長久手古戦場
『小牧・長久手の戦いの主戦場跡地』
織田信長が本能寺で討たれた後、後継者を巡って家臣たちの間で争いとなり、羽柴秀吉と、信長の次男信雄
を支援する徳川家康が戦う。
1584年4月、秀吉軍と家康軍は、それぞれ、犬山の楽田と小牧山に陣をしいて対峙していたが、秀吉軍の別
働隊が家康の本拠岡崎に向けて侵攻したことから長久手の地で激突。

この戦いで、秀吉軍は池田恒興・元助父子、森長可といった有力武将を失い、長久手合戦で勝利した家康は
小牧山に戻っています。
11月、「小牧・長久手の戦い」は、秀吉が信雄に和睦を申し入れ、信雄がこれを受けたため幕を閉じています。
「小牧・長久手の戦い」の主戦場跡地は長久手古戦場として国指定文化財に登録され、現在は「古戦場公園」
として整備されています。

園内には、縮景という手法で古戦場を模した広場や、秀吉方の武将の塚などがあります。


戦いは、この地一帯で行われたのでしょうが、公園の周りは再開発が続いていますので、この公園だけが
市街地の中にポツンと取り残されるも近いのでしょうね。

地方を廻る際はレンタカーが多いのですが、郡上おどりの帰りに立ち寄りましたので、マイカーで来ています。

この後、岩崎城に立ち寄りました。
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織田信長が本能寺で討たれた後、後継者を巡って家臣たちの間で争いとなり、羽柴秀吉と、信長の次男信雄
を支援する徳川家康が戦う。
1584年4月、秀吉軍と家康軍は、それぞれ、犬山の楽田と小牧山に陣をしいて対峙していたが、秀吉軍の別
働隊が家康の本拠岡崎に向けて侵攻したことから長久手の地で激突。

この戦いで、秀吉軍は池田恒興・元助父子、森長可といった有力武将を失い、長久手合戦で勝利した家康は
小牧山に戻っています。
11月、「小牧・長久手の戦い」は、秀吉が信雄に和睦を申し入れ、信雄がこれを受けたため幕を閉じています。
「小牧・長久手の戦い」の主戦場跡地は長久手古戦場として国指定文化財に登録され、現在は「古戦場公園」
として整備されています。

園内には、縮景という手法で古戦場を模した広場や、秀吉方の武将の塚などがあります。


戦いは、この地一帯で行われたのでしょうが、公園の周りは再開発が続いていますので、この公園だけが
市街地の中にポツンと取り残されるも近いのでしょうね。

地方を廻る際はレンタカーが多いのですが、郡上おどりの帰りに立ち寄りましたので、マイカーで来ています。

この後、岩崎城に立ち寄りました。
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「桶狭間古戦場伝説地」と 「桶狭間古戦場公園」
『桶狭間はこっちのもんだぎゃぁ 名古屋市緑区vs.豊明市』
織田信長が今川義元を破ったことで有名な「桶狭間の戦い」(西暦:1560年6月12日)。
その主戦場を巡り、愛知県豊明市と名古屋市緑区の間で論争が続いています。
戦国時代の歴史の舞台となってから450年余り、定説はなく、我が町が「本家」と譲らない戦のようです。
その噂を聞きつけ、8月17日に現場検証に行ってきました。

1937年に史跡として「国から指定を受けたのはここだけ」と「桶狭間古戦場祭保存会」(豊明市)はアピール。
【桶狭間古戦場伝説地】 (豊明市)

古戦場の指定を受けた碑もあります。

一方、古戦場伝説地から南西に約1kmにあるのは「桶狭間古戦場公園」(名古屋市緑区)です。2008年設立
の「桶狭間古戦場保存会」は、緑区には信長が義元を討ち取った後、村人に戦死者を埋葬するよう命じた塚が
あると譲らない。
【桶狭間古戦場公園】

