諏訪の浮城 高島城
諏訪湖に浮かぶ「浮城」
『諏訪湖が壕の役割を果たし難攻不落といわれた』
高島城は 1598年に豊臣秀吉臣下の日根野織部正高吉に築城され築城当時は諏訪湖の水が城際まで
迫り壕の役割を果たしたことから難攻不落を誇り、別名を「諏訪の浮城」と呼ばれていた
総石垣造で8棟の櫓・6棟の門・3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが軟弱な
地盤であったため 木材を筏状に組み その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた
それでも石垣が傷みやすく度々補修工事を加える必要があったという
7年間の短期間で築城したため かなり無理をしたらしく 地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を
確保するため金子城の石材は全て持ち出したほか 墓石・石仏も用いられた」などの伝承が残っている
現在の高島城は本丸跡が残るのみで 昭和45年に本丸に天守・櫓・門・塀が復元され 高島公園として
整備されているが 諏訪湖岸とは離れているうえに周囲は埋め立てられ「諏訪の浮城」と呼ばれた面影
はありません
以前、「西の山の端」(美樹さん)のブログを拝見し、行ってみたい城のひとつにしていました。
こじんまりとした城で公園化されていますので、近所のお年寄りやお子さん連れの方がのんびりと
散策され、雰囲気が良かったです。
写真は、平成22年6月6日に撮ったものです。
南東側(冠木橋)から見る高島城天守閣

角櫓

冠木(カブキ)門と冠木橋

二の丸公園内の庭園

二の丸から天守閣を見上げる
破風下の洋風な窓が、「可愛い」とか「変」とかの感想があるようです。
みなさんは如何でしょうか?
コンクリートの城ですから、登城はしませんでした。

駐車場からの天守閣
公道から天守台の野面積み石垣がそそり立っています。

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『諏訪湖が壕の役割を果たし難攻不落といわれた』
高島城は 1598年に豊臣秀吉臣下の日根野織部正高吉に築城され築城当時は諏訪湖の水が城際まで
迫り壕の役割を果たしたことから難攻不落を誇り、別名を「諏訪の浮城」と呼ばれていた
総石垣造で8棟の櫓・6棟の門・3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが軟弱な
地盤であったため 木材を筏状に組み その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた
それでも石垣が傷みやすく度々補修工事を加える必要があったという
7年間の短期間で築城したため かなり無理をしたらしく 地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を
確保するため金子城の石材は全て持ち出したほか 墓石・石仏も用いられた」などの伝承が残っている
現在の高島城は本丸跡が残るのみで 昭和45年に本丸に天守・櫓・門・塀が復元され 高島公園として
整備されているが 諏訪湖岸とは離れているうえに周囲は埋め立てられ「諏訪の浮城」と呼ばれた面影
はありません
以前、「西の山の端」(美樹さん)のブログを拝見し、行ってみたい城のひとつにしていました。
こじんまりとした城で公園化されていますので、近所のお年寄りやお子さん連れの方がのんびりと
散策され、雰囲気が良かったです。
写真は、平成22年6月6日に撮ったものです。
南東側(冠木橋)から見る高島城天守閣

角櫓

冠木(カブキ)門と冠木橋

二の丸公園内の庭園

二の丸から天守閣を見上げる
破風下の洋風な窓が、「可愛い」とか「変」とかの感想があるようです。
みなさんは如何でしょうか?
コンクリートの城ですから、登城はしませんでした。

駐車場からの天守閣
公道から天守台の野面積み石垣がそそり立っています。

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カリスマ武将Piglet 上田城を攻める(後編)
徳川家を2度も撃退した上田城
『上田城から逃げ出した真田親子を追って 真田氏本城へ』
カリスマ武将Pigletを恐れて 上田城から逃げ出した真田親子(昌幸・幸村)を追って真田氏本城に到着
真田氏本城は、戦国期に活躍する真田一族発祥の地「真田の郷」にあり 別名「松尾城」と呼ばれ 戦時
用の山城であり平時の政務機能は麓にある真田氏館に置かれていたようです
真田盆地の対峰に要害の地「戸石城」を望み 更に周囲の峰々にも数多くの支城群が連なり 単体の山城
ではなく真田盆地を取り囲む山城群の司令部的存在と考えられています
武田氏本城は山城ですが、城入口まで車で行くことができますので登城は楽です。

