戦国の快男子 その7

岡 左内 その4 『政宗が大喜び』

岡左内はこの時伊達政宗に斬り裂かれた陣羽織をその刀痕を金糸で縫い合わせて、家宝としていたが、

あとで政宗に会ったとき

「名将の刀のあとと存じてかくの如くにしております」

と言って、陣羽織を見せたので政宗は大喜びであったという。

岡左内が仕えた会津若松城
ai.会津若松城(朱瓦) 001

関ヶ原合戦後、上杉家が減封されて多量の浪人を出したとき、伊達家では左内を3万石で招こうとしたが、

断って蒲生家に1万石をもって仕えています。

死ぬとき、彼は遺品献上と称して、主君・忠郷に黄金3万両と正宗の刀一ふり、忠郷の弟・中務大輔に黄金

千両と景光の刀と貞光の短刀を献上し、さらに家中の朋輩らに対しても、それぞれ数十両から数百両の金

をおくり、生前貸し付けた金の借用証文はひとつ残らず本人に返したという。

彼は熱心なキリシタンでもあり、私財で教会や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。



岡さん、蓄財が好きでも生きる蓄財をしたのですね。

それに金だけのために仕官しないことは、今、NHKで「前田慶次郎」を放映していますが、彼に通じるところ

もあって、まさに戦国時代の快男児ですね。

次の戦国武将は快男児の頂点に立つ男、皆さまよくご存知の「直江兼続」をとりあげてみたいと思います。


今日から、西国城郭のライトアップを撮りに行く予定ですが、残念ながら雨のようですね˃⌂˂



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pig 20150419

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戦国の快男子 その6

岡 左内 その3 『伊達政宗との一騎討ち』

阿武隈川の支流・松川を越えて、上杉軍が伊達正宗の軍と戦ったことがある。この時、岡左内は角栄螺(つの

さざえ)という南蛮冑をかぶり、狸々緋(しょうじょうひ)の陣羽織を着、鹿毛なる馬に跨って戦ったが、伊達正宗

がこれを見、

「よき敵ぞ」

と、馬を駆けよせ、横合からエイヤ、エイヤと掛け声をかけてニ太刀斬りつけた。

仙台城の伊達政宗
se.仙台城 20140606 007

刃は身体には届かず、陣羽織を切り裂いた。

佐内は振り返りざま、片手なぐりに切り返した。

政宗の冑の真向から鞍の前輪にかけて斬り、返す刃で冑のしころを半ばかけて斬り飛ばした。

政宗の刀は打ち折れてしまった。

佐内はすかさず、また切りつけて、政宗の右の膝口に切りつけたので、政宗は馬を飛ばして逃げたという。

この時、政宗の具足がたいへん見苦しかったので、左内はたいした敵と思わず追いかけなかった。

でなかったら、政宗の命は危なかったのかも知れません。

あとで、あれが政宗であったと聞いて、左内は

「もう一太刀であったのに」

と、ひどく残念がったという。



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造花のようなチューリップ(代官山)
20150417 代官山

