藩主を見守りながら眠る武蔵
『武蔵塚公園』
7月初旬に大分、熊本と戦国旅をしてきましたが、宮本武蔵の「武蔵塚」が眠っていたので、記事にしたい
と思います。
熊本市から阿蘇方面にむかう県道337号線(旧国道57号線)そばの龍田弓削地区に宮本武蔵の墓所の
一つである武蔵塚があります。

二刀流の剣豪・宮本武蔵はその晩年を熊本で過ごし、熊本の千葉城にあった家で、62歳の生涯を閉じて
います。

熊本時代は、肥後藩主細川忠利公の客分として招かれ、金峰山の霊巌洞という洞窟で「五輪書」を完成さ
せ、茶や書画の道にあたるなど、剣と人生の集大成ともいえる時期を過ごしたといわれています。

その死後も恩を受けた細川藩主が江戸参勤交代で通るのを草葉のかげで拝したいという武蔵の生前の希
望でここに埋葬されています。
園内には、ニ刀を携えて立つ武蔵のブロンズ像も置かれ、日本庭園や茶室などもある緑多い静かな公園と
なっています。

武蔵は13歳のときに有馬喜兵衛と初めて勝負をして以来、29歳までの間に60余度の勝負をしますが、
一度も敗れたことがなかったといわれています。
とくに29歳のときに下関の厳流島で小倉の厳流・佐々木小次郎と決闘したことは有名です。しかし、この
試合の後、武蔵はその日の内に現在の大分県の中津方面に逃走し以後20余年間の足取りは不明です。
駐車場には「武蔵うどん」も

4月から緑内症、血尿、ツメダニと病院通いが続いていたsa-ko嬢ですが、昨日の診察ですべて
完治とお医者さんから宣言されました。 病院にいくのが嫌いだったsa-ko嬢も喜んでいます。

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『戦国クイズ』
≪前回の解答≫
正解:小便は垂れ流せ
半兵衛が息子の重門に軍物語について教えていると、重門が急に席を立ってしまったので、理由を聞くと小用だという。
これに重治は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、軍談の席を立ってはならない」という。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
7月初旬に大分、熊本と戦国旅をしてきましたが、宮本武蔵の「武蔵塚」が眠っていたので、記事にしたい
と思います。
熊本市から阿蘇方面にむかう県道337号線(旧国道57号線)そばの龍田弓削地区に宮本武蔵の墓所の
一つである武蔵塚があります。


二刀流の剣豪・宮本武蔵はその晩年を熊本で過ごし、熊本の千葉城にあった家で、62歳の生涯を閉じて
います。

熊本時代は、肥後藩主細川忠利公の客分として招かれ、金峰山の霊巌洞という洞窟で「五輪書」を完成さ
せ、茶や書画の道にあたるなど、剣と人生の集大成ともいえる時期を過ごしたといわれています。

その死後も恩を受けた細川藩主が江戸参勤交代で通るのを草葉のかげで拝したいという武蔵の生前の希
望でここに埋葬されています。
園内には、ニ刀を携えて立つ武蔵のブロンズ像も置かれ、日本庭園や茶室などもある緑多い静かな公園と
なっています。

武蔵は13歳のときに有馬喜兵衛と初めて勝負をして以来、29歳までの間に60余度の勝負をしますが、
一度も敗れたことがなかったといわれています。
とくに29歳のときに下関の厳流島で小倉の厳流・佐々木小次郎と決闘したことは有名です。しかし、この
試合の後、武蔵はその日の内に現在の大分県の中津方面に逃走し以後20余年間の足取りは不明です。
駐車場には「武蔵うどん」も

4月から緑内症、血尿、ツメダニと病院通いが続いていたsa-ko嬢ですが、昨日の診察ですべて
完治とお医者さんから宣言されました。 病院にいくのが嫌いだったsa-ko嬢も喜んでいます。

