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木曽家の当主「木曽義昌」

『乱世に沈んだ名門』

木曽氏は信濃の名族ですが、木曽義昌の少年期に隣国の武田氏の猛撃にさらされ、その傘下に降って

いた。

しかし義昌は、武田信玄に尽くすことでその土地を守り、信玄もまた3女を義昌に娶らせて親族衆とする

待遇で応えた。

木曽義昌(1540-1595年)
ki.木曽義昌

信玄からすれば、名門・木曽家の血脈は魅力であり、美濃国境の押さえとしても重要な存在であったが、

義昌は実際の戦場で名だたる武田家の猛将に並ぶ活躍を披露し、家中での地位を実力で勝ち取ってい

た。

ところが信玄が没して武田家が衰えると、いち早く見限って織田信長に内通。

人質にあった家族を処刑されながらも、信長に未来を託して武田氏と戦った。

結果、武田氏は滅亡するが、その直後に信長が本能寺の変で横死する。

ここからも義昌の変わり身の早さは徹底していた。

徳川家康に通じ、豊臣秀吉に寝返ったかと思えば、家康に帰参するといった具合に、木曽氏の安定に

奔走。

しかし、そんな処世術で大成できる訳はなく、秀吉の小田原征伐に参陣しなかったことから、秀吉から

下総蘆戸城(千葉県旭市)へ一万石で移封を命じられ、この地で最後を迎えています。


【木曽義昌の主君変遷】

木曾義康→武田信玄→勝頼→織田信長→北条氏直→徳川家康→豊臣秀吉→徳川家康




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今年初めて撮った桜(会社の近くで)
20160404.jpg



                  <参考文献:戦国武将がよくわかる本(編集者:レッカ社)、旭市HP>
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テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

近代戦に敗れた悲劇の武将 「武田勝頼」 その11

『名門武田家の滅亡 3』

勝頼の最後は、書くに耐えないほど悲惨です。

勝頼は、真田昌幸が上田城へ逃げましょうと言うのを断って、小山田信茂の案内で郡内へ落ち延びた。

韮崎の新府城を出るときは、3千か4千人の軍勢がいたが、田野に着いた時には100人足らず、その内

の半分は女だった。

最後まで残った50人は良く戦った。何十倍という信長の軍隊と戦って死んでゆき、女たちは自刃して果

てた訳です。

この人たちは甲州にいながら、味方と頼るべき者がいなくなった訳です。国が滅びる時には、恐慌状態

のようなものを起すのでしょう。

それにしても、勝頼の最後ほど悲劇に満ちたものは、歴史上珍しいものでしょう。

「甲陽軍鑑」では、武田が滅びたのは、勝頼が悪かったと、原因のすべてを勝頼にしているそうですが、

それだけが全てではなく、時勢の急激な流れのなかで信玄が急逝したことが、武田の滅びの大きな原因

であったと思います。

法泉寺・山門と勝頼の墓
ho.法泉寺・山門 ho.法泉寺・勝頼墓

勝頼の首は、信州路を進軍中の信長のもとに送られ、首実検に供せられたのち、京都に送られ一条大路

の辻にさらされた。

その首は、京都妙心寺開山堂裏の墓地に葬られたが、のちに甲府の法泉寺三世の快岳和尚によって密

かに甲斐の国に持帰られ、法泉寺に葬られたという。

勝頼の自刃から20日余り、4月3日に甲府に入った信長は、恵林寺山門の楼上に100人余りの僧侶を閉

じ込め、焼き殺した。

恵林寺・山門
恵林寺 002

武田家を壊滅させた信長自身が明智光秀の謀叛によって本能寺に倒れたのは、この日から60日後のこと

です。

戦国の世は大詰めを迎えていた。

sakura 20111221 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 江戸時代の絵画や浮世絵の題材
        江戸時代に「武田二十四将図」として絵画や浮世絵の題材となったもので、戦国期に実在
        した職制や呼称ではありません。
        軍議を行っている様子などが描かれているが、人物の選定は当時の浄瑠璃や浮世絵の影響
        を色濃く受けているそうです。

