越中の要衝 「富山城」
『 さらさら越えの佐々成政の居城・富山城 』
富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を
図る神保長職により築かれたとされますが、さらに古いという説もあります。
当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行し、その南岸に富山城を築き、神通川の流れを城の防御に
利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」とも呼ばれていました。

1582年3月、神保氏は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主とな
ったのが佐々成政です。
富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行ったが、本能寺の変の後、豊臣秀吉から離れた
佐々成政は、1585年8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却さ
れます。
この時、成政は真冬の北アルプス越えを断行し、浜松の家康に助けを求めています。(さらさら越え)
この後、前田家に越中一国が与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、
1609年に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣が城代として入
っています。
築城の当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を
得ていたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸
南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守は築かれ
なかったそうです。
青空に映える模擬天守 (登城日:平成24年9月1日)

現在、城内にある模擬天守は、昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の
記念建築物として建設されています。
また、本来の富山城の石垣は、主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成
と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっています。
この城跡は「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっていますので、歴史的遺産という見方を
しないのであれば、十分な価値があるのだろうと感じながら巡っていました。
千葉城の場合も言われていますが、子供たちにはチャントと説明することが大事なのでしょね。




昨夜、浅草寺とスカイツリーのコラボ撮影に行ってきました。
明日、記事にしたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:優れた武者
武辺者とは優れた武者を指す言葉ですから、大をつければ自分がこの軍の中で一番優れていると言っているようなものです。
≪本日の問題≫
富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を
図る神保長職により築かれたとされますが、さらに古いという説もあります。
当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行し、その南岸に富山城を築き、神通川の流れを城の防御に
利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」とも呼ばれていました。

1582年3月、神保氏は上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉されて失脚し、替わって富山城主とな
ったのが佐々成政です。
富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行ったが、本能寺の変の後、豊臣秀吉から離れた
佐々成政は、1585年8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却さ
れます。
この時、成政は真冬の北アルプス越えを断行し、浜松の家康に助けを求めています。(さらさら越え)
この後、前田家に越中一国が与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、
1609年に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣が城代として入
っています。
築城の当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を
得ていたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸
南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守は築かれ
なかったそうです。
青空に映える模擬天守 (登城日:平成24年9月1日)


現在、城内にある模擬天守は、昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の
記念建築物として建設されています。
また、本来の富山城の石垣は、主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成
と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっています。
この城跡は「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっていますので、歴史的遺産という見方を
しないのであれば、十分な価値があるのだろうと感じながら巡っていました。
千葉城の場合も言われていますが、子供たちにはチャントと説明することが大事なのでしょね。







昨夜、浅草寺とスカイツリーのコラボ撮影に行ってきました。
明日、記事にしたいと思います。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解:優れた武者
武辺者とは優れた武者を指す言葉ですから、大をつければ自分がこの軍の中で一番優れていると言っているようなものです。
≪本日の問題≫
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秀康さんが泣いていた「福井城」
『秀康さんが泣いていた 「福井城」』
福井駅前にある「北ノ庄城址」から至近距離にある「福井城」に、8月30日に登城してきました。
1600年に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より天下普請による
築城を開始。

1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸
大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成しています。
完成した城は2km四方におよび、水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが、1669年に焼
失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはありませんでした。
(幕府から再建の許可が下りなかったとの説もあります。)
1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」
から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。
さすが天下普請、堀が広大すぎます。

本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣をついて望楼型4重5階の天守が建てられた。白漆喰総
塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような
配置に破風が並べられていたという。
広大な天守台

1669年に焼失した後は、同じように類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し天守の代用としている。
古写真では、複合式望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあることから、3重5階の櫓であったと見られて
います。
天守

天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという
説がある。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がされたそうです。
「福の井」井戸、結果はどうだったのでしょうか…。

本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。石垣の一部
崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたています。
膨らんでいる箇所が数箇所あります。

本丸を福井県に攻城され、泣いている「結城秀康公」
左の建物が警察本部、右が県庁

結城秀康公像

この後、金沢城と富山城に登城しましたので、後日、アップしたいと思います。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:源頼朝
伊豆の在庁官人であった政子の父・時政は、平治の乱で敗れ伊豆に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中で留守の間に政子は頼朝と恋仲になってしまい、頼朝の正室になっています。
≪本日の問題≫
福井駅前にある「北ノ庄城址」から至近距離にある「福井城」に、8月30日に登城してきました。
1600年に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より天下普請による
築城を開始。

1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸
大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成しています。
完成した城は2km四方におよび、水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが、1669年に焼
失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはありませんでした。
(幕府から再建の許可が下りなかったとの説もあります。)
1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」
から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。
さすが天下普請、堀が広大すぎます。



