大多喜城
『本多忠勝の大多喜城』
大多喜城は、大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされま
す。

天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与
えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立します。
忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を
行い、ふもとに城下町の建設を行っています。
これが今日の大多喜城です。
東京でも開花宣言がされたので、大多喜城は桜の名所ですから登城してみましたが、大多喜城の桜
は未だつぼみでした。

ロビンもすまし顔で、本多忠勝しています。

大多喜城の桜はちょっと残念でしたので、アメリカを見に行こうと「月の砂漠」で有名な御宿へ
御宿の浜から、遠くにアメリカが見えます。 写真では分りずらいですネ!


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いつもありがとうございます。
大多喜城は、大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされま
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天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与
えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立します。
忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を
行い、ふもとに城下町の建設を行っています。
これが今日の大多喜城です。
東京でも開花宣言がされたので、大多喜城は桜の名所ですから登城してみましたが、大多喜城の桜
は未だつぼみでした。

ロビンもすまし顔で、本多忠勝しています。

大多喜城の桜はちょっと残念でしたので、アメリカを見に行こうと「月の砂漠」で有名な御宿へ
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上総国・久留里城
『里見氏の居城・久留里城』
お盆休み山城めぐりの2城目は、上総久留里城に行ってきました。
1535年(天文4)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在
の城地に久留里城を築いた。(年代には異説あり)
1564年(永禄7)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落するも、その後、再び里見氏が奪還し
ています。

1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず
、秀吉の不興を買い安房一国の領有は許されたが、上総の所領を没収されます。
この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城してい
る。
深い堀切や井戸など多くに遺構が残っています。

その後、1600年(慶長6)の関ケ原の戦いの功により、松平(大須賀)忠政が3万石加増のうえ、
駿河国横須賀城に転封となったため、土屋忠直が2万石で入城します。
土屋氏は1679年(永宝7)に改易となり一時廃城となったが、1742年(寛保2)上野国沼田
城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩しています。黒田氏は明治維新まで居城し、
明治5年廃城令により久留里城の歴史は終っています。
昭和54年に模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されています。
左の土盛が実際の天守台です。

江戸末期に実際に建っていたものは、2層2階であったと推定されていますが、再建された天守は浜
松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なります。
駐車場から100m余の高低差を上がるだけでしたけど、夏の山城はたいへんです。
季節が良くなってからいくべきですね。
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1535年(天文4)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在
の城地に久留里城を築いた。(年代には異説あり)
1564年(永禄7)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落するも、その後、再び里見氏が奪還し
ています。

1590年(天正18)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は参陣を命じられたが従わず
、秀吉の不興を買い安房一国の領有は許されたが、上総の所領を没収されます。
この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城してい
る。
深い堀切や井戸など多くに遺構が残っています。


その後、1600年(慶長6)の関ケ原の戦いの功により、松平(大須賀)忠政が3万石加増のうえ、
駿河国横須賀城に転封となったため、土屋忠直が2万石で入城します。
土屋氏は1679年(永宝7)に改易となり一時廃城となったが、1742年(寛保2)上野国沼田
城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩しています。黒田氏は明治維新まで居城し、
明治5年廃城令により久留里城の歴史は終っています。
昭和54年に模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造されています。
左の土盛が実際の天守台です。

江戸末期に実際に建っていたものは、2層2階であったと推定されていますが、再建された天守は浜
松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なります。
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舅どの の城「大多喜城」
『本多忠勝の大多喜城』
真夏の山城を2城たのしんできました。
まず最初は、真田信之の舅どのの大多喜城です。
大多喜城の登城は2回目で、前回はバイクでの登城でした。 (前回の登城記は「こちら」です。)

大多喜城は16世紀の前半代に武田氏が入城したとも言われていますが、天文期(1532~15
55)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代に渡り、上総正木宗家の居城として
発展しています。

その後、1590(天正18)年に、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が江戸城に入り、
大多喜城を本田忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえた城です。
現存の二の丸御殿薬医門 (大多喜高校(二の丸跡地)に移設されています。)

本多氏時代に掘られた大井戸 (二の丸)

本多忠勝【10万石】天正18年(1590) 徳川四天王の一人とうたわれた家康の重臣
慶長6年(1601)伊勢国(三重県)桑名城に移る

熱演の藤岡さん

本多忠朝【5万石】慶長6年(1601)本多忠勝の次男
元和元年(1615)大坂夏の陣で戦死
本多政朝【5万石】元和元年(1615)本多忠朝の甥
元和3年(1617)瀧野城に移り、後の姫路城主となる

城主は本多氏の後、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、1703(元禄16)年に松平氏が入城
し、以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えています。

無双の忠勝さん、大河ドラマになるといいですね。

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<参考文献:現地パンフレット>
真夏の山城を2城たのしんできました。
まず最初は、真田信之の舅どのの大多喜城です。
大多喜城の登城は2回目で、前回はバイクでの登城でした。 (前回の登城記は「こちら」です。)


大多喜城は16世紀の前半代に武田氏が入城したとも言われていますが、天文期(1532~15
55)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代に渡り、上総正木宗家の居城として
発展しています。

その後、1590(天正18)年に、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が江戸城に入り、
大多喜城を本田忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえた城です。
現存の二の丸御殿薬医門 (大多喜高校(二の丸跡地)に移設されています。)

本多氏時代に掘られた大井戸 (二の丸)

