宗麟公に会うため、豊後国なう
『宗麟公に呼ばれて府内に!』
宗麟公を記事にしているうちに、豊後に行きたくなって来ちゃいました。
豊後の歴史家といったら「まーりたんさん」です。
今回の豊後訪問にも、まーりたんさんの記事をたくさん読ませていただきました。
小雨降る羽田をかわいい飛行機に乗って、いざ豊後へ

大分に着いたらひどい雨で、予定していた「豊後富来城」も「豊後安岐城」もパス、パスです。
別府から高崎山まで、濃霧に悩まされながら、やっと大分に到着です。
大分道は山麓を走っているので、霧が深いようですね。
宗麟公に呼ばれて来たのですから、まず宗麟公を挨拶するため「大友館(上原館)」へ
大分上野高校の裏にあるんだよね~。と車を走らすも、まったく案内も出ていないしギブアップ。
う~ん。ギブアップかと思って走っていると、タクシーの運転手さんがタバコタイムで車外で休憩中。
「ほら、あの木立があるところがそうだよ」
「でも、俺は行ったことないし、地元の人も行かないよ」
「行くなら、大友遺跡体験館がいいよ~。いっぱい発掘品も展示してあるから・・・」
「ハイ、明日行きます!」
お礼を言って別れてから、しまった嘘をついてしまった! 行く予定はないのに・・・。
ということで辿りついた「大友館(上原館)跡」

開発が進み、想像以上に狭隘になっていました。
碑と小さな祠があるのみです。

さあ、今回の府内での目的のひとつである。府内城のライトアップへ!
ホテルを府内城の近くにとってあったので、チェックイン後に徒歩で府内城へ


うそです!
府内城はライトアップはされておりませんでした。
本当は暗闇に佇むお城でした。

でも、結構きれいに撮れましたので満足してホテルへ
一人旅なのに、ムダに広い部屋

明日は、黒田官兵衛さんの中津城へ向かいます。
雨が降らないといいなぁ~

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いつも応援ありがとうございます。
戦国クイズはお休みさせていただきます。
宗麟公を記事にしているうちに、豊後に行きたくなって来ちゃいました。
豊後の歴史家といったら「まーりたんさん」です。
今回の豊後訪問にも、まーりたんさんの記事をたくさん読ませていただきました。
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大分に着いたらひどい雨で、予定していた「豊後富来城」も「豊後安岐城」もパス、パスです。
別府から高崎山まで、濃霧に悩まされながら、やっと大分に到着です。
大分道は山麓を走っているので、霧が深いようですね。
宗麟公に呼ばれて来たのですから、まず宗麟公を挨拶するため「大友館(上原館)」へ
大分上野高校の裏にあるんだよね~。と車を走らすも、まったく案内も出ていないしギブアップ。
う~ん。ギブアップかと思って走っていると、タクシーの運転手さんがタバコタイムで車外で休憩中。
「ほら、あの木立があるところがそうだよ」
「でも、俺は行ったことないし、地元の人も行かないよ」
「行くなら、大友遺跡体験館がいいよ~。いっぱい発掘品も展示してあるから・・・」
「ハイ、明日行きます!」
お礼を言って別れてから、しまった嘘をついてしまった! 行く予定はないのに・・・。
ということで辿りついた「大友館(上原館)跡」

開発が進み、想像以上に狭隘になっていました。
碑と小さな祠があるのみです。


さあ、今回の府内での目的のひとつである。府内城のライトアップへ!
ホテルを府内城の近くにとってあったので、チェックイン後に徒歩で府内城へ


うそです!
府内城はライトアップはされておりませんでした。
本当は暗闇に佇むお城でした。

でも、結構きれいに撮れましたので満足してホテルへ
一人旅なのに、ムダに広い部屋

明日は、黒田官兵衛さんの中津城へ向かいます。
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名曲・荒城の月を生んだ古城 「岡城」
『日本百名城95 岡城』
「断崖絶壁を巧みに生かした要塞の高石垣が残る」
岡城は、現在の大分県竹田市にあった山城で、「臥牛城」「豊後竹田城」とも呼ばれています。
また、但馬国「竹田城」とともに石垣群が見事な山城で、ともに日本百名城に登録されています。
伝承では、1185年に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが初めであるとさ
れ、その山城は、南北朝時代の1334年に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡
張され、岡城と名付けられています。
岡城(豊後国)