≪本日の問題≫


                                  <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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近代戦に敗れた悲劇の武将 「武田勝頼」 その10

『名門武田家の滅亡 2』

いたはしや、女房たち。

このふは馬に乗りしをさへ、世に憂きことと思はれしが、今日はその馬も落ちゆきければ、徒歩や裸足で

歩みける。

御台所ご覧じて、げにあはれにぞおぼしめす。御ともの人も、なほわづかなれば、御心細くやおぼしめる。

(理慶尼記)

翌朝、大善寺を出発して落ちていく一行の姿を、理慶尼はこのように書き留めている。

ひと晩のうちに、女たちの馬を引く者までが逃亡し、一行の人数はさらに少なくなった。かつて数万の大

軍を擁した勝頼も、今は従うものわずか200人、それも女のほうが多かったという。

その日の夕方、笹子峠の麓、駒飼に着いた勝頼主従を待ち受けていたものは、小山田信茂の裏切りで

あった。

岩殿城
iw.岩殿城 001

勝頼を迎え入れるべく、一足先に岩殿城へ向った小山田信茂は、峠の頂上に柵を構えて鉄砲を撃ちかけ、

勝頼一行の行く手を阻んだ。

小山田信茂の謀叛で岩殿城への道を断たれた一行は、やむなく日川の急流に沿う細く険しい山道を天目

山へと向った。

しかし、この道も恩賞目当ての土民、変心した村人たちによって塞がれていた。

この間にも逃亡者、落伍者があいつぎ、一行の人数はまた少なくなった。

勝頼は、もはや武田の運命はここまでと、天目山の麓、田野を死に場所と定め、にわか造りの柵を結んで

追っ手を待ち、最後の奮戦をしたのち、自刃して果てた。

この時、勝頼37歳。

1582年3月11日、名門武田家の最後の日であった。

武田勝頼像(甲斐大和駅前)
ta.武田勝頼像(甲斐大和駅前)

景徳院・山門
1582年3月11日、武田勝頼公は日川渓谷沿いに天目山をめざしたが、この田野で織田・徳川の大軍と
激戦の末、悲惨な最後をとげ武田家の終えんの地となった。
この年の7月、徳川家康公が冥福を祈るため建立したのがこの景徳院。1588年に完成しています。
七堂迦藍の立派な寺であったが2度の大火で焼失し、当時の建物としては山門を残すのみです。
景徳院・山門

旗竪松
切迫する状況の中、武田家の旗をこの松に立てかけ、息子の信勝に武田家代々伝わる鎧(楯無の鎧)
を着せる儀式を行ったという。
景徳院・旗竪松

左:北条夫人(19歳)・中央:勝頼公(37歳)・右:信勝の墓(16歳)
景徳院・勝頼家族の墓

北条夫人世辞の句(黒髪の乱れたる世ぞ果しなき思いに消ゆる露の玉の緒)
景徳院・北条夫人世辞の句

景徳院・甲将殿
勝頼、夫人、信勝の像や、武田氏ゆかりの遺品などが保存されている。
甲将殿の前のこの場所で最期を遂げたとされる。
景徳院・甲将殿

首洗池
勝頼、夫人、信勝の首を洗った場所とされる。
景徳院・首洗いの池

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 小山田信茂
        織田軍が甲斐に侵攻したときに小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてくる
        武田勝頼を郡内に入れず、進退に窮した勝頼は天目山で自害します。
        武田家を滅亡させる事に深く関わった小山田信茂ですが、この戦いの後、織田信長により
        処刑されています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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近代戦に敗れた悲劇の武将 「武田勝頼」 その9