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≪前回の解答≫
正解:小便は垂れ流せ
半兵衛が息子の重門に軍物語について教えていると、重門が急に席を立ってしまったので、理由を聞くと小用だという。
これに重治は怒り、「たとえ小便を垂れ流そうとも、軍談の席を立ってはならない」という。
≪本日の問題≫
<参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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『忍者は普段、どんな格好を』
『忍者は普段、どんな格好を』
忍者というと、伊賀者・甲賀者といった言葉に加え、お決まりの忍びの装束を連想しますが、彼らは日常
どんな格好をしていたのでしょう。
結論は、「ふだんは一般人と全く変わらない生活」を送っていたということですが、目立たないが最重要で
あったそうです。
忍者は諸国を渡り歩いて情報をかき集めるのが仕事ですから、普通の町人の格好をしていたのでは不向
きであったでしょう。
そこで忍者は「七方出」という変装術を身に付けていた。すなわち、諸国を転々としていても不自然ではな
い職業の人間に化けるのですが、それらは僧、虚無僧、山伏、商人、曲芸師、能役者、そして普段どおり
の町人や農民のままの素の姿でした。
そして、得た情報を仲間と交換する際には「忍びいろは」という独自に作り出した漢字を使って文章を書
いたり、五色米という、赤・青・黄・黒・紫と塗り分けた米の組み合わせや配列で意味を表したり、あるい
は単純に狼煙をあげて合図を送るなど、様々な工夫がされていた。
ちなみに、狼煙とは狼の糞に火薬を混ぜてつくっていたことから、狼の字が当てられています。
狼の糞を使うと、煙が高く上がったらしいです。
忍者は体が資本の仕事だけに、食べ物には気を使っていたようです。
いざという時には、指だけで天井にへばりつかなければならないこともあり、体重は約60kgに制限されてい
たが、体は鍛えなければならないので、基本的に低カロリー、高タンパク質の物を選んで食べていた。
例えば、湯葉や豆腐など大豆食品を多くとり、おにぎりも食後のインシュリン分泌の少ない玄米だった
そうです。
これでは栄養が偏ってしまうので、体力をつけるための食べ物として、その代表としてゴマや松の実だっ
たそうです。特に松の実を食べると五感が冴えると信じられており、忍者たちは好んで食べていたらしい。
成人病予防には、忍者修行がいいのかも知れませんね。やって見ようかなぁ~。
引越しのため環境が整っていませんので、画像の掲示、皆様のブログへの訪問ができません。
環境を整え、ご訪問させて戴きますので、よろしくお願い致します。
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どんな格好をしていたのでしょう。
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あったそうです。
忍者は諸国を渡り歩いて情報をかき集めるのが仕事ですから、普通の町人の格好をしていたのでは不向
きであったでしょう。
そこで忍者は「七方出」という変装術を身に付けていた。すなわち、諸国を転々としていても不自然ではな
い職業の人間に化けるのですが、それらは僧、虚無僧、山伏、商人、曲芸師、能役者、そして普段どおり
の町人や農民のままの素の姿でした。
そして、得た情報を仲間と交換する際には「忍びいろは」という独自に作り出した漢字を使って文章を書
いたり、五色米という、赤・青・黄・黒・紫と塗り分けた米の組み合わせや配列で意味を表したり、あるい
は単純に狼煙をあげて合図を送るなど、様々な工夫がされていた。
ちなみに、狼煙とは狼の糞に火薬を混ぜてつくっていたことから、狼の字が当てられています。
狼の糞を使うと、煙が高く上がったらしいです。
忍者は体が資本の仕事だけに、食べ物には気を使っていたようです。
いざという時には、指だけで天井にへばりつかなければならないこともあり、体重は約60kgに制限されてい
たが、体は鍛えなければならないので、基本的に低カロリー、高タンパク質の物を選んで食べていた。
例えば、湯葉や豆腐など大豆食品を多くとり、おにぎりも食後のインシュリン分泌の少ない玄米だった
そうです。
これでは栄養が偏ってしまうので、体力をつけるための食べ物として、その代表としてゴマや松の実だっ
たそうです。特に松の実を食べると五感が冴えると信じられており、忍者たちは好んで食べていたらしい。
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奇妙な髪型が流行った理由とは?
『戦国時代に奇妙な髪型が流行った理由とは?』
戦国時代の武士の間で流行していたのは、「月代(さかやき)」と呼ばれる前頭部を円形に剃り上げた
あげたなんとも不思議な髪型であった。
おしゃれとも言いがたいこのような髪形がなぜ流行したのでしょうか。
実はこの髪型は非常に実用的な理由から生まれたものです。
当時の武士の仕事着といえば鎧兜。合戦ではこれを身に付け、力いっぱい動かなければならない。
そうすると暑くてどうしても頭がのぼせてしまうので、このような髪型が重宝されたのです。
戦いに行かない平時には、長く伸ばした後ろ髪を天頂で集め、根元からひもを巻きつけて立たせる「髷
(まげ)」のスタイルをとっていた。
茶筅髷

