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結城秀康が泣いた理由

『出雲の阿国の舞いにないたのは?』

父・家康と伏見城で出雲の阿国の舞いを楽しんでいた秀康は、やがて黙りこくり、落涙したという。

その訳をそばの者に聞かれた秀康は

「阿国が女流の身ですでに天下に名声を博しているのに、自分は男子でありながら、いまだに名をあげる

ことができないのがくやしいのじゃ」

と、語ったという。

結城秀康(1574-1607年)
yu.結城秀康

家康の後継者は3男の秀忠ですから、なぜ、3男の秀忠が後継者になったのか確認しておきたいと思いま

す。

長男・信康は、1579年、武田勝頼との内通疑惑(信康が家康と対立したための説もあり)で、信長の命令

によって切腹させられた。

このため、次男である秀康が本来ならば徳川氏の後継者となるはずであったが、1584年の小牧・長久手

の戦いの後、家康と秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(人質)として差し出され

たため、家康の後継者は秀忠になっています。



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出雲阿国 (出雲阿国の墓参り記は「こちら」です。) 
阿国 000




                             <参考文献:戦国武将おもしろ辞典(監修奈良本辰也)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その39

『松平から徳川へ改姓』

一向一揆が終わった後、家康は馬を東三河に出し、しきりに今川方の諸城を陥れ、ついには吉田城を攻略

した。

吉田は東三河における今川家の拠点ですから、これで東三河も完全に家康の手に帰し、すでに西三河は彼

の手中にあったのですから、三河全土を手に入れたのです。

これが1564年6月、家康23歳のときでした。

三方ヶ原の戦いで敗戦した家康(1537年)
to.徳川家康 02

以後、1582年に織田信長が本能寺で没するまでの18年間に、家康は武田信玄とともに今川家を滅ぼして

その土地を分割し、信長に助勢して江州姉川で浅井・朝倉軍を撃破し、三方ヶ原で武田信玄に大敗するも、

その後、信長と連合して武田勝頼を長篠で撃破し、天目山に追いつめて自害させ、武田氏を滅ぼす。


これらの戦については、これまでの記事の「戦国時代 お江」、「戦国武将 武田信玄」、「戦国武将 武田勝頼」

を参照して頂ければと思います。


さらに、その後のことについては「戦国武将 前田利家」や「戦国武将 石田三成」の記事を参照願います。

ここでは、松平から徳川への改姓について、記してみたいと思います。

松平家は元来、この土地に尊崇されて加茂明神の氏子で、加茂氏を名乗っています。

加茂明神の神紋である葵を定紋としているのもこの理由であって、家康の時代になっても本性は加茂朝臣

と名乗っていたが、その勢力が増大して三河・遠江の太守になると庄屋時代からの姓はふさわしくなく、日本

の武門武士の棟梁として何百年の間、半神的英雄視されている八幡太郎家の末裔とした方がふさわしと思

うようになり、清和源氏を姓とし、徳川を氏としたのだと思われます。

家康は改姓にあたって、将軍足利義昭を通じて朝廷に奏請し、勅許を受けています。

1569年12月9日、家康28歳のときであった。


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sakura 20141023-1


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:織田信秀
小豆坂の戦いは、岡崎城に近い小豆坂(岡崎市)で行われた三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で1542年と1548の2度にわたって繰り広げられています。
発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立でしたが、これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入し、事実上、松平清康の死後勢力の衰えた松平氏に代わる西三河地方の覇権を巡って、織田信秀と今川義元との戦いでした。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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服部半蔵の墓参り

『 二代目服部半蔵は忍者ではなかった 』

先日、四ツ谷に仕事で行きましたので、服部半蔵の墓参りして帰りました。

この半蔵さんで有名な話は

1582年、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こり、このとき堺

に滞在していた家康が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜ける神君伊賀越えに際し先祖の出自が伊賀

である半蔵は商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し彼らに警護させて一行を

安全に通行させ伊勢から船で三河の岡崎まで護衛したという話は有名ですね。

2代目服部半蔵の墓がある「西念寺」
ha.服部半蔵 001

服部半蔵は最も名の知れた伊賀忍者のひとりとなっていますが、この服部半蔵正成は忍者でなかったこと

をご存知でしょうか。

彼は、初代服部半蔵保長の4男として三河国に生まれ、「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の2代目