「桶狭間古戦場公園」は、平成10年に整備されていますので全てが新しく、信長公と義元公の像がならんで
います。

論争が決着しない背景には、数少ない歴史文書の解釈が何通りにもできること。また、桶狭間の合戦を描いた
江戸時代の絵図はあるが、「現在の地形にあわない」と指摘もあること。
合戦に関して記した「信長公記」も武将の動きなど記述はあるが、桶狭間に向かう道のりに関する記載は少な
く、新たな資料などが出ない限り、論争は決着しないといいます。
両公園には、義元公のお墓も完備しています。
【桶狭間古戦場伝説地】 【桶狭間古戦場公園】

静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7mの地
点と特定し、織田軍2千と今川軍5千がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったと
みて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしています。
小和田氏によれば「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に
逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という
資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしています。
う~ん。 これでは名古屋市緑区の方が有利ですね。
桶狭間の戦いは日本の有名な古戦場のひとつですから、市境を跨いで両市合同で「桶狭間古戦場資料館」
なるものを造って戴くと、戦国時代ファンは大拍手ですけどね。
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<参考文献:日本経済新聞>
織田信長が今川義元を破ったことで有名な「桶狭間の戦い」(西暦:1560年6月12日)。
その主戦場を巡り、愛知県豊明市と名古屋市緑区の間で論争が続いています。
戦国時代の歴史の舞台となってから450年余り、定説はなく、我が町が「本家」と譲らない戦のようです。
その噂を聞きつけ、8月17日に現場検証に行ってきました。

1937年に史跡として「国から指定を受けたのはここだけ」と「桶狭間古戦場祭保存会」(豊明市)はアピール。
【桶狭間古戦場伝説地】 (豊明市)

古戦場の指定を受けた碑もあります。

一方、古戦場伝説地から南西に約1kmにあるのは「桶狭間古戦場公園」(名古屋市緑区)です。2008年設立
の「桶狭間古戦場保存会」は、緑区には信長が義元を討ち取った後、村人に戦死者を埋葬するよう命じた塚が
あると譲らない。
【桶狭間古戦場公園】

「桶狭間古戦場公園」は、平成10年に整備されていますので全てが新しく、信長公と義元公の像がならんで
います。

論争が決着しない背景には、数少ない歴史文書の解釈が何通りにもできること。また、桶狭間の合戦を描いた
江戸時代の絵図はあるが、「現在の地形にあわない」と指摘もあること。
合戦に関して記した「信長公記」も武将の動きなど記述はあるが、桶狭間に向かう道のりに関する記載は少な
く、新たな資料などが出ない限り、論争は決着しないといいます。
両公園には、義元公のお墓も完備しています。
【桶狭間古戦場伝説地】 【桶狭間古戦場公園】


静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7mの地
点と特定し、織田軍2千と今川軍5千がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったと
みて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしています。
小和田氏によれば「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に
逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という
資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしています。
う~ん。 これでは名古屋市緑区の方が有利ですね。
桶狭間の戦いは日本の有名な古戦場のひとつですから、市境を跨いで両市合同で「桶狭間古戦場資料館」
なるものを造って戴くと、戦国時代ファンは大拍手ですけどね。
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三木合戦 その2
『三木の干殺し』
合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われてい
た。
これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採り、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲
のための付城を築き、これによって別所氏は補給が困難になる。
秀吉の平井山本陣登り口 (ここから15分程度です) <画像はクリックで拡大します>