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戦国の快男子 その5

岡 左内 その2 『金は有効に使うもの』

ある日のこと。

岡左内は居間いっぱいに金をとり散らかして、無上の楽しみをやっていた。

裸になって、金銀の上に転がっていたのです。

春日山城
ka.春日山城 002

すると、あわただしく家来が来て、近所の屋敷で家中の者同士で喧嘩がはじまったとの報告がきた。

「なに、喧嘩だ!」

左内は跳ね起き、自らの支度もほどほどに、その屋敷に駆け付けた。

彼はこの仲裁に数日かかって、やっと和解させて帰宅したが、彼の居間には出かけた時のまま、大判・小判

が散らばっていたという。

上杉景勝が反徳川の兵を会津に挙げた時、左内は軍用金として永楽銭1万貫を景勝に献上している。

銭1万貫は金子に換算すると2万5千両です。

そればかりでない。

家中の者で出陣の支度に困っている者には、かねて蓄えの金をおしげなく与えて支度させたので、家中の者

は、もう誰一人として、左内の悪口をいうものは無くなった。

「なるほどな。左内がかねて金を大事にしていた心がはじめてわかった」



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pig 20150416

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戦国の快男子 その4

岡 左内 その1 『金はいいものだ』

直江兼続は金銭を卑しいものとしたが、上杉家の家中には金銭に対して異常な愛着を持ち、しかも非常に

立派な武士がいた。

春日山城
ka.春日山城 001

岡左内です。

左内は金銀が大好きで、異常な倹約によってせっせと金を貯めたばかりか、暇さえあれば、その蓄えの大

判小判を座敷に撒き散らせて、その上にごろりと寝そべるのを無上の楽しみにしていた。

兼続のような武士がいる上杉家です。

こんな佐内の評判が良い筈がありません。

「あったら勇士が、何ということであろう」

「あれでは、どれほどの手柄を立てようと、町人乞食にもおとる心がけだ」

「いっそのこと、武士をやめて町人になるがよい」

と、散々であった。

しかし、左内はいっこうに平気です。自分が金のために熱心であるだけでなく、家来どもにも奨励する。

「金を貯めろよ。金を、金はいいものだ」

と、折に触れて言う。

草履取の子者が小判を一枚持っているということを聞いて、武士に取り立ててやったこともある。

人々は笑った。

「金を持っているからといって武士にとり立てたそうだが、とすれば、町人という町人は、みな武士にせねば

ならんて」



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pig 20150415

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上杉 景勝

関ヶ原合戦のきっかけをつくる

『米沢に移封されるも 大坂の役で大活躍』

景勝は眼光が鋭く 無口で笑ったことがない 無愛想であった

謙信の葬儀が済むと 景勝はすぐに春日山城の二の丸から本丸へ入り 自分が謙信の後継者と宣言

(謙信は二人の養子に対し 後継者を指名していなかった)

「御館の乱」では 二の丸の景虎を城から駆逐し 鮫尾城に逃込んだ景虎を自害に追込む

越後国を制した景勝は 秀吉に臣従して豊臣政権の五大老に抜擢され 越後から会津へ移され

120万石の大大名に成る

【上杉 景勝 1555年~1623年】

1555年 越後国魚沼郡の坂戸城主・長尾政景の子として生まれる
      実母は上杉謙信の姉

1564年 父が急死したため 上杉謙信の養子となる

1571年 この頃 春日山城へ移る

1575年 上杉の苗字を与えられ 景勝と名乗る

1578年 謙信が急死 養子の景虎と家督を争う 
      翌年 景虎を倒して後継者に(御館の乱)

1580年 この頃より織田信長の大軍と戦い厳しい状態に陥る

1582年 本能寺の変で信長が死亡したので 危機を脱する

1584年 羽柴秀吉に人質を差し出し 服属する

1590年 秀吉の小田原征討の際 前田利家と共に北条方の諸城を攻める

1592年 朝鮮出兵の際 渡海し熊川で戦う

1598年 会津へ領地替えとなり120万石を領する大大名となる

1600年 関ヶ原合戦のとき 石田三成に呼応して挙兵し最上氏や伊達氏と戦う
      西軍の敗北を知り家康に降伏

1601年 会津120万石から米沢30万石へ減封される

1614年 大坂の役に参加し 徳川家のために奮戦する

1623年 米沢にて死去する

上杉家は 第12代の上杉斉憲で明治維新を迎えるまで 米沢城で継承された


景勝は1571年頃 春日山城へ移る
写真は 平成21年6月20日 日本100名城めぐりで撮ったものです
20100320 春日山城 01

1598年 会津へ領地替えとなり120万石を領する大大名となる
写真の会津若松城は 平成21年8月30日 日本100名城めぐりで撮ったものです
20100320 会津若松城 01

1601年 会津120万石から米沢30万石へ減封される
上杉家は 第12代の上杉斉憲で明治維新を迎えるまで 米沢城で継承された
写真の米沢城は 平成21年8月30日に登城した際に撮ったものです
20100320 米沢城 01

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<参考文献:ふるさとの戦国武将>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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