百名城100 「首里城」
琉球王国の栄華を伝える華麗なる王城
『正殿をはじめ御庭、諸門など王城の全貌が蘇りつつある』
1427年の記録に城の整備について記されていることから、首里城の創建はそれ以前だと推定されます。
城の基本的な縄張りが完成したのは、尚真王(しょうしんおう)と尚清王(しょうせいおう)の時代
(1477~1555年)です。
城は東西約400m、南北200mの規模を誇り、内郭と外郭で構成されていた。内郭は御庭(うーなー)を
中心とした行政空間、その南側「京の内」という祭祀空間、東側の「御内原」という居住空間からなり、
正殿、南殿、北殿など主な建物は内郭におかれていた。
内郭の東側を包むようにして外郭を配していた。
首里城は王位争いや失火で3度焼失したが再建された。明治になって軍が入ったのち学校となっていた。
太平洋戦争では城のすべてが灰燼に帰したが、平成4年には正殿など城の建物が再建されています。
平成12年に世界文化遺産に登録されています。
守礼門
長く沖縄のシンボルになっていましたので、知らない人はいないほど有名ですよね。
「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられているそうです。
首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある
代表的な門がこの「守礼門」です。
中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されています。
登場日:平成23年4月27日 百名城登場78番目です。

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所です。
形は門になっているが人が通る門ではなく、神への「礼拝の門」だったのでしょう。

瑞泉門(ずいせんもん)
「瑞泉(ずいせん)」とは「立派な、めでたい泉」という意味である。門の手前右側にある湧水が
「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられています。

漏刻門(ろうこくもん)
「漏刻(ろうこく)」とは中国語で「水時計」という意味です。別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。
身分の高い役人は駕籠にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から
下りたということからそのように呼ばれています。

首里城正殿と御庭
正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り
全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。
正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式です。
「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん
・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。

久慶門(きゅうけいもん)
「久慶門(きゅうけいもん)」は別名「ほこり御門(うじょう)」ともいう。歓会門(かんかいもん)が
正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれています。

首里城を守る歓迎門横のシーサー
みゅった殿へのお土産です。
なんだかこのシーサーは優等生っぽく見えました。

首里城正殿東側の石垣
首里城のなかでは、個人的には「この石垣」と「守礼門」がお気に入りでした。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 奈阿姫
豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑されるのを、体を張って必死の助命
嘆願を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされます。
奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となっています。
≪本日の問題≫
『正殿をはじめ御庭、諸門など王城の全貌が蘇りつつある』
1427年の記録に城の整備について記されていることから、首里城の創建はそれ以前だと推定されます。
城の基本的な縄張りが完成したのは、尚真王(しょうしんおう)と尚清王(しょうせいおう)の時代
(1477~1555年)です。
城は東西約400m、南北200mの規模を誇り、内郭と外郭で構成されていた。内郭は御庭(うーなー)を
中心とした行政空間、その南側「京の内」という祭祀空間、東側の「御内原」という居住空間からなり、
正殿、南殿、北殿など主な建物は内郭におかれていた。
内郭の東側を包むようにして外郭を配していた。
首里城は王位争いや失火で3度焼失したが再建された。明治になって軍が入ったのち学校となっていた。
太平洋戦争では城のすべてが灰燼に帰したが、平成4年には正殿など城の建物が再建されています。
平成12年に世界文化遺産に登録されています。
守礼門
長く沖縄のシンボルになっていましたので、知らない人はいないほど有名ですよね。
「守礼(しゅれい)」は「礼節を守る」という意味で、門に掲げられているそうです。
首里城は石垣と城門の多い城であるが、中でもデザイン上バランスがとれ、エレガントな雰囲気のある
代表的な門がこの「守礼門」です。
中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建立されています。
登場日:平成23年4月27日 百名城登場78番目です。

園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
琉球石灰岩で造られた建造物で、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所です。
形は門になっているが人が通る門ではなく、神への「礼拝の門」だったのでしょう。

瑞泉門(ずいせんもん)
「瑞泉(ずいせん)」とは「立派な、めでたい泉」という意味である。門の手前右側にある湧水が
「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれ、それにちなんでこのように名付けられています。

漏刻門(ろうこくもん)
「漏刻(ろうこく)」とは中国語で「水時計」という意味です。別名「かご居せ御門(うじょう)」ともいう。
身分の高い役人は駕籠にのって首里城へ登城したが、高官でも国王に敬意を表し、この場所で駕籠から
下りたということからそのように呼ばれています。

首里城正殿と御庭
正殿は琉球王国最大の木造建造物で国殿または百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)とよばれ、文字通り
全国百の浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。
正殿を二層三階建てとすることや装飾化した龍柱は日中にも類例がなく、琉球独自の形式です。
「御庭(うなー)」は首里城の中心部である。正面が「正殿」、向かって右(南側)が「南殿・番所(なんでん
・ばんどころ)」、左(北側)が「北殿(ほくでん)」で、これらに囲まれた中庭広場の空間を「御庭」という。

