「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その9

『藤孝の根回し』

藤孝は信長から丹後一国を与えられ領国としていた。

秀吉は隣国播州の三木を落とすと、続いて因州鳥取を攻めた。

丹後の宮津には海を舞台とする土豪が蟠居している。


鳥取城「かつえさん」、覚えている方いらっしゃいますか。
to.鳥取城「かつ江さん」

秀吉からの要請で、藤孝は土豪に舟手を編成させて鳥取に送り、鳥取城攻めを助けた。

藤孝は以前から秀吉の異能を知っていたが、鳥取城攻めを助けることによってなおいっそう秀吉

の異能を知った。

秀吉の異能を知らなければこのとき、藤孝もまた畿内の諸将と同様に様子を見に入ったに違いな

いが、秀吉の異能を知っている。

また、三木に、前野長康がいるのも知っている。

藤孝はのちに茶道から遠のくが、そのころは長康と茶道を通じて交遊があった。

「信長討たれる」の報に接すると、藤孝はすぐさま長康に手紙を送った。

「光秀の謀叛を知った。自分はせがれ忠興に光秀の娘・玉を迎えている。光秀とは舅どうしとい

う関係にある。また自分は丹後一国を領する大名とはいえ、光秀に与力としてつけられている。

光秀の部下ではないが、なにかと光秀に協力しなければならない立場にある。そんな立場にある

が、けっして光秀に味方するものではない。その旨お伝えておきます。筑前殿にもその旨をお知

らせいただきたい」



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pig 20170421





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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その8

『光秀の謀叛は絶妙のタイミング』

“信長討たれる”の報が幽斎のもとに届いたのは、藤孝がまだ城にいた6月2日の午後。

藤孝も倅の忠興も報に接してむろん腰を抜かさんばかりに驚いた。

od.本能寺の変

光秀はそれなりに勝算を立てている。

このことは藤孝にも分かる。

高松の秀吉は動けない。

北国にいて上杉を相手にしている柴田勝家も動くにしては時間がかかる。

畿内は烏合の衆。

信長はもともと将軍・足利義昭から政権を簒奪した。本当は義昭が悪あがきして墓穴を掘り、

追われてこのころ毛利の庇護下にあったが、理屈と膏薬はどこにでもつく。

信長が義昭から政権を簒奪したから、義昭にかわって信長を討ち果たした。ただちに義昭公

を京に迎えて天下に号令をかけていただく。

こういうことにすれば大義名分は立ち、畿内の烏合の衆をまとめて、天下をその手に握るこ

とができる。

光秀はそう勝算を立てていると。

しかし、それには大きな誤算と落とし穴がある。

藤孝はそう考えた。



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pig 20170419




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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その7

『信長は備中高松に行く予定だった』

信長は本能寺での異変がなければそのあと、秀吉が毛利と対峙している備中高松の陣に出かけ

ることにしていて、畿内にいる諸将に出陣の声をかけていた。

三木城(三木城登城記は「こちら」です。)
mi.三木城 017

道順になる高槻の高山右近、茨木の中川清秀、伊丹の池田信輝などもまた、家康と同じように、

戦々悠々と道普請、宿泊所や休憩所の設営・改修などに追われた。

須磨までは池田信輝の担当。

信長は明石からまっすぐ姫路には向かわず、北上して、秀吉が“干殺し”にした三木の城に立ち

寄ると知らせを受け、長康は高松の陣から急遽、三木に帰り、明石から三木、三木から姫路ま

での道普請、およびその間の宿泊所や休憩所の設営・改修に手落ちがないように、万端指揮し

ていた。

光秀が本能寺にいた信長に夜襲をかけて討ち取ったのは天正10年6月2日の未明。

当時はまだ隠居していず、藤孝と名乗っていた幽斎も高松の陣に出陣するように命ぜられてい

て、領国丹後の城を構えている宮津に帰っていた。

高松への出陣はその日、6月2日の正午ということになっていて、家来の松井胃助、有吉立行

らが第一陣として正午に宮津を発った。



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pig 20170418





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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その6

『神になった信長』

豊家創業の最大の功臣のひとり、前野長康(坪内光景)は信長が本能寺の変で倒れた時、

播州の三木にいた。

備中高松城 (備中高松城登城記は「こちら」です。)
bi.備中高松城 002

秀吉と小六は備中高松で毛利勢と対峙していた。

それより前、信長から播州と但州の二国を与えられた秀吉は但州一国13万石のうち10万

5千石を弟の小一郎に与えた。

播州は52万石あり、小六には5万1千石、小右衛門には三木に3万1千石を与えた。

信長の陪臣ではあるが、万石以上を大名というなら、小六も小右衛門も大名になっていたの

です。

一方、信長は本能寺の変で倒される9ヵ月前に、分国の真ん中にあって、唯一信長に従わな

かった伊賀の国を攻めた。

以前からその兆候はあったが、伊賀攻めあたりから信長は神のようになってしまったのです。

この信長の“様躰”は、そのすぐ後の甲州攻めでも続いています。

信長は甲州から帰り、家康の領地を通って安土に帰ったが、家康は粗相のないよう全神経を

張り詰めて、神のようになってしまった信長の接待に当ったという。

光秀が謀叛して信長を殺してしまった説は、いろいろ言われていますが、この帰途ずっと信

長に付き従わされたことに最大の原因があるような気がします。

神のように振る舞う信長に、光秀は神経をずたずたにされて半ば狂ったのかも知れません。



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pig 20170417




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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その5

『藤吉郎の家臣たち』

藤吉郎の家臣団となった川並衆の面々の出立、装束がすさまじい。

どこかで拾ったのを身につけているのでしょう。

兜をいただくも胴がない。

胴はあれども袖がない。

竿頭に藤吉郎の旗印である瓢箪を2個、これを見よがしに掲げる異風もいまいましい。

差し出がましいやつよ。

小賢しい男よ。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)
to.豊臣秀吉 001

2千余もの家来というが寄せ集めの烏合の衆。

いざ合戦となれば、真っ先に尻尾をまいて逃げ出すに違いない。

藤吉郎や木下勢のこととなると、柴田をはじめみんながこう口汚く罵り、陰口を叩いたたが、小

六と小右衛門が補佐する木下隊の働きは目覚ましく、着々と力をつけていって、信長が明智光秀

に殺されるころには、信長の軍団の中では頭が、ひとつも2つも抜きんでる存在になっていた。

秀吉の軍団だけで毛利と対峙できるまでになっていたのです。

いや、だから、信長が不慮の災難に倒れた時、秀吉はなんなく信長の後継者というポストの勝ち

抜き合戦を勝ち抜くことができたのです。

これらは元をただすと墨俣一夜城築城のとき。小六と小右衛門が配下の川並衆を引き連れて秀吉

のもとに馳せ参じ、秀吉を一気に2千余人の兵を持つ武将にのしあげたからで、2人は豊家創業

の最大の功臣だった。2人の存在なくして後の秀吉はなかったのです。

2人がいなければ、なにしろ家来を持たない、十分な戦働きができない。

異能の才であるから相応には成り上がったでしょうが、柴田、丹羽、佐久間、滝川、のちに加わっ

て家来・明智光秀らと肩を並べるまでには、至ってないのでしょう。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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