本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣をついて望楼型4重5階の天守が建てられた。白漆喰総
塗籠の外壁仕上げで、最上重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守に見られるような
配置に破風が並べられていたという。
広大な天守台


1669年に焼失した後は、同じように類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し天守の代用としている。
古写真では、複合式望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあることから、3重5階の櫓であったと見られて
います。
天守

天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという
説がある。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がされたそうです。
「福の井」井戸、結果はどうだったのでしょうか…。

本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。石垣の一部
崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたています。
膨らんでいる箇所が数箇所あります。

本丸を福井県に攻城され、泣いている「結城秀康公」
左の建物が警察本部、右が県庁

結城秀康公像


この後、金沢城と富山城に登城しましたので、後日、アップしたいと思います。
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解:源頼朝
伊豆の在庁官人であった政子の父・時政は、平治の乱で敗れ伊豆に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中で留守の間に政子は頼朝と恋仲になってしまい、頼朝の正室になっています。
≪本日の問題≫
柴田勝家の北ノ庄城
柴田勝家の北ノ庄城
【お市の方と共に消えた「北ノ庄城」】
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国・北ノ庄を与えられた柴田
勝家が、1575年に自らの縄張りによって築城を開始する。1583年の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・お市
と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失。
1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田
氏の遺構を見ることは出来ません。
天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。
柴田勝家の北ノ庄城(柴田神社)【登場日:平成24年8月30日】
北ノ庄城址に復元模型が展示されています。

柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが1581年に北ノ庄を訪問した時の記録
があり、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層
城の美観を増した」とあります。
この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代
の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天
守も笏谷石製の石瓦で葺いています。 (丸岡城登城記は「こちら」です。)
また、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送
った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述があります。
平成5年から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思
われる石が出土していますが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていません。
発掘された石垣
<画像はクリックで拡大します>

城址公園に鎮座する勝家公
険しい顔をしていますが、「こんちくしょう!秀吉め」と思っているのでしょうか。

城址公園にある「お市の方」像
うつむき加減の姿が、お市の方の生涯を彷彿させてくれます。

浅井3姉妹の像もあります。
奥に見えるのが「お市の方」です。

歴史的遺構は何も残っていない柴田氏・北ノ庄城ですが、また再訪したい場所です。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解:聚楽第
聚楽第は、豊臣秀吉が京都に建てた政庁兼邸宅です。
1591年12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥の豊臣秀次に譲ったあとは、聚楽第は秀次の邸宅となった。
しかし、秀吉は1595年7月に秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させ、秀次の居城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却しています。
≪本日の問題≫
【お市の方と共に消えた「北ノ庄城」】
朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向一揆を平定した功績によって、越前国・北ノ庄を与えられた柴田
勝家が、1575年に自らの縄張りによって築城を開始する。1583年の賤ヶ岳の戦いに勝家が敗れ、妻・お市
と共に自害すると城にも火が放たれ、建造物のほぼ全てが焼失。
1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに結城氏によって北ノ庄城が築城されたため、現在では柴田
氏の遺構を見ることは出来ません。
天守は7層(一説には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城であったと伝えられている。
柴田勝家の北ノ庄城(柴田神社)【登場日:平成24年8月30日】
北ノ庄城址に復元模型が展示されています。

柴田時代の建築をしのばせる史料として、宣教師のルイス・フロイスが1581年に北ノ庄を訪問した時の記録
があり、それによると「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層
城の美観を増した」とあります。
この「石」とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石のことであり、現在発掘調査で見出された柴田時代
の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城とほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって築城された丸岡城の天
守も笏谷石製の石瓦で葺いています。 (丸岡城登城記は「こちら」です。)
また、勝家を攻め滅ぼした羽柴秀吉が戦後間もない天正11年4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に送
った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、天守が九重」であった旨の記述があります。
平成5年から6度にわたるの発掘調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の地下から、石垣の跡と思
われる石が出土していますが、本丸の正確な位置を完全に特定するまでには至っていません。
発掘された石垣
<画像はクリックで拡大します>

城址公園に鎮座する勝家公
険しい顔をしていますが、「こんちくしょう!秀吉め」と思っているのでしょうか。

城址公園にある「お市の方」像
うつむき加減の姿が、お市の方の生涯を彷彿させてくれます。


浅井3姉妹の像もあります。
奥に見えるのが「お市の方」です。


歴史的遺構は何も残っていない柴田氏・北ノ庄城ですが、また再訪したい場所です。
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聚楽第は、豊臣秀吉が京都に建てた政庁兼邸宅です。
1591年12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥の豊臣秀次に譲ったあとは、聚楽第は秀次の邸宅となった。
しかし、秀吉は1595年7月に秀次を和歌山県の高野山に追放して切腹させ、秀次の居城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却しています。
≪本日の問題≫