前頭部の髪がないことから髷はどうしても後ろへ傾いてしまうので、強度を出すため髷を太くしたものを
「茶筅髪」という。
「月代」は、後に剃りあげた部分が広がった「大月代」へと変化していった。
武士のシンボルである月代は、きれいに剃りあげられていなければならなかったし、髷からは後れ毛が
ひと筋たりとも出ていてはいけなかった。
反対に、敗戦後に国を失い浪人となった武士は、それらの手入れを止めて髪をのばし「総髪」となった。
その他に軟派者や風流人の間で、遊郭に通う際に粋とされたのは「立髪」というオールバックに似た、
髪を後ろになでつけた髪型であった。
ところで、戦国時代に養毛剤やカツラはあったのだろうか。
答えは以外にも、それらは女性のあいだで使われていました。
先ずは、養毛剤ですが、
平安時代の流れで、この時代の女性の髪は黒くて艶があり健康的なものが美しいとされていた。
そこで女性たちは美しい髪を保つために、色々な裏技を使っていました。
①“ふのり”と“うどん粉”を入れた湯で髪を洗い、“ごま油”を煎じたものを髪に塗ると養毛に良い。
②“黒豆”を煮詰めて塗れば、数日で髪が黒く長くなる。
③マメ科の“エンジュの実”か、“黒ごま”を毎日食べると、一生白髪が生えない。
④白髪をすべて抜き、“ごま油”と“生姜”の皮を着けておけば、数日で黒髪が生える。
これらは古くから伝えられる裏ワザですが、効果があるのかは疑問ですが、一度、試してみては如何で
しょうか。
次に、カツラについてですが、
この頃になると、平安時代には長くそのまま垂らしていた「垂髪」を後ろで結んで短く切るようになって
います。
武士と同じく、実用的な髪型になった訳です。
しかし、平安時代からの長い髪への愛着でしょうか、「かもじ」という“つけ毛”を着け、長い髪に見せて
いたのです。
戦乱の時代、実用性が求められても“髪は女の命”といったもので、女性は髪でのおしゃれを忘れなかっ
たようです。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 足利学校
曲直瀬道三は、1528年に関東へ下って足利学校で学んでいます。
ここで医学に興味を抱いたと言われ、名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学を修める。
1546年ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念し、将軍足利義輝を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院と称する医学校を創建しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>
戦国時代の武士の間で流行していたのは、「月代(さかやき)」と呼ばれる前頭部を円形に剃り上げた
あげたなんとも不思議な髪型であった。
おしゃれとも言いがたいこのような髪形がなぜ流行したのでしょうか。
実はこの髪型は非常に実用的な理由から生まれたものです。
当時の武士の仕事着といえば鎧兜。合戦ではこれを身に付け、力いっぱい動かなければならない。
そうすると暑くてどうしても頭がのぼせてしまうので、このような髪型が重宝されたのです。
戦いに行かない平時には、長く伸ばした後ろ髪を天頂で集め、根元からひもを巻きつけて立たせる「髷
(まげ)」のスタイルをとっていた。
茶筅髷