本陣跡には、現在、臨時の展望台が設置してあり、三木城を望むことができます。

秀吉本陣から、三木城を望む

6月13日、秀吉の軍師・竹中半兵衛は平井山の陣中で没しています。
秀吉本陣の近くの半兵衛さんの墓

9月には、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行され、毛利氏の補
給部隊が秀吉の平田陣地を攻略、別所氏側は三木城外の大村付近に出兵し混戦になるが、別所側は多く
の武将が討ち取られ敗戦となり、兵糧の搬入も失敗に終っています。
10月に毛利氏側であった宇喜多直家が離反、毛利氏の本国と播磨、摂津の間が分断され、毛利氏による
支援が不可能な状況となり、織田氏は降伏勧告を行うも別所氏はこれを拒否。
11月、共同戦線を張っていた荒木村重の有岡城が織田軍に攻略される。
1580年1月、三木城内の食料はすでに底をつき「三木の干殺し」状態が続き、織田軍は三木城内の支城を
攻略、残るは本城のみとなる。
同14日、城主一族の切腹によって城兵の命を助けるという条件がでる。
17日、城主一族が切腹し1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了する。
三木城天守台にある別所長治の世辞の碑

有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は家臣に救出され秀吉と再会、一方の小寺政職は御着城を織田軍に
落とされ、毛利氏の元へ落ち延びています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:平井山本陣
三木城に対峙する平井山(三木城の北東)本陣と包囲のための付城を築き、これによって別所氏は補給が困難になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われてい
た。
これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採り、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲
のための付城を築き、これによって別所氏は補給が困難になる。
秀吉の平井山本陣登り口 (ここから15分程度です) <画像はクリックで拡大します>


本陣跡には、現在、臨時の展望台が設置してあり、三木城を望むことができます。


秀吉本陣から、三木城を望む

6月13日、秀吉の軍師・竹中半兵衛は平井山の陣中で没しています。
秀吉本陣の近くの半兵衛さんの墓


9月には、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行され、毛利氏の補
給部隊が秀吉の平田陣地を攻略、別所氏側は三木城外の大村付近に出兵し混戦になるが、別所側は多く
の武将が討ち取られ敗戦となり、兵糧の搬入も失敗に終っています。
10月に毛利氏側であった宇喜多直家が離反、毛利氏の本国と播磨、摂津の間が分断され、毛利氏による
支援が不可能な状況となり、織田氏は降伏勧告を行うも別所氏はこれを拒否。
11月、共同戦線を張っていた荒木村重の有岡城が織田軍に攻略される。
1580年1月、三木城内の食料はすでに底をつき「三木の干殺し」状態が続き、織田軍は三木城内の支城を
攻略、残るは本城のみとなる。
同14日、城主一族の切腹によって城兵の命を助けるという条件がでる。
17日、城主一族が切腹し1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了する。
三木城天守台にある別所長治の世辞の碑

有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は家臣に救出され秀吉と再会、一方の小寺政職は御着城を織田軍に
落とされ、毛利氏の元へ落ち延びています。
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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:平井山本陣
三木城に対峙する平井山(三木城の北東)本陣と包囲のための付城を築き、これによって別所氏は補給が困難になっています。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
三木合戦 その1
『別所氏の三木城篭城』
春の城廻りの最終日(5月4日)に、三木合戦の地を巡って来ましたので、2回に分けて記事にしたいと思い
ます。
三木合戦は、織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちのひとつで、別所氏が播磨三木城に篭城。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺しと呼ばれています。
播磨三木城

<画像はクリックで拡大します>

秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻
略し、上月城の守備に尼子勝久を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入った。
1578年3月、別所吉親の甥で別所氏当主・別所長治が織田家から離反し毛利氏側につく。
別所長治像

別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調し、別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ
方針を決定、三木合戦が開始される。
別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が加古川評定での秀
吉との対立を招いたというものです。
三木城本丸 (中央の階段は天守台への階段です)

三木城には、東播磨一帯から約7千5百人が集まり篭城する。
この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸
篭り(もろごもり)だったという。このため多くの兵糧を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となってき
ます。
三木城の遺構は殆ど残っていません。
本丸の井戸「かんかん井戸」

天守台はびっくりするほど狭いです。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:別所長治
別所長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法と毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の1580年、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害しています。享年23歳
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
春の城廻りの最終日(5月4日)に、三木合戦の地を巡って来ましたので、2回に分けて記事にしたいと思い
ます。
三木合戦は、織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちのひとつで、別所氏が播磨三木城に篭城。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺しと呼ばれています。
播磨三木城