本多忠勝【10万石】天正18年(1590) 徳川四天王の一人とうたわれた家康の重臣
慶長6年(1601)伊勢国(三重県)桑名城に移る

熱演の藤岡さん

本多忠朝【5万石】慶長6年(1601)本多忠勝の次男
元和元年(1615)大坂夏の陣で戦死
本多政朝【5万石】元和元年(1615)本多忠朝の甥
元和3年(1617)瀧野城に移り、後の姫路城主となる

城主は本多氏の後、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、1703(元禄16)年に松平氏が入城
し、以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えています。

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『南総里見八犬伝の舞台・館山城』
『今年最初の城は館山城(里見城)』
里見氏の最後の居城・館山城は1580年に、里見義頼によって築城されている。
その後、1614年に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなり、この時に館山城も廃城となり、破却されて
います。

1781年に、稲葉正明が館山藩主となって館山に入ったが城を再建することはなかった。
現在、山頂には天守閣を模した館山市立博物館分館(八犬伝博物館)が建ち、里見八犬伝に関する読本・絵
草紙・綿絵などが展示されています。

館山城に登城したのは5年ぶりです。 この写真は前回撮ったものです。

今回、登城した最大の目的は、孔雀園の近くで「河津桜」が満開とのことでしたが、河津桜その物が見つかり
ません。
お~い。こっち向いて!

サービス、さーびすですよ。

河津桜はありませんが、梅が咲き誇っています。

まさかの梅と河津桜の間違いなのでしょうか。

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里見氏の最後の居城・館山城は1580年に、里見義頼によって築城されている。
その後、1614年に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなり、この時に館山城も廃城となり、破却されて
います。

1781年に、稲葉正明が館山藩主となって館山に入ったが城を再建することはなかった。
現在、山頂には天守閣を模した館山市立博物館分館(八犬伝博物館)が建ち、里見八犬伝に関する読本・絵
草紙・綿絵などが展示されています。

館山城に登城したのは5年ぶりです。 この写真は前回撮ったものです。

今回、登城した最大の目的は、孔雀園の近くで「河津桜」が満開とのことでしたが、河津桜その物が見つかり
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巨大な遺構が残る飛山城
『秀吉の宇都宮仕置で破却された飛山城』
飛山城は鎌倉時代後期に宇都宮景綱の家臣・芳賀高俊によって築かれたといわれます。
鬼怒川の東岸を利用して造られた東西240mm、南北420mの長方形の縄張りに築造された平山城です。

戦国時代になると芳賀氏や飛山城も関東平野の覇権争いに例外なく巻き込まれ、宇都宮氏や芳賀氏を支援
した常陸国の佐竹義昭による宇都宮城奪回作戦の最前線基地となっています。
現在は国の史跡に指定され、残されている遺構は約ヘクタールと広大な領域に広がり、北側と西側を鬼怒川
およびその支流に沿った断崖(25m)、東側と南側を二重の土塁と堀で囲う、堅固な造りとなっています。
内側空堀も幅15m、深さ4mもある大掛かりな遺構を保持しています。
大手口木橋と空堀

桝形門跡

内堀を越えると本丸ですが、 本丸にある兵将の詰所が妙に貧弱です。

1590年、関東に台頭していた後北条氏を滅亡させた豊臣秀吉は宇都宮城に入城し、関東の支配体制を決
定する宇都宮仕置を行います。
秀吉は宇都宮氏18万5千石の所領安堵を裁決した一方で、「いらざる城は破却せよ」との命令を発したため、
破却され廃城となっています。
西の天然の要害・鬼怒川

同じ鬼怒川の下流方向を逆光で撮ると、釧路湿原のようにも見えます。

二の丸を歩いていると、地震で崩壊し屋根だけが残っていると思える建物が、なんと地下のみの建物です。
入口は施錠されており、中を見ることはできませんでした。

中世の城でありながら、河川を要害として利用し、深い堀を持つ平城は珍しい城です。

この城を見た後、「宇都宮城のライトアップ」を撮りに行きました。
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飛山城は鎌倉時代後期に宇都宮景綱の家臣・芳賀高俊によって築かれたといわれます。
鬼怒川の東岸を利用して造られた東西240mm、南北420mの長方形の縄張りに築造された平山城です。


戦国時代になると芳賀氏や飛山城も関東平野の覇権争いに例外なく巻き込まれ、宇都宮氏や芳賀氏を支援
した常陸国の佐竹義昭による宇都宮城奪回作戦の最前線基地となっています。
現在は国の史跡に指定され、残されている遺構は約ヘクタールと広大な領域に広がり、北側と西側を鬼怒川
およびその支流に沿った断崖(25m)、東側と南側を二重の土塁と堀で囲う、堅固な造りとなっています。
内側空堀も幅15m、深さ4mもある大掛かりな遺構を保持しています。
大手口木橋と空堀


桝形門跡

内堀を越えると本丸ですが、 本丸にある兵将の詰所が妙に貧弱です。


1590年、関東に台頭していた後北条氏を滅亡させた豊臣秀吉は宇都宮城に入城し、関東の支配体制を決
定する宇都宮仕置を行います。
秀吉は宇都宮氏18万5千石の所領安堵を裁決した一方で、「いらざる城は破却せよ」との命令を発したため、
破却され廃城となっています。
西の天然の要害・鬼怒川

同じ鬼怒川の下流方向を逆光で撮ると、釧路湿原のようにも見えます。

二の丸を歩いていると、地震で崩壊し屋根だけが残っていると思える建物が、なんと地下のみの建物です。
入口は施錠されており、中を見ることはできませんでした。


中世の城でありながら、河川を要害として利用し、深い堀を持つ平城は珍しい城です。

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