久慶門(きゅうけいもん)
「久慶門(きゅうけいもん)」は別名「ほこり御門(うじょう)」ともいう。歓会門(かんかいもん)が
正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれています。

首里城を守る歓迎門横のシーサー
みゅった殿へのお土産です。
なんだかこのシーサーは優等生っぽく見えました。

首里城正殿東側の石垣
首里城のなかでは、個人的には「この石垣」と「守礼門」がお気に入りでした。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 奈阿姫
豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑されるのを、体を張って必死の助命
嘆願を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされます。
奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職となっています。
≪本日の問題≫
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百名城98 「今帰仁(なきじん)城」
10の曲輪を構えていた北山王の居城
『美しい曲線を描く城壁が累々と巡る』
今帰仁城は沖縄本島北部の丘陵上に位置し、城の創建は明確ではありませんが、13世紀末から14世紀
初めにかけてつくられています。
14世紀前半頃に古期石灰岩を利用して石垣が積まれ、15世紀前半には城域が拡張されて本丸・大隈
(うーしみ)・志慶真門郭など10の郭からなる現在の姿になったと考えられています。
記録では1383年に怕尼芝(はにじ)が今帰仁城主になり、その後3代に渡り北山(ほくざん)王を名乗
ってこの地を統治しています。
琉球全土を統一しようとした中山王尚氏の攻撃にも耐えたが、調略によってついに1416年に城は落城。
しかし、尚氏のものとなった城は1609年、薩摩軍によって攻められ炎上し廃城となる。
その後も城は聖域・拝所として存続しています。
城跡には1.5kmにも達する壮大な石垣が当時のまま残っています。
平成12年に世界遺産に登録されています。
世界遺産の今帰仁城
登城日:平成23年4月26日 百名城77番目の登城です。

<画像はクリックで全て拡大します>
今帰仁城案内図
世界遺産今帰仁城跡HPからお借りしています。

大隈(うーしみ)城壁
外郭部から大隈城壁を望んでいます。曲線の高石垣が圧巻です。

平郎(へいろう)門(内側から)
今帰仁城の正門で、左右に狭間があり、門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢な作りとなっています。

七五三の階段
平郎門から大庭(うーみやー)へ続く階段

御内原(うーちばる)から大隈を見下ろす
御内原には女官部屋があったといわれています。
大隈は城兵達の武闘訓練の場だったと想定されています。

主郭
左奥に「火神の祠」があります。

主郭から志慶真門郭への通路
この崩れそうな石垣がリアルでいいでよね。

志慶真門郭の石垣

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 伊豆半島
江戸城には石垣を多く見ることができますが、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島
から切り出され船で送られたものです。
家康が天下人となるまでは、他の関東の城と同じく土塁のみの城でした。関東で石垣を多用
した近世城郭は江戸城と小田原城しかありません。
≪本日の問題≫
『美しい曲線を描く城壁が累々と巡る』
今帰仁城は沖縄本島北部の丘陵上に位置し、城の創建は明確ではありませんが、13世紀末から14世紀
初めにかけてつくられています。
14世紀前半頃に古期石灰岩を利用して石垣が積まれ、15世紀前半には城域が拡張されて本丸・大隈
(うーしみ)・志慶真門郭など10の郭からなる現在の姿になったと考えられています。
記録では1383年に怕尼芝(はにじ)が今帰仁城主になり、その後3代に渡り北山(ほくざん)王を名乗
ってこの地を統治しています。
琉球全土を統一しようとした中山王尚氏の攻撃にも耐えたが、調略によってついに1416年に城は落城。
しかし、尚氏のものとなった城は1609年、薩摩軍によって攻められ炎上し廃城となる。
その後も城は聖域・拝所として存続しています。
城跡には1.5kmにも達する壮大な石垣が当時のまま残っています。
平成12年に世界遺産に登録されています。
世界遺産の今帰仁城
登城日:平成23年4月26日 百名城77番目の登城です。

<画像はクリックで全て拡大します>
今帰仁城案内図
世界遺産今帰仁城跡HPからお借りしています。

大隈(うーしみ)城壁
外郭部から大隈城壁を望んでいます。曲線の高石垣が圧巻です。

平郎(へいろう)門(内側から)
今帰仁城の正門で、左右に狭間があり、門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢な作りとなっています。