<画像はクリックで拡大します>

秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻
略し、上月城の守備に尼子勝久を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入った。
1578年3月、別所吉親の甥で別所氏当主・別所長治が織田家から離反し毛利氏側につく。
別所長治像

別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調し、別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ
方針を決定、三木合戦が開始される。
別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が加古川評定での秀
吉との対立を招いたというものです。
三木城本丸 (中央の階段は天守台への階段です)

三木城には、東播磨一帯から約7千5百人が集まり篭城する。
この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸
篭り(もろごもり)だったという。このため多くの兵糧を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となってき
ます。
三木城の遺構は殆ど残っていません。
本丸の井戸「かんかん井戸」

天守台はびっくりするほど狭いです。

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≪前回の解答≫
正解:別所長治
別所長治は三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の「三木の干し殺し」戦法と毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから2年後の1580年、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害しています。享年23歳
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
関ヶ原西軍の陣跡めぐり
「関ヶ原西軍の陣跡めぐり」
三成の関ヶ原の戦いの舞台を、昨年11月18日に佐和山城登城後に2回目の関ヶ原巡りをしてきました。
今回は、西軍の主要陣跡を中心に廻りました。
関ヶ原の戦い開戦時の布陣図

<画像はクリックで拡大します>
西軍方は三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣
する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えた。
しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である
鶴翼の陣の奥深くに陣を置いています。
【南天満山 宇喜多秀家陣跡】
杉の木立がうっそうとした南天満山の麓に天満神社があります。
関ケ原合戦時には、この付近に兵約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦した宇喜多秀家の陣跡です。
開戦の烽火と共に東軍・福島隊に攻め込まれた史実から、この辺りは大変に激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられます。



秀家は、敗走し山中をさまよった後、揖斐でかくまわれ、密かに島津氏を頼って薩摩へ下り、死罪は免れましたが八丈島へ流され、余生を遠島で過ごしています。
【北天満山裾野 小西行長陣跡】
北天満山の裾野を流れる梨木川右岸にある、西田公園付近が「小西行長陣跡」です。
ここは、北は北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所でした。関ケ原合戦が始まるとともに、北天満山から烽火をあげて味方に開戦の合図をしました。
午後になり大谷隊が敗れたとの知らせを受けると、天満山を越えて揖斐郡の春日方面へ敗走したといわれます。山頂に兵約4千を布陣できるスペースはなく、中腹に布陣したものと思われます。
一度は敗走するも、その後自首し関ケ原領主であった竹中重門の家来により家康のもとへ送られ、三成らと共に斬首されています。

【西軍布陣の中央 島津義弘陣跡】
「笹尾山・石田三成陣跡」より、南に約800m下った辺りが、「島津義弘陣跡」だといわれています。
現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置します。兵は約1,600人で陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。
また、的中突破の戦場離脱の話も有名です。


【島左近陣跡】
笹尾山三成本陣跡の東側登り口の左手前にあるのが、「三成に過ぎたるものが二つあり。島ノ左近と佐和山の城」と当時の豊臣諸侯から羨望された島左近の陣所跡とされます。
合戦当日は、兵約6,900人に守られた石田三成の首を狙う細川忠興や黒田長政といった荒大名たちの攻撃を真正面から受けて立ち、度々彼らを苦境に追い込んだという。


島左近の陣跡から石田三成の陣跡に昇れますが、今回はイベントが行われていましたのでパスしました。
前回の関が原訪問記はこちらです。

【決戦の地碑】
西軍有利な陣形で望んだ合戦は序盤、西軍優勢で展開するが事前に東軍に通じていた小早川隊の背反を契機に形勢は逆転。西軍の諸将が敗走するなか、関ケ原合戦でも最大級の激戦が繰り広げられたのが笹尾山を背にする決戦地。
石田三成隊はこの地で奮戦するも、東軍に傾いた勢いを止めることはできなかったという。

