に遺構が残っています。
名護屋城の有力大名の陣所(名護屋城博物館よりお借りしています。)

朝鮮半島で戦線が膠着すると、1593年4月には講和交渉が開始されるが、交渉が破談すると秀吉は、再び
1597年2月から14万人を朝鮮半島へと上陸させます。
この慶長の役でも、補給・連絡の中継地として名護屋は重要な役割を果たした。1598年9月18日、秀吉が
没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えています。
出兵の期間中、秀吉が名護屋城に滞在したのは、延べ1年2か月であったといいます。
出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなり、関ヶ原の戦いの後、1602年、広高は唐津城
の築城を開始し、この際に名護屋城を解体しその遺材を使用したそうですが、現在の唐津城は模擬天守で
あるため、その面影を忍ぶことはできません。
また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業を行われたよう
ですが、本格的に城が破壊されたのは、島原の乱以降のことです。
切り崩された三ノ丸の石垣(大手道付近)

島原の乱で徳川幕府が謀反の際名護屋城が利用されること恐れたためと、名護屋城を破壊することで幕府
が明国や朝鮮と関係を改善する意思表示をしたと見られています。
今回の登城は時間がなかったため、十分に城内を廻れませんでしたので、次回は一日かけて城内と各大名
陣所を廻ってみたいと思います。
日本百名城:91登城(登城日:平成24年6月3日)

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 肥前国
名護屋城は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市))にあった城で、豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれ、現在、国の特別史跡に指定されています。
≪本日の問題≫
<参考文献:名護屋城博物館リーフレットなど>
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日本百名城88 吉野ヶ里(よしのがり)
日本の城の起源ともされる環壕集落
『3重の壕を巡らした巨大集落が復元されている』
吉野ヶ里は弥生時代前期から後期にかけての環壕集落で、脊振山地から筑紫平野に舌状に伸びた
台地上に営まれていた。
弥生時代に広く稲作が行われるようになると、水の権利やその他の権益をめぐり戦いが起こるよう
になった。
その結果、外敵から集落を守るために、周囲に二重三重に壕を巡らした「城」のルーツというべき環壕
集落が造られたと考えられる。
特に吉野ヶ里では、後期の環壕において突起部が造られ、そこから物見櫓を思わせる掘立柱建物跡
が発見されたことから、「魏志倭人伝」に記載された邪馬台国を彷彿させるとして注目を集めた。
現在、遺跡は整備が進み物見櫓や主祭殿・住居などの建物が復元されている。
物見櫓
南内郭には4棟の大きな高床建物があります。
これらは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており、兵士が南内郭への侵入者を厳重に
見張っていたと考えられています。
写真は、百名城巡りで平成23年2月2日に撮ったものです。

逆茂木[さかもぎ]
先を尖らせた杭や、鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割を
はたしていたと考えられています。
吉野ヶ里では、東の正門の他にも、一番重要な区域に近い門の左右などに、こうした設備が見つかって
います。

南内郭 ~王たちの住まい~
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落を始め、周りのムラムラを治めていた王やリーダー層
の人々が住んでいた場所と考えられています。
周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持って
いた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時
としては極めて貴重な、一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見
つかっていることなどから、このように考えられています。

物見櫓と支配者層の住まい

支配者層の住まい
南内郭には中央の広場を取り囲むようにたくさんの竪穴住居が建てられており、これらは様々な役割
を担う支配者層の住まいであったと考えられています。

支配者層の住まい
中には「いろり」があって、結構広い空間です。

主祭殿
吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、
中心的な建物と考えられています。
主祭殿は入口から一番遠く、時間が無かったため望遠で撮影し、次回の登城の楽しみに残しました。
城内全体を見学するのに、2時間を要するそうです。

百名城スタンプ(登城74城目です)


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 7人
お江は秀忠との間に、千姫(1597年)、珠姫(1599年)、勝姫(1601年)、
初姫(1602年)、家光(1604年)、忠長(1606年)、和子(1607年)の
2男・5女を産んでいます。
≪本日の問題≫
『3重の壕を巡らした巨大集落が復元されている』
吉野ヶ里は弥生時代前期から後期にかけての環壕集落で、脊振山地から筑紫平野に舌状に伸びた
台地上に営まれていた。
弥生時代に広く稲作が行われるようになると、水の権利やその他の権益をめぐり戦いが起こるよう
になった。
その結果、外敵から集落を守るために、周囲に二重三重に壕を巡らした「城」のルーツというべき環壕
集落が造られたと考えられる。
特に吉野ヶ里では、後期の環壕において突起部が造られ、そこから物見櫓を思わせる掘立柱建物跡
が発見されたことから、「魏志倭人伝」に記載された邪馬台国を彷彿させるとして注目を集めた。
現在、遺跡は整備が進み物見櫓や主祭殿・住居などの建物が復元されている。
物見櫓
南内郭には4棟の大きな高床建物があります。
これらは環壕の張り出した部分に対応するように建てられており、兵士が南内郭への侵入者を厳重に
見張っていたと考えられています。
写真は、百名城巡りで平成23年2月2日に撮ったものです。

