伊東氏と島津氏が長年争った境目の城 「日向・飫肥城」
『日本百名城96 飫肥城』
「城の象徴であった格調高い大手門が再建されている」
6月2日の朝、大分駅で大友宗麟公に挨拶をして、東九州自動車で宮崎・日南を目指して南下です。
快適に走れるのは津久見市までで、ここで高速道は終点になります。ここから国道10号線をひたすら南下
です。東国原前宮崎県知事の「高速道路が切れているんだ!」を思いながら・・・。
でも、対向車は殆どない。
高鍋から、また東九州自動車に乗って快適に「田野IC」まで、約4時間の一気走りです。
宮崎市内は雨でしたが、幸運にも飫肥はまだ雨が降り出していませんでした。
日向・飫肥城

飫肥は、伊東氏5万1干石の城下町として栄えた「九州の小京都」とも呼ばれ、石垣や蔵、武家屋敷、商人
通り、武家屋敷通りなどがあり、ゆっくりと散策したいところです。
飫肥は戦国時代、飫肥城の覇権をめぐって伊東家と島津家の間で激しい合戦が繰り広げられ、合戦は80
余年にわたって続きました。伊東義祐は、飫肥城主の島津忠親を打ち破り、念願であった飫肥城を奪いま
すが、すぐに島津氏の手に戻りました。
その後、1588年、豊臣秀吉の命により、義祐の子・祐兵が伊東家の居城として入城し初代藩主となり、
飫肥城下の建設に取りかかりました。以降、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を
治めました。
取り壊された大手門は昭和53年6月に、樹齢100年の飫肥杉を使用して復元され、飫肥城の玄関として勇壮
を誇っています。
飫肥城大手門 (左は正面から、右は城内側です。)
昭和53年に、大手門は飫肥杉を使って復元されています。

<画像はクリックで拡大します。>
大手門の空堀

城内の石垣と階段
この階段を上がったところに、飫肥城歴史資料館があります。

「日南(ひな)めぐり号」
日南市内を周遊しているようです。乗ってゆっくり廻ってみたいものです。

日本百名城89登城目(平成24年6月2日)

この日の登城は飫肥城のみで、3年ぶり帰省で熊本の実家まで、また一気走りです。
小型犬なみの体格を持つsakuraも少し落ち着けるようになり、へやんぽ中でもゆったりする時間を持てる
ようになりました。

顔は「ドロボーさん」ですが、時折みせる表情は“かわいい”の一言です。
ネザーランドが3羽いるなかで育ったからでしょうか、自分も片耳ずつですが立てたりしています。

sakuraのセクシーヒップと健脚の後ろ足です。
抱っこがあまり得意でなく、この後ろ足で蹴られると迫力があります。
うさぎには肉球はなく、特にロップは足毛が長く止まりたくてもブレーキが効かず、壁に正面衝突していま
したが、最近は全体重を後ろ足に乗せたり、ターンが上手になり衝突も少なくなってきました。

病気もなく健やかに育ってくれていますので、このまま成長して欲しいものです。
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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
前回の正解: 尾張
源義朝は馬も失い、裸足で尾張国野間にたどり着き、長田忠致とその子景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害されています。
伝承によれば、義朝は襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだという。
≪本日の問題≫
「城の象徴であった格調高い大手門が再建されている」
6月2日の朝、大分駅で大友宗麟公に挨拶をして、東九州自動車で宮崎・日南を目指して南下です。
快適に走れるのは津久見市までで、ここで高速道は終点になります。ここから国道10号線をひたすら南下
です。東国原前宮崎県知事の「高速道路が切れているんだ!」を思いながら・・・。
でも、対向車は殆どない。
高鍋から、また東九州自動車に乗って快適に「田野IC」まで、約4時間の一気走りです。
宮崎市内は雨でしたが、幸運にも飫肥はまだ雨が降り出していませんでした。
日向・飫肥城

飫肥は、伊東氏5万1干石の城下町として栄えた「九州の小京都」とも呼ばれ、石垣や蔵、武家屋敷、商人
通り、武家屋敷通りなどがあり、ゆっくりと散策したいところです。
飫肥は戦国時代、飫肥城の覇権をめぐって伊東家と島津家の間で激しい合戦が繰り広げられ、合戦は80
余年にわたって続きました。伊東義祐は、飫肥城主の島津忠親を打ち破り、念願であった飫肥城を奪いま
すが、すぐに島津氏の手に戻りました。
その後、1588年、豊臣秀吉の命により、義祐の子・祐兵が伊東家の居城として入城し初代藩主となり、
飫肥城下の建設に取りかかりました。以降、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を
治めました。
取り壊された大手門は昭和53年6月に、樹齢100年の飫肥杉を使用して復元され、飫肥城の玄関として勇壮
を誇っています。
飫肥城大手門 (左は正面から、右は城内側です。)
昭和53年に、大手門は飫肥杉を使って復元されています。


<画像はクリックで拡大します。>
大手門の空堀

城内の石垣と階段
この階段を上がったところに、飫肥城歴史資料館があります。


「日南(ひな)めぐり号」
日南市内を周遊しているようです。乗ってゆっくり廻ってみたいものです。

日本百名城89登城目(平成24年6月2日)

この日の登城は飫肥城のみで、3年ぶり帰省で熊本の実家まで、また一気走りです。
小型犬なみの体格を持つsakuraも少し落ち着けるようになり、へやんぽ中でもゆったりする時間を持てる
ようになりました。

顔は「ドロボーさん」ですが、時折みせる表情は“かわいい”の一言です。
ネザーランドが3羽いるなかで育ったからでしょうか、自分も片耳ずつですが立てたりしています。

sakuraのセクシーヒップと健脚の後ろ足です。
抱っこがあまり得意でなく、この後ろ足で蹴られると迫力があります。
うさぎには肉球はなく、特にロップは足毛が長く止まりたくてもブレーキが効かず、壁に正面衝突していま
したが、最近は全体重を後ろ足に乗せたり、ターンが上手になり衝突も少なくなってきました。

病気もなく健やかに育ってくれていますので、このまま成長して欲しいものです。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
前回の正解: 尾張
源義朝は馬も失い、裸足で尾張国野間にたどり着き、長田忠致とその子景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害されています。
伝承によれば、義朝は襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだという。
≪本日の問題≫
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