次回の関ヶ原訪問は、ぜひ一日をかけて自転車で廻ってみたいと思います。
「三成の関ヶ原」もやがて、この舞台へとストーリーが展開されてきます。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:豊前中津藩
細川忠興は1602年の論功行賞で丹後12万石から豊前中津藩39万9,000石の大大名となっています。
豊前入りした忠興は九州の要とすべく小城であったため、小倉城の大規模改修に取り掛かり、黒田氏が築いた中津城から工事が完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となっています。
≪本日の問題≫
三成の関ヶ原の戦いの舞台を、昨年11月18日に佐和山城登城後に2回目の関ヶ原巡りをしてきました。
今回は、西軍の主要陣跡を中心に廻りました。
関ヶ原の戦い開戦時の布陣図

<画像はクリックで拡大します>
西軍方は三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣
する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えた。
しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である
鶴翼の陣の奥深くに陣を置いています。
【南天満山 宇喜多秀家陣跡】
杉の木立がうっそうとした南天満山の麓に天満神社があります。
関ケ原合戦時には、この付近に兵約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦した宇喜多秀家の陣跡です。
開戦の烽火と共に東軍・福島隊に攻め込まれた史実から、この辺りは大変に激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられます。




秀家は、敗走し山中をさまよった後、揖斐でかくまわれ、密かに島津氏を頼って薩摩へ下り、死罪は免れましたが八丈島へ流され、余生を遠島で過ごしています。
【北天満山裾野 小西行長陣跡】
北天満山の裾野を流れる梨木川右岸にある、西田公園付近が「小西行長陣跡」です。
ここは、北は北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所でした。関ケ原合戦が始まるとともに、北天満山から烽火をあげて味方に開戦の合図をしました。
午後になり大谷隊が敗れたとの知らせを受けると、天満山を越えて揖斐郡の春日方面へ敗走したといわれます。山頂に兵約4千を布陣できるスペースはなく、中腹に布陣したものと思われます。
一度は敗走するも、その後自首し関ケ原領主であった竹中重門の家来により家康のもとへ送られ、三成らと共に斬首されています。


【西軍布陣の中央 島津義弘陣跡】
「笹尾山・石田三成陣跡」より、南に約800m下った辺りが、「島津義弘陣跡」だといわれています。
現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置します。兵は約1,600人で陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。
また、的中突破の戦場離脱の話も有名です。



【島左近陣跡】
笹尾山三成本陣跡の東側登り口の左手前にあるのが、「三成に過ぎたるものが二つあり。島ノ左近と佐和山の城」と当時の豊臣諸侯から羨望された島左近の陣所跡とされます。
合戦当日は、兵約6,900人に守られた石田三成の首を狙う細川忠興や黒田長政といった荒大名たちの攻撃を真正面から受けて立ち、度々彼らを苦境に追い込んだという。



島左近の陣跡から石田三成の陣跡に昇れますが、今回はイベントが行われていましたのでパスしました。
前回の関が原訪問記はこちらです。

【決戦の地碑】
西軍有利な陣形で望んだ合戦は序盤、西軍優勢で展開するが事前に東軍に通じていた小早川隊の背反を契機に形勢は逆転。西軍の諸将が敗走するなか、関ケ原合戦でも最大級の激戦が繰り広げられたのが笹尾山を背にする決戦地。
石田三成隊はこの地で奮戦するも、東軍に傾いた勢いを止めることはできなかったという。

次回の関ヶ原訪問は、ぜひ一日をかけて自転車で廻ってみたいと思います。
「三成の関ヶ原」もやがて、この舞台へとストーリーが展開されてきます。

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正解:豊前中津藩
細川忠興は1602年の論功行賞で丹後12万石から豊前中津藩39万9,000石の大大名となっています。
豊前入りした忠興は九州の要とすべく小城であったため、小倉城の大規模改修に取り掛かり、黒田氏が築いた中津城から工事が完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となっています。
≪本日の問題≫