逆茂木[さかもぎ]
先を尖らせた杭や、鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割を
はたしていたと考えられています。
吉野ヶ里では、東の正門の他にも、一番重要な区域に近い門の左右などに、こうした設備が見つかって
います。

南内郭 ~王たちの住まい~
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落を始め、周りのムラムラを治めていた王やリーダー層
の人々が住んでいた場所と考えられています。
周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持って
いた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時
としては極めて貴重な、一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見
つかっていることなどから、このように考えられています。

物見櫓と支配者層の住まい

支配者層の住まい
南内郭には中央の広場を取り囲むようにたくさんの竪穴住居が建てられており、これらは様々な役割
を担う支配者層の住まいであったと考えられています。

支配者層の住まい
中には「いろり」があって、結構広い空間です。

主祭殿
吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、
中心的な建物と考えられています。
主祭殿は入口から一番遠く、時間が無かったため望遠で撮影し、次回の登城の楽しみに残しました。
城内全体を見学するのに、2時間を要するそうです。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 7人
お江は秀忠との間に、千姫(1597年)、珠姫(1599年)、勝姫(1601年)、
初姫(1602年)、家光(1604年)、忠長(1606年)、和子(1607年)の
2男・5女を産んでいます。
≪本日の問題≫
日本百名城89 佐賀城
クリークの地形を生かして築かれた鍋島氏の巨城
『玄関、御式台を備えた宏壮な本丸御殿が再建される』
佐賀城は、1608年戦国大名竜造寺氏の居城であった村中城を鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築造して
います。
四周を幅の広い堀で囲まれた典型的な平城で、城内には本丸・二の丸・三の丸・西の丸の他、旧竜造寺家
家臣たちの屋敷も配されていた。
享保年間(1716-1736)の火災で天守を始め建物の多くを失い、1835年には2度目の火災で当時藩政の
中心であった二の丸御殿が消失したため10代藩主鍋島直正が本丸御殿を再建した。
この本丸御殿は、明治以降も県庁や学校など様々な施設として利用されていたが、昭和32年までに鯱の門
を除いてすべて解体されています。
平成16年に本丸御殿の一部が木造再建され、佐賀城本丸歴史館として開館しています。
鯱の門
1836年に建立され現存しています。
屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから、「鯱の門」と呼ばれています。
写真は、平成23年2月2日に百名城めぐりで撮ったものです。



本丸御殿
御玄関、御式台、御料理間、外御書院、御座間などから構成される本丸御殿は、平成16年に
再建されています。

本丸の石垣

天守台
高さ約9m、南北31m×東西約27mの巨大な天守台の上に5層の天守が建っていたが、1726年の
火災で焼失後は再建されていない。

百名城スタンプ(登城73城目)

sa-ko嬢は拒否していたので、アップして貰えませんでした。

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応援ありがとうございました
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 将軍職は徳川家で継承することを示すため
家康は将軍職を在職2年2ヵ月で、その座を息子・秀忠に譲っています。その最大の
理由は、将軍職は徳川家が代々継承していくことを天下に示すため、秀忠を将軍に
就任させています。
≪本日の問題≫
『玄関、御式台を備えた宏壮な本丸御殿が再建される』
佐賀城は、1608年戦国大名竜造寺氏の居城であった村中城を鍋島直茂・勝茂父子が拡張して築造して
います。
四周を幅の広い堀で囲まれた典型的な平城で、城内には本丸・二の丸・三の丸・西の丸の他、旧竜造寺家
家臣たちの屋敷も配されていた。
享保年間(1716-1736)の火災で天守を始め建物の多くを失い、1835年には2度目の火災で当時藩政の
中心であった二の丸御殿が消失したため10代藩主鍋島直正が本丸御殿を再建した。
この本丸御殿は、明治以降も県庁や学校など様々な施設として利用されていたが、昭和32年までに鯱の門
を除いてすべて解体されています。
平成16年に本丸御殿の一部が木造再建され、佐賀城本丸歴史館として開館しています。
鯱の門
1836年に建立され現存しています。
屋根の両端に青銅製の鯱が載ることから、「鯱の門」と呼ばれています。
写真は、平成23年2月2日に百名城めぐりで撮ったものです。



本丸御殿
御玄関、御式台、御料理間、外御書院、御座間などから構成される本丸御殿は、平成16年に
再建されています。

本丸の石垣

天守台
高さ約9m、南北31m×東西約27mの巨大な天守台の上に5層の天守が建っていたが、1726年の
火災で焼失後は再建されていない。

百名城スタンプ(登城73城目)

sa-ko嬢は拒否していたので、アップして貰えませんでした。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 将軍職は徳川家で継承することを示すため
家康は将軍職を在職2年2ヵ月で、その座を息子・秀忠に譲っています。その最大の
理由は、将軍職は徳川家が代々継承していくことを天下に示すため、秀忠を将軍に
就任させています。
≪本日の問題≫