前頭部の髪がないことから髷はどうしても後ろへ傾いてしまうので、強度を出すため髷を太くしたものを
「茶筅髪」という。
「月代」は、後に剃りあげた部分が広がった「大月代」へと変化していった。
武士のシンボルである月代は、きれいに剃りあげられていなければならなかったし、髷からは後れ毛が
ひと筋たりとも出ていてはいけなかった。
反対に、敗戦後に国を失い浪人となった武士は、それらの手入れを止めて髪をのばし「総髪」となった。
その他に軟派者や風流人の間で、遊郭に通う際に粋とされたのは「立髪」というオールバックに似た、
髪を後ろになでつけた髪型であった。
ところで、戦国時代に養毛剤やカツラはあったのだろうか。
答えは以外にも、それらは女性のあいだで使われていました。
先ずは、養毛剤ですが、
平安時代の流れで、この時代の女性の髪は黒くて艶があり健康的なものが美しいとされていた。
そこで女性たちは美しい髪を保つために、色々な裏技を使っていました。
①“ふのり”と“うどん粉”を入れた湯で髪を洗い、“ごま油”を煎じたものを髪に塗ると養毛に良い。
②“黒豆”を煮詰めて塗れば、数日で髪が黒く長くなる。
③マメ科の“エンジュの実”か、“黒ごま”を毎日食べると、一生白髪が生えない。
④白髪をすべて抜き、“ごま油”と“生姜”の皮を着けておけば、数日で黒髪が生える。
これらは古くから伝えられる裏ワザですが、効果があるのかは疑問ですが、一度、試してみては如何で
しょうか。
次に、カツラについてですが、
この頃になると、平安時代には長くそのまま垂らしていた「垂髪」を後ろで結んで短く切るようになって
います。
武士と同じく、実用的な髪型になった訳です。
しかし、平安時代からの長い髪への愛着でしょうか、「かもじ」という“つけ毛”を着け、長い髪に見せて
いたのです。
戦乱の時代、実用性が求められても“髪は女の命”といったもので、女性は髪でのおしゃれを忘れなかっ
たようです。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 足利学校
曲直瀬道三は、1528年に関東へ下って足利学校で学んでいます。
ここで医学に興味を抱いたと言われ、名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学を修める。
1546年ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念し、将軍足利義輝を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院と称する医学校を創建しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>
『No2の存在が、No1の価値を決めた?』
『No2の存在が、No1の価値を決めた?』
後世に語り継がれている武将とて、ひとりで戦い、ひとりで有名になった訳ではありません。
その片腕となったのが、No2の存在でした。
「軍師」や「軍配師」と呼ばれる人物です。
軍師というと、豊臣秀吉についた「両兵衛(竹中半兵衛・黒田官兵衛)」や、「啄木鳥の戦法」で有名な武田
信玄に仕えた山本勘助など、作戦の参謀をしていたというイメージが強い。
しかし、彼らが活躍する以前の軍師は少し様子が違っていました。
当時の戦は、日時、方角、運気などが勝敗に影響すると思われていたのです。
戦に負ければ、領地・領民・名誉はもとより、自分の命まで失うことになるのです。そこで、易学の専門家で
ある陰陽師の指示を仰ぐようになっていた。
これが軍師のルーツなのです。
竹中半兵衛(1544-1579年) 黒田官兵衛(1546-1604年)