大手道は狭く山尾根に造られていることを実感できます。

城入口から2、3分も歩くと真田氏本城に到着します。
案内板をみても、山尾根に造られていることを確認できます。

う~ん、ここにも昌幸・幸村がいる気配はしないな~

真田盆地の山々には「戸石城」をはじめ、たくさんの支城があるというから、真田親子を探し出すのは
容易ではなさそうである。

真田親子を探し出す軍議を開いていたら、真田一族のお墓があるとの情報がもたらされたので、行って
みることとなった。

軍議の後は、また食事です。ついでに「松ボックリ」もゲットしました。

長谷寺のアーチ形山門には、六文銭が刻まれている。

真田幸隆(幸村の御祖父)夫婦と真田昌幸(幸村の父)のお墓があった。
お寺の住職より、真田氏について知りたければ「真田氏記念館」と「真田家三代の碑」があるとの情報を得て
行ってみることになった

「時代を駆け抜いた、真田氏ゆかりの品々」とのキャッチフレーズで、1585年に豊臣秀吉から真田昌幸
あてに送られた書状などが展示してあり、見ごたえがあった。
残念ながら、「うさぎ料金」の表示はありません。

「真田氏発祥の郷」入口には、「真田太平記」著者・池波正太郎氏の筆による石碑と真田家三代の
レリーフが建立されています。

左から「真田幸村」、「真田孝幸」、「真田昌幸」の大きなレリーフです。

「真田幸村」(真田信繁)と記念撮影です。
この写真からも判るように、Pigletは難攻不落の上田城を攻めに信州に向かったのではなく、
真田幸村に会いに行ったようで、満足して帰路につきました。

最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。
遠距離の城攻めに自信を得たPigletは、次の城攻めを行うために、ケージの中で地図を広げて作戦を
練っておりますので、次回もお付き合いよろしくお願いします。
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『上田城から逃げ出した真田親子を追って 真田氏本城へ』
カリスマ武将Pigletを恐れて 上田城から逃げ出した真田親子(昌幸・幸村)を追って真田氏本城に到着
真田氏本城は、戦国期に活躍する真田一族発祥の地「真田の郷」にあり 別名「松尾城」と呼ばれ 戦時
用の山城であり平時の政務機能は麓にある真田氏館に置かれていたようです
真田盆地の対峰に要害の地「戸石城」を望み 更に周囲の峰々にも数多くの支城群が連なり 単体の山城
ではなく真田盆地を取り囲む山城群の司令部的存在と考えられています
武田氏本城は山城ですが、城入口まで車で行くことができますので登城は楽です。

大手道は狭く山尾根に造られていることを実感できます。

城入口から2、3分も歩くと真田氏本城に到着します。
案内板をみても、山尾根に造られていることを確認できます。

う~ん、ここにも昌幸・幸村がいる気配はしないな~

真田盆地の山々には「戸石城」をはじめ、たくさんの支城があるというから、真田親子を探し出すのは
容易ではなさそうである。

真田親子を探し出す軍議を開いていたら、真田一族のお墓があるとの情報がもたらされたので、行って
みることとなった。

軍議の後は、また食事です。ついでに「松ボックリ」もゲットしました。

長谷寺のアーチ形山門には、六文銭が刻まれている。

真田幸隆(幸村の御祖父)夫婦と真田昌幸(幸村の父)のお墓があった。
お寺の住職より、真田氏について知りたければ「真田氏記念館」と「真田家三代の碑」があるとの情報を得て
行ってみることになった

「時代を駆け抜いた、真田氏ゆかりの品々」とのキャッチフレーズで、1585年に豊臣秀吉から真田昌幸
あてに送られた書状などが展示してあり、見ごたえがあった。
残念ながら、「うさぎ料金」の表示はありません。

「真田氏発祥の郷」入口には、「真田太平記」著者・池波正太郎氏の筆による石碑と真田家三代の
レリーフが建立されています。

左から「真田幸村」、「真田孝幸」、「真田昌幸」の大きなレリーフです。

「真田幸村」(真田信繁)と記念撮影です。
この写真からも判るように、Pigletは難攻不落の上田城を攻めに信州に向かったのではなく、
真田幸村に会いに行ったようで、満足して帰路につきました。

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遠距離の城攻めに自信を得たPigletは、次の城攻めを行うために、ケージの中で地図を広げて作戦を
練っておりますので、次回もお付き合いよろしくお願いします。
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