七五三の階段
平郎門から大庭(うーみやー)へ続く階段

御内原(うーちばる)から大隈を見下ろす
御内原には女官部屋があったといわれています。
大隈は城兵達の武闘訓練の場だったと想定されています。

主郭
左奥に「火神の祠」があります。

主郭から志慶真門郭への通路
この崩れそうな石垣がリアルでいいでよね。

志慶真門郭の石垣


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 伊豆半島
江戸城には石垣を多く見ることができますが、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島
から切り出され船で送られたものです。
家康が天下人となるまでは、他の関東の城と同じく土塁のみの城でした。関東で石垣を多用
した近世城郭は江戸城と小田原城しかありません。
≪本日の問題≫
百名城99 「中城(なかぐすく)城」
先中城按司が中城湾に臨んで築いた堅城
『高石垣で築かれた一の郭、二の郭、三の郭が連なる』
中城城は、14世紀後半に先中城按司(さきなかぐすくあじ)によって築かれ、15世紀前半に護佐丸が
増築していますが、増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられてい
ます。
城は沖縄本島中部の中城村の石灰岩稜上に築かれており、北東から南西にかけて6つの郭が並んで
います。
西側の門が本来の正門と考えられており、石造りの門の上に木造の櫓が載っていたと推定される。
この門をくぐり、南の郭を経てアーチ門を抜けると高い石垣に囲まれた西の郭に出ます。
1853年5月に沖縄本島を訪れたペリー艦隊の島内探検隊は、築城技術を見てその美しさや堅固さを
絶賛したと伝わります。
1458年、勝連城主・阿麻和利(あまわり)の策略によって滅ぼされ、その後しばらくは城を尚氏が使用
したといわれています。
現在、城跡には建物はないものの石垣や石造拱門などが残り、平成12年に世界文化遺産に登録され
ています。
世界遺産の中城城
登城日:平成23年4月26日 百名城76城目の登城です。

三の郭北東城壁
新城(みーぐすく)とも呼ばれ、石積技術の最も進んだ積み方(アイカタ積み)によって積まれています。

中城城北東城壁
ヌノ積みの城壁です。

中城城二の郭

北の郭
護佐丸が井戸(ガー)を取り込み増築しています。
井戸は写真中央の木立の中にあります。

ニの郭から北の郭を望む
石垣技術は日本の物とは全くことなり、大陸の技術ですよね。

二の郭から中城湾を望む

一の郭北東城壁と一の郭と二の郭をつなぐ門
一の郭は城内で最も広い郭で、正殿(せいでん)や護佐丸が宴を催した観月台がありますが、現在発掘
調査が行なわれていました。

石垣が素晴らしく、兵庫の竹田城を彷彿させるものがあります。また、沖縄の百名城3城のなかで、感動を
一番受けた城でした。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 兵農分離
戦国時代の武将、兵士たちの多くは半農半士で、完全な武士と言うわけではなかった。
これまでの時代と戦国時代の常識を覆したのが織田信長の兵農分離政策の徹底化であり、
これが農業も戦もする中途半端な半農半士たちを戦専門の戦闘集団へと変えています。
≪本日の問題≫
『高石垣で築かれた一の郭、二の郭、三の郭が連なる』
中城城は、14世紀後半に先中城按司(さきなかぐすくあじ)によって築かれ、15世紀前半に護佐丸が
増築していますが、増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられてい
ます。
城は沖縄本島中部の中城村の石灰岩稜上に築かれており、北東から南西にかけて6つの郭が並んで
います。
西側の門が本来の正門と考えられており、石造りの門の上に木造の櫓が載っていたと推定される。
この門をくぐり、南の郭を経てアーチ門を抜けると高い石垣に囲まれた西の郭に出ます。
1853年5月に沖縄本島を訪れたペリー艦隊の島内探検隊は、築城技術を見てその美しさや堅固さを
絶賛したと伝わります。
1458年、勝連城主・阿麻和利(あまわり)の策略によって滅ぼされ、その後しばらくは城を尚氏が使用
したといわれています。
現在、城跡には建物はないものの石垣や石造拱門などが残り、平成12年に世界文化遺産に登録され
ています。
世界遺産の中城城
登城日:平成23年4月26日 百名城76城目の登城です。

三の郭北東城壁
新城(みーぐすく)とも呼ばれ、石積技術の最も進んだ積み方(アイカタ積み)によって積まれています。

中城城北東城壁
ヌノ積みの城壁です。

中城城二の郭

北の郭
護佐丸が井戸(ガー)を取り込み増築しています。
井戸は写真中央の木立の中にあります。

ニの郭から北の郭を望む
石垣技術は日本の物とは全くことなり、大陸の技術ですよね。

二の郭から中城湾を望む

一の郭北東城壁と一の郭と二の郭をつなぐ門
一の郭は城内で最も広い郭で、正殿(せいでん)や護佐丸が宴を催した観月台がありますが、現在発掘
調査が行なわれていました。

石垣が素晴らしく、兵庫の竹田城を彷彿させるものがあります。また、沖縄の百名城3城のなかで、感動を
一番受けた城でした。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 兵農分離
戦国時代の武将、兵士たちの多くは半農半士で、完全な武士と言うわけではなかった。
これまでの時代と戦国時代の常識を覆したのが織田信長の兵農分離政策の徹底化であり、
これが農業も戦もする中途半端な半農半士たちを戦専門の戦闘集団へと変えています。
≪本日の問題≫