陰陽師の役割をした軍師としては大友宗麟の軍師・角隈石宗がいます。
1578年、大友宗麟と島津義久の九州の覇権をかけた耳川の戦いの前に、宗麟は石宗に出陣の日時など
を占わせたが、その結果は最悪であった。
理由は3つ
1つ目は、宗麟が49歳で厄年だったこと。
2つ目は、戦いの場所です。日向は豊後から見て未申(南西)の方向となり、方向が悪いこと。
3つ目は、前年から出ている彗星の光の尾が西に伸びているのは、凶兆であること。
しかし、宗麟は前年に日向延岡城を簡単に落とし、島津軍を侮っていた宗麟は、それを聞き入れずに出陣
したのです。
結果は惨敗。これを機に大友氏の衰退が始まっています。石宗の占いは当たったのです。
なんだ軍師というのは占い師と誤解してしまいそうですが、軍師は易学の他にも地理学、気象学、心理学、
医学、歴史、兵法などあらゆる知識に長けていなければならなかったのです。
その中でも重要な学問のひとつとして、兵法があります。
軍師のなかで広く読まれていたのは、中国の兵法書「孫子」と「呉子」などです。
これらの知識を応用し、戦の作戦を立たり、戦中の臨機応変な判断をしていたのです。
戦いが峻烈の度を増すにつれ、軍師には多様な知識が求められるようになり、半兵衛や官兵衛のような
大将の片腕として戦いを動かしていく有能な軍師が生まれています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 徳川方
大坂の陣のとき、家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たった
という。
そして大坂夏の陣は、将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、
毛利勝永と交戦しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会(編)>
後世に語り継がれている武将とて、ひとりで戦い、ひとりで有名になった訳ではありません。
その片腕となったのが、No2の存在でした。
「軍師」や「軍配師」と呼ばれる人物です。
軍師というと、豊臣秀吉についた「両兵衛(竹中半兵衛・黒田官兵衛)」や、「啄木鳥の戦法」で有名な武田
信玄に仕えた山本勘助など、作戦の参謀をしていたというイメージが強い。
しかし、彼らが活躍する以前の軍師は少し様子が違っていました。
当時の戦は、日時、方角、運気などが勝敗に影響すると思われていたのです。
戦に負ければ、領地・領民・名誉はもとより、自分の命まで失うことになるのです。そこで、易学の専門家で
ある陰陽師の指示を仰ぐようになっていた。
これが軍師のルーツなのです。
竹中半兵衛(1544-1579年) 黒田官兵衛(1546-1604年)


陰陽師の役割をした軍師としては大友宗麟の軍師・角隈石宗がいます。
1578年、大友宗麟と島津義久の九州の覇権をかけた耳川の戦いの前に、宗麟は石宗に出陣の日時など
を占わせたが、その結果は最悪であった。
理由は3つ
1つ目は、宗麟が49歳で厄年だったこと。
2つ目は、戦いの場所です。日向は豊後から見て未申(南西)の方向となり、方向が悪いこと。
3つ目は、前年から出ている彗星の光の尾が西に伸びているのは、凶兆であること。
しかし、宗麟は前年に日向延岡城を簡単に落とし、島津軍を侮っていた宗麟は、それを聞き入れずに出陣
したのです。
結果は惨敗。これを機に大友氏の衰退が始まっています。石宗の占いは当たったのです。
なんだ軍師というのは占い師と誤解してしまいそうですが、軍師は易学の他にも地理学、気象学、心理学、
医学、歴史、兵法などあらゆる知識に長けていなければならなかったのです。
その中でも重要な学問のひとつとして、兵法があります。
軍師のなかで広く読まれていたのは、中国の兵法書「孫子」と「呉子」などです。
これらの知識を応用し、戦の作戦を立たり、戦中の臨機応変な判断をしていたのです。
戦いが峻烈の度を増すにつれ、軍師には多様な知識が求められるようになり、半兵衛や官兵衛のような
大将の片腕として戦いを動かしていく有能な軍師が生まれています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 徳川方
大坂の陣のとき、家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たった
という。
そして大坂夏の陣は、将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、
毛利勝永と交戦しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会(編)>
武士はなぜ「切腹」をするようになったのか?
『武士はなぜ「切腹」をするようになったのか?』
江戸時代には、切腹刀を腹に当てると、素早く介錯人が首を切り落とす作法が確定していた。
切腹する武士が苦痛にもがいて首を切り損ねることがないようにと、切腹刀の代わりに白扇を使って形だけ
整えるやり方もあり、それを「扇腹」と称した。
こうなると切腹は、もはや名誉を重んじる儀式、悲壮感をかもしだすための演出に過ぎない。電気椅子、ガス
室、絞首刑といった現代の処刑法よりも苦痛の少ない処刑法だったかも知れませんね。
佐藤忠信(1161-1186年)

