織田信長が“友”と呼んだ「丹羽長秀」

『秀吉選択は生涯最大の選択ミス』

織田信長のもと、家中5指に数えられる重臣となった丹羽長秀。

彼には通称にちなみ「鬼五郎左」と「米五郎左」という2つの異名があった。

丹羽長秀(1535-1585年)
ni.丹羽長秀

「鬼五郎左」は、重ね上げた武功からつけられ、遊撃部隊として味方の支援をする役割が多かったものの、

戦場では鬼の名に相応しい猛将ぶりを見せていた。

一方の「米五郎左」は、軍事だけでなく政治面でも手腕を発揮したことから、信長はこの真面目で才能ある

家臣を友と呼ぶほどに信頼し、長秀もまたそれに応え、忠義を尽くすことに喜びを感じていたという。


信長亡き後、豊臣秀吉と柴田勝家が対立すると、長秀は秀吉に協力した。

織田家の未来を思う心は秀吉も同じと信じてのことであったが、やがて秀吉は自らの野望のために織田家

をないがしろにしていく。

利用されたと気づいた時はもう遅く、織田家衰退に加担してしまった苦悩のなか、51歳で没する。

大きな失敗と無縁だった長秀にとって、秀吉に加担したことは生涯最大の選択ミスであった。



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sakura 20160403



                            <参考文献:戦国武将がよくわかる本(編集者:レッカ社)>
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鉄甲船で毛利水軍を破った「滝川一益」

『本能寺の変を堺に運命が急変』

滝川一益の出目については諸説ありますが、近江国甲賀の土豪・滝川資清の次男として生まれたという

のが通説のようです。

滝川一益(1525-1586年)
ta.滝川一益 2

一益は当初六角氏に仕えたが、尾張で織田信長が台頭してくると、信長に仕えるようになった。

信長に早くから才能を認められた一益は、伊勢・北畠氏との戦いで功績をあげ、長島城主となった。

この後、三方ヶ原の戦いや伊勢・長島の一向一揆討伐、長篠の戦い、石山合戦などに従軍して戦功をあ

げたが、特に石山合戦では鉄甲船を仕立てて毛利水軍を撃ち破り、石山本願寺への輸送路を断ったこと

で、信長から賞賛されている。

信長が武田氏を滅ぼすと、一益は信濃と上野(群馬)を任されるが、この直後に本能寺の変が起きて

信長が横死。

信長が死去すると、これに乗じた北条氏の軍勢が上野に侵攻してくる。(真田丸でやっていましたネ)

一度は北条軍を押し戻した一益だったが、再度侵攻を受けて大敗し、やむなく伊勢の領国へ撤退した。

この撤退のために一益は信長の弔い合戦も参加できず、豊臣秀吉の命令で、信長の後継者を決める

話し合いであった「清洲会議」への出席もできなかった。

この後、一益は秀吉と対立した柴田勝家に味方し、信長の家臣としての意地を見せるも敗北して降伏。

秀吉と家康が争った、小牧・長久手の戦いの後に出家して茶道にいそしみ、秀吉を招いて茶を振舞って

いる。

肩肘を張っていた一益も、出家して心穏やかになったのでしょう。



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sa-ko 20160331



                      <参考文献:戦国武将がよくわかる本(編集者:レッカ社)>

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百万石を築いた文武の達人 「蒲生氏郷」 その11

『氏郷の死』

“思ひきや人の行方ぞ定めなき 我がふるさとをよそにみんとは”

氏郷が会津から京へ上る途中、故郷の近江を過ぎる時に詠んだ歌です。

秀吉の朝鮮出兵が始まると、氏郷は秀吉の供をして肥前の名護屋に滞在していたが、そこで発病しま

す。

一旦、会津に戻った氏郷は、再び京都に上り、1595年2月7日40歳で没します。

蒲生氏郷(1556-1595年)
ga.蒲生氏郷

氏郷の死をめぐって、色々な憶測があります。

秀吉が、氏郷のあまりの才能に恐れを抱き、毒を盛ったというのです。

秀吉という人は、人を毒殺するような暗いところはない人です。そういう暗いところがない面、つまり

非常に明るい、陽気なところが秀吉の魅力ですよね。

氏郷は急死ではなかったようです。本当に病気だったようで、当時の名医であった曲直瀬道三の記録に

は“下血”という記録があり、結核性の痔ろうであったとも言われています。


千利休は、氏郷を「文武二道の御大将にて、日本に於いて一人、二人の御大名」と評したそうです。

せめて、あと5年、天下分け目の関ヶ原の戦いまで咲いていたら、違った歴史になっていたのかも知れ

ませんね。



蒲生氏郷におつき合い頂き、ありがとうございます。

次の戦国武将は、中国の毛利元就か関東の北条早雲を記事にしてみたいと思っております。


sa-ko 20110926 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 織田信雄
        小牧・長久手の戦いは、1584年に羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた
        戦で、小牧の役ともいいます。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>