1586年、耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を討つべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せ
ていたなか、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、その堅固さを誇っています。
豊臣秀吉の時代の1593年、文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、
大友氏重臣の親次も岡城を去ることとり、1594年播磨国三木から中川秀成]が移封され、入城後に3年が
かりで大規模な修築を施しています。
岡城大手門道と大手門跡
門は通常明六ツ(午前6時)に開き、暮六ツ(午後6時)に閉まっていたそうです。

<クリックで全て拡大します。>
桜馬場跡

三ノ丸石垣
超有名な石垣ですよね。 草木が枯れる秋以降がいいのでしょうか。

西中仕切跡と太鼓櫓石垣
城内の中枢である三ノ丸・二ノ丸への関門として重要であり、出入りを入念に管理されていた。

三ノ丸跡と二ノ丸跡
三ノ丸とニノ丸間は石段などなく、ゾーンで区分されています。

ニノ丸から本丸への石段

本丸跡と本丸からの眺望

「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわ
れているため、城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺められるところに建てられています。
ニノ丸の滝錬太郎銅像

大野川を挟んで岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、車が通過
すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており、岡城からでもその音を聞くことが出来ます。
また、土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址に
も歌碑があります。
城内に樹木がたくさんありますが伐採すると、山城の石垣が映えて竹田城のような「天空の城」になるの
ではないでしょうか。
日本百名城88登城目(平成24年6月1日登城)


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 棄丸
鶴松は、1589年5月27日、豊臣秀吉の長男(異説あり)として淀城で誕生し、幼名は“棄丸(すてまる)”でした。
≪本日の問題≫
「断崖絶壁を巧みに生かした要塞の高石垣が残る」
岡城は、現在の大分県竹田市にあった山城で、「臥牛城」「豊後竹田城」とも呼ばれています。
また、但馬国「竹田城」とともに石垣群が見事な山城で、ともに日本百名城に登録されています。
伝承では、1185年に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが初めであるとさ
れ、その山城は、南北朝時代の1334年に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡
張され、岡城と名付けられています。
岡城(豊後国)

1586年、耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を討つべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せ
ていたなか、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、その堅固さを誇っています。
豊臣秀吉の時代の1593年、文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、
大友氏重臣の親次も岡城を去ることとり、1594年播磨国三木から中川秀成]が移封され、入城後に3年が
かりで大規模な修築を施しています。
岡城大手門道と大手門跡
門は通常明六ツ(午前6時)に開き、暮六ツ(午後6時)に閉まっていたそうです。


<クリックで全て拡大します。>
桜馬場跡

三ノ丸石垣
超有名な石垣ですよね。 草木が枯れる秋以降がいいのでしょうか。

西中仕切跡と太鼓櫓石垣
城内の中枢である三ノ丸・二ノ丸への関門として重要であり、出入りを入念に管理されていた。


三ノ丸跡と二ノ丸跡
三ノ丸とニノ丸間は石段などなく、ゾーンで区分されています。


ニノ丸から本丸への石段

本丸跡と本丸からの眺望


「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわ
れているため、城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺められるところに建てられています。
ニノ丸の滝錬太郎銅像

大野川を挟んで岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、車が通過
すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており、岡城からでもその音を聞くことが出来ます。
また、土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址に
も歌碑があります。
城内に樹木がたくさんありますが伐採すると、山城の石垣が映えて竹田城のような「天空の城」になるの
ではないでしょうか。
日本百名城88登城目(平成24年6月1日登城)


