大天守・小天守があった「米子城」
『大天守・小天守があった「米子城」』
GWを利用して中国地方を廻ってきましたので、準備ができしだい記事にしていきたいと思います。
今回は、鳥取→島根→広島→熊本(山口は途中で断念)→兵庫と、走行距離3,500kmの旅でした。
4月29日の夕方に東京から東名高速にのり、いざ西国へと向かいますが、静岡あたりから雨の歓迎を受
けますが、仮眠をしながら安全運転で翌朝、米子に到着です。
まず、今回の旅で最初に訪れたのが、石垣が見事な「米子城」です。
米子城は、戦国期には飯山の頂上に営まれた砦が造営され、江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本
丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用
していたそうです。
江戸期の米子城は、四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周
囲に廻した堀には海水をひき入れた大規模の城。
幕末から明治初年に撮影されたと思われる古写真(米子市HPよりお借りしています)

1591年に城主となった吉川広家が初代の天守を造営し、1600年に城主となった中村一忠が吉川広家
の三重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守が明治まであったという。
米子城古図(現地案内板)

本丸へ登っていくと、圧巻の石垣群です。
左が小天守台(副天守)と右が大天守台(主天守)

小天守台がお気に入りです

鉄門跡から本丸へ入ると、本丸の広さにビックリです。

天守台跡に残る礎石

米子城は石垣が良く保存されていますので、城郭の石垣ファンの方にはお勧めの城です。
また、近くの湊山公園には猿やモミュメンも多く、ご家族連れの方も楽しむことがでします。

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いつもありがとうございます。
旅に同行し、SAでくつろぐPiglet

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まず、今回の旅で最初に訪れたのが、石垣が見事な「米子城」です。
米子城は、戦国期には飯山の頂上に営まれた砦が造営され、江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本
丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用
していたそうです。
江戸期の米子城は、四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周
囲に廻した堀には海水をひき入れた大規模の城。
幕末から明治初年に撮影されたと思われる古写真(米子市HPよりお借りしています)

1591年に城主となった吉川広家が初代の天守を造営し、1600年に城主となった中村一忠が吉川広家
の三重天守の横に建てた独立式望楼型4重5階の天守が明治まであったという。
米子城古図(現地案内板)

本丸へ登っていくと、圧巻の石垣群です。
左が小天守台(副天守)と右が大天守台(主天守)

小天守台がお気に入りです


鉄門跡から本丸へ入ると、本丸の広さにビックリです。


天守台跡に残る礎石

米子城は石垣が良く保存されていますので、城郭の石垣ファンの方にはお勧めの城です。
また、近くの湊山公園には猿やモミュメンも多く、ご家族連れの方も楽しむことがでします。


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秀吉が水攻めした 備中