切腹の原点は、苦痛そのものにあったという。
「義経記」には、敵に追い詰められた佐藤忠信が、腹をかっさばく場面が、次のとおり描かれているという。
「膝をつい立て居丈高になりて、刀を取直し、左の脇の下にがばと刺し貫きて、右の肩の下へするりと曳き
回し、心先(みぞおち)に貫きて、へその下まで掻き落とし」
腹を十文字に切り裂き、介錯などは頼まず、命が果てるまで苦痛にのたうったのです。
988年、藤原保輔の自害に始まったとされる切腹は、その後、武士による“栄誉の自害”して定着し、そして、
腹を十文字にかっさばく古典的な形式を最初に示したのが、佐藤忠信だったといいます。
それにしても、武士はなぜ切腹を名誉と考えるようになったのでしょうか。
南部藩士の子・新渡戸稲造は、著書「武士道」のなかで、“切腹の三段論法”なるものを紹介しています。
「腹の中に私の存在の真実がある。その腹を私は開く。従って、私が真実の人間であるか見せかけの人間
であるかを確かめるのは君たちの仕事だ」
表情はごまかすことが出来るし、口は嘘をつくことができる。しかし、腹の中だけはごまかせない。その腹の
中を自ら見せることで、武士は自分が臆病者でも卑怯者でもない。
武勇に優れていると同時に“真実の人”であることを証明しようとしたのです。
ちなみに、新渡戸稲造はキリスト者です。
大好きなチンゲン菜をパクパクです。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 宗易
広く知られた利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないため
に正親町天皇から与えられた居士号である。
「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っ
ています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>
江戸時代には、切腹刀を腹に当てると、素早く介錯人が首を切り落とす作法が確定していた。
切腹する武士が苦痛にもがいて首を切り損ねることがないようにと、切腹刀の代わりに白扇を使って形だけ
整えるやり方もあり、それを「扇腹」と称した。
こうなると切腹は、もはや名誉を重んじる儀式、悲壮感をかもしだすための演出に過ぎない。電気椅子、ガス
室、絞首刑といった現代の処刑法よりも苦痛の少ない処刑法だったかも知れませんね。
佐藤忠信(1161-1186年)

切腹の原点は、苦痛そのものにあったという。
「義経記」には、敵に追い詰められた佐藤忠信が、腹をかっさばく場面が、次のとおり描かれているという。
「膝をつい立て居丈高になりて、刀を取直し、左の脇の下にがばと刺し貫きて、右の肩の下へするりと曳き
回し、心先(みぞおち)に貫きて、へその下まで掻き落とし」
腹を十文字に切り裂き、介錯などは頼まず、命が果てるまで苦痛にのたうったのです。
988年、藤原保輔の自害に始まったとされる切腹は、その後、武士による“栄誉の自害”して定着し、そして、
腹を十文字にかっさばく古典的な形式を最初に示したのが、佐藤忠信だったといいます。
それにしても、武士はなぜ切腹を名誉と考えるようになったのでしょうか。
南部藩士の子・新渡戸稲造は、著書「武士道」のなかで、“切腹の三段論法”なるものを紹介しています。
「腹の中に私の存在の真実がある。その腹を私は開く。従って、私が真実の人間であるか見せかけの人間
であるかを確かめるのは君たちの仕事だ」
表情はごまかすことが出来るし、口は嘘をつくことができる。しかし、腹の中だけはごまかせない。その腹の
中を自ら見せることで、武士は自分が臆病者でも卑怯者でもない。
武勇に優れていると同時に“真実の人”であることを証明しようとしたのです。
ちなみに、新渡戸稲造はキリスト者です。
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広く知られた利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないため
に正親町天皇から与えられた居士号である。
「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っ
ています。
≪本日の問題≫
<参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>