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 棄丸
鶴松は、1589年5月27日、豊臣秀吉の長男(異説あり)として淀城で誕生し、幼名は“棄丸(すてまる)”でした。
≪本日の問題≫
豊後の海川を取り入れた堅固な縄張の「大分府内城」
『日本百名城94 大分府内城』
「西の丸西南櫓や宗門櫓、到着櫓が水面に映える」
府内城という名称は、大分市が中世に府内と呼ばれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・
守護大名であった大友氏の拠点でした。
大分駅東方に、大友氏館と呼ばれる守護館が築かれ、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を
備えた防衛拠点が置かれていたが、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、いずれも府内を捨てて近隣の
高崎山城などへ拠点を移しています。
府内城の大友宗麟公
天守台前の目立たないところにありました。

安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高(妻は石田三成の妹)が府内の荷落に築城を始め
たが、三成派の直高は徳川家康に6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であ
った早川長政が入城します。
西丸宗門櫓と東丸到着櫓(奥)

この長政は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、3万5千石で入封した竹中重利が府内城完成させています。
現在の府内城は、大分城址公園となっていて、本丸跡北西隅に人質櫓と西丸に宗門櫓が現存し、3棟の二重櫓
と大手門、土塀、廊下橋が復元されています。
大分府内城図

山里から西丸への廊下橋 廊下橋から見る二重櫓(人質櫓)

天守台 二重櫓(人質櫓)

天守の構造は不明ですが、天守台には約17mの天守が建っていたそうです。
天守台への石段

天守台から見る人質櫓と東丸の櫓

西丸跡には1966年に文化会館が建てられ、本丸跡は駐車場になっています。
1960年代といえば、九州においても小倉城、唐津城、平戸城、島原城、熊本城などが復興してきた時代
です。戦国時代ファンとしては、大分市の取組みが残念でなりません。
今後の取り組みに期待したいものです。
翌朝、宮崎に向かう前に大分駅前の宗麟公に挨拶して、豊後を後にしました。

日本百名城87登城目(平成24年6月1日登城)
*スタンプは文化会館の玄関に放置されています。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 平時忠
「平氏にあらずんば、人にあらず」の発言オリジナルは「此一門にあらざむ人は、皆人非人なるべし」で、平時忠の発言とされます。(平時忠は、清盛に嫁いだ平時子の兄弟です。)
≪本日の問題≫
「西の丸西南櫓や宗門櫓、到着櫓が水面に映える」
府内城という名称は、大分市が中世に府内と呼ばれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・
守護大名であった大友氏の拠点でした。
大分駅東方に、大友氏館と呼ばれる守護館が築かれ、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を
備えた防衛拠点が置かれていたが、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、いずれも府内を捨てて近隣の
高崎山城などへ拠点を移しています。
府内城の大友宗麟公
天守台前の目立たないところにありました。

安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高(妻は石田三成の妹)が府内の荷落に築城を始め
たが、三成派の直高は徳川家康に6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であ
った早川長政が入城します。
西丸宗門櫓と東丸到着櫓(奥)

この長政は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、3万5千石で入封した竹中重利が府内城完成させています。
現在の府内城は、大分城址公園となっていて、本丸跡北西隅に人質櫓と西丸に宗門櫓が現存し、3棟の二重櫓
と大手門、土塀、廊下橋が復元されています。
大分府内城図

山里から西丸への廊下橋 廊下橋から見る二重櫓(人質櫓)


天守台 二重櫓(人質櫓)


天守の構造は不明ですが、天守台には約17mの天守が建っていたそうです。
天守台への石段

天守台から見る人質櫓と東丸の櫓


西丸跡には1966年に文化会館が建てられ、本丸跡は駐車場になっています。
1960年代といえば、九州においても小倉城、唐津城、平戸城、島原城、熊本城などが復興してきた時代
です。戦国時代ファンとしては、大分市の取組みが残念でなりません。
今後の取り組みに期待したいものです。
翌朝、宮崎に向かう前に大分駅前の宗麟公に挨拶して、豊後を後にしました。


日本百名城87登城目(平成24年6月1日登城)
*スタンプは文化会館の玄関に放置されています。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 平時忠
「平氏にあらずんば、人にあらず」の発言オリジナルは「此一門にあらざむ人は、皆人非人なるべし」で、平時忠の発言とされます。(平時忠は、清盛に嫁いだ平時子の兄弟です。)
≪本日の問題≫