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百万石を築いた文武の達人 「蒲生氏郷」 その10

『一流の文化人』

強い武士であり、優れた政治家でもあった氏郷は、また当代一流の文化人でもあった。

特に茶の湯は、千利休の高弟として知られ、利休が秀吉の怒りに触れて自刃した時、利休の2男・小庵

を会津城内にかくまい、秀吉の許しが出るまで保護したという。


氏郷は非常に風流な人で、学問もあったそうです。

若いときに、非常に学問に励んでいたが、学問は侍として本業でないと悟り、武事が次になるから止めた

といいます。

“ねこみたいな政宗” by クラチー作  この絵の記事は、「こちら」です。
da.伊達政宗 by クラチー 02

こんなエピソードが残っています。

会津に行ってからの話しです。

二本松の安達が原という場所(氏郷の領地)に、“黒塚”という所がある。ここを伊達政宗が「“黒塚”は

私のものだ。」と言ったので、裁判沙汰となる。

その裁判の席で氏郷は、平兼盛の歌に、

「“陸奥(みちのく)安達の原の黒塚に鬼こもれりと人や見るらん”という歌がある。古歌にもこう詠まれて

いるから、黒塚は安達が原ではないのだろうか、そうしたら私の領地ではないか」

といい、裁判は氏郷が勝ちに決定したという。

こうした具合に、古歌や何かの引用をできるところが、相当深く学問をやっていたのでしょう。


明日で、蒲生氏郷の記事は最終会になりますので、次の武将について検討しております。


野鳩の「くにお」です。
昨日、本屋さんから帰る途中、車道に佇んでいましたので、危ないから保護のため
連れて帰りました。
野鳥ですから、食べ物を心配しましたが、インコの餌をスプーンで差し出したら食べ
てくれました。
産毛が目立っていますが、飛べるようになるまでどの位の日数がかかるか、様子か
ら判る方がいらしたら教えてください。
一時も早く、野に帰れればと思います。
kunio 20110925 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 織田信雄
        小牧・長久手の戦いは、1584年に羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた
        戦いで、小牧の役ともいいます。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>

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百万石を築いた文武の達人 「蒲生氏郷」 その9

『商業都市の経営』

伊達政宗は自分の青年期にすべてを傾けて攻め取った、会津その他の領地を、そっくり氏郷に渡すこと

になり、氏郷に対して恨みを含むのは当然だったのでしょう。

政宗は、折から起こった大崎葛西の一揆を扇動するなど、事あるごとに氏郷にたてをつくが、その後、

両者は誓紙を取交わし、形の上では和解します。

一揆騒ぎと政宗とのいざこざが収まると、氏郷は本格的に会津の城下町経営に乗り出しています。

氏郷は城郭内にあった商人町を外に移し、そこには武士だけを住まわせ、武士と町人の住む所をはっき

りと区分します。今でも、会津の町に残る独特の「四つ辻」(交差点が素直な十字路ではない)は、その

頃の名残だそうです。

また、城下町の繁栄のため、楽市での取引きを自由に許して、町人町には市日(いちび)を定めて、毎日、

城下のどこかに市が開かれるようにしています。

現在も残る七日町、八日町などの町名は、この時に由来しています。

現在、酒とともに会津の特産物となっている会津塗りの漆器も、氏郷によって広められ、氏郷の治世は

僅か4年であったが、会津の城下は「奥州の都」といわれるまでに賑わったそうです。

日本百名城12 会津若松城
ai.会津若松城(朱瓦) 002

こうした氏郷の城下経営は、織田信長の岐阜城の経営、安土城の経営から多くを学び、実践したもの

です。

伊勢の松阪は江戸時代には日本有数の商業都市で、伊勢商人の名は有名であったといいますが、松阪

をこうしたのは、氏郷なのです。

旧領地の日野から江州商人を移住させているのです。

旧財閥の三井なども、この時、江州から松阪に移っているのです。きっと、会津の場合も同じだと思われ

ます。

氏郷が信長の最も優秀な弟子であった証拠が、この辺にもあるのですね。

pig 20110921 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 武士の本分でないから
        若いときに、非常に学問に励んでいたが、学問は侍として本業でないと悟り、武事が
        次になるから止めたといいます。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:日本史探訪9(角川書店編)>

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Author:piglet01
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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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