『名門武田家の滅亡 1』

武田勢の裏切りがあいつぐなかで、伊那口の最後の拠点となった高遠城を死守していたのは、勝頼

の弟・仁科盛信であった。

しかし、この城も信長の長男・織田信忠軍の総攻撃を受け、わずか半日であえなく落城した。

高遠城・問屋門
百名城巡りの高遠城は「こちら」です。
ta.高遠城問屋門02

新府城内では、最後の軍議が開かれた。

勝頼の嫡子・信勝は、新府城を枕にして討ち死にすることを主張したが、勝頼は家臣・小山田信茂の勧

めを入れて、信茂の居城岩殿城に退くことを決意した。

築いたばかりの新府城に火をかけた勝頼一行は、東に向かい岩殿城目指して落ちて行った。

韮崎から甲府を通り、勝沼の柏尾山大善寺にたどり着いた時、一行の人数は300人足らずとなっていた。

この大善寺は、武田氏も祈願所としてその保護に力を尽くした真言宗の名刹で、ここには勝頼の伯母・

理慶尼がいた。

理慶尼は、勝頼夫婦を手厚くもてなし、勝頼夫人の願いにより、その夜。本尊薬師如来の前で勝頼の

武運を祈ったという。

先に、武田八幡宮に切々たる願文をささげた勝頼夫人は、この時19歳、今は武田家と敵対関係にある

隣国の北条氏政の妹で、14歳の時に勝頼の後妻として嫁いできた。

彼女はここでも必死に夫の武運と武田家の行く末を、御仏に祈り続けた。

武田家の滅亡は、悲しい話に満ちている。

後に理慶尼は手記をつづり、一冊を高野山に納めて勝頼夫婦の菩提を弔い、一冊は大善寺にとどめて、

武田家滅亡のありさまを後世に伝えています。

sakura 20111219 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 高遠城
        信長は長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城を攻めています。
        高遠城に籠もる守備兵の数は3千で、仁科は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊
        は玉砕、仁科自身も城を枕に討ち死、城は落城します。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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近代戦に敗れた悲劇の武将 「武田勝頼」 その8

『御親類の裏切り』

1581年、勝頼は甲府の西北20Km、釜無川の断崖に臨む七里ヶ岩の上に、新府城を築いた。

“人は城、人は石垣、人は堀”をモットーとした信玄は、国内にひとつも城を築かなかったという。

しかし、勝頼には、敵を迎え撃つための要塞としての城が必要であった。

勝頼は、城の完成を待たず、その年の暮れ、祖父・信虎以来3代に渡った躑躅ヶ崎の館を捨てて、新府城

に移った。

翌1582年2月、総勢18万を超える織田・徳川の連合軍が、甲州目指して進撃を開始した。

やがて新府城の勝頼のもとには、続々と悲報が舞い込んできた。信濃方面の支城があいついで陥落し、

妹婿・木曾義昌までが裏切って信長に通じたというのである。

新府城
si.新府城 001 si.新府城 002

勝頼は、木曾義昌に命じて木曾の檜(ひのき)を新府城まで運ばせたといいます。

大木を木曾から引っ張り上げ、塩尻峠を越え、さらに諏訪へ落として、諏訪から韮崎まで引っ張ったという。

これが大変苦しい徴用だったといいます。

この仕事に駆り出された木曾の人にとっても、また伊那の人、諏訪の人たちにも、これは非常に辛かった。

こういうこともあって木曾の恨みを受け、裏切りのひとつになったともいいます。

そして、木曾が裏切ったら次は、一番頼りになる穴山信君(梅雪)が裏切った。

この穴山信君は、当時は駿河探題であったが、彼は御親類衆の筆頭である。

この筆頭が裏切って家康についたから、これでもう御親類衆は全部戦う気力を失うことになる。

sa-ko 20111218 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 全部正解
        豊臣秀吉は「唐冠」、前田利家と蒲生氏郷は「鯰の尾」、加藤清正は「長烏帽子」、黒田
        長政は「大水牛」、加藤嘉明は「富士山」の形をした兜をかぶっていました。
        その理由はさまざまで、戦勝を祈願してや日本一の富士山にわが身をなぞえるため、また
        誰よりも目立ち名を成したいという気持ちなどをユニークな兜に表現したそうです。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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