当主なのです。

服部半蔵正成田(1542-1596年)
ha.服部半蔵正成

服部半蔵正成の墓
ha.服部半蔵 002

1590年の小田原征伐で家康に従軍し、その功により家康の関東入国後、与力30騎および伊賀同心200

人を付属され同心給とあわせて8千石を領しています。

自身は武将でしたが、父親が伊賀出身であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場で

あったそうです。

この先に江戸城の半蔵門がありますが、半蔵の屋敷が門前にあったことから名づけられたそうです。 

ha.服部半蔵 003

(半蔵門の記事は「こちら」です。)







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sakura 20141018のコピー



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:三成は徳川家に大功を立てた
関ヶ原の後、家康は三成の嫡男・重家の処遇に悩まされたという。
本多正信に相談したら、正信は「親父の三成は我が徳川家に大功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう」と言った。
家康が「大功とは何か?」と尋ねると、「三成は無用の戦を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は全て徳川家に服すことになったのです」と答えた。
家康は「わかった。正信の言うことには一理ある」と答えて重家を赦免したという。

≪本日の問題≫

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征夷大将軍 『徳川家康』 その19

『ゆがみはじめた今川氏の弓矢』

出かけが多く、家康さんの記事が疎かになってしまいましたので、 少し綴ってみたいと思います。


元信(家康)はすぐには駿府に帰らず、しばらく岡崎に止まっていたが、今川家から来ている城代の山田

新左衛門に向って、

「われら若年者でござれば、本丸には従前通りご辺居られたし、われらは二の丸に居て、諸事ご指南仰ぎ

とうござる」

と言って、本丸に入ることを遠慮したので、報告を聞いて義元は大いに心証をよくしたという。

今川義元(1519-1560年)
im.今川義元 001

元信の用心深さは無類のものがあり、後年には一層強く表れてくる性質であるが、この若い時代から用心

深かったのです。

元信は翌1557年の春、駿府に帰ったが間もなく「元康」と改名した。祖父・清康の武名を慕ったのです。

1558年、元康は17歳となった。この年の春、また義元の許しを得て岡崎に帰ったが、間もなく三河の諸

豪にして織田家に心を通じている者ども数名を討って、みな勝利している。

これは元康の初陣であったが、用兵の巧みさに家臣ら皆おどろいたという。

義元は勝報を聞いて、松平家の旧領のうち山中の300貫の地を返し、刀も贈ったという。

この時の帰国は一時のことではなく、ずっと岡崎にいる許可を得ていたので岡崎の老臣らは駿府に行って、

「元康すでに帰国いたしました上は、所領をもとのように返し下され、また今川家より派遣のお役人らもお引

き取り下されとうござる。もちろん、岡崎の家老らから差し出しています人質どもは従前通り留め置き下さり

ますよう」

と願い出たが、義元は渡そうとしない。

「余(よ)は近年のうちに尾州へ発向する心組みでいる。領地の儀は、その節、境目を正して引き渡すであろ

う。それまで待つよう」

と答えたので、みな仕方なく帰り、憂憤を押えて月日を送ったという。(実記)

太原雪斎が生きていたら、こんなへたな欲をかかず、返すものは返して、岡崎の士心を繋いだと思われます

が、その雪斎は3年前に死んでいたのです。

今川家の弓矢は雪斎が死んだ時からゆがみ始めたのです。




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pig 20140825


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:名護屋城
名護屋城は、秀吉が大陸への進攻を企図した際、前線基地として大掛かりに築城した城です。
名護屋城には五重天守や御殿が建てられ、城の周囲には城下町には人口10万人を超えるほど繁栄していたそうです。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その16

『生活に困窮した竹千代』

駿府における竹千代(家康)は1千石を給されたが、竹千代に従う者は100人余りもあったので、1千石では

もちろん不足であった。

鳥居忠吉が今川家の命で岡崎奉行となり租税のことを司っていたのを幸いに、今川家の目をごまかして衣食

を貢いだので、人々はやっと命が繋げたという。

岡崎城からくり時計
ok.岡崎城 20100508 002

その他にも久松家に再縁していた竹千代の実母・お大が、時々尾張の阿古屋から使者を出して衣服や魚類

などを届けていたという。

また、お大の母、つまり外祖母の大河原氏お富は、わざわざ尾張から駿府に来て、今川家の重臣らに泣きつ

いて駿府に止まり、竹千代の面倒を見たともいう。


安部河原で行われた子供らの印地打ち(石合戦)を見物に行ったとき、竹千代が人数の少ない方が勝つと予

言して、その側についたという有名な逸話もこの頃の話です。

これは、少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われています。



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sakura 20140814



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:11年
義元の人質として駿府に送られた竹千代が再び自分の岡崎城に戻ったのは、11年後の1560年5月、桶狭間の戦いで今川義元が戦死してからです。
竹千代が岡崎に帰還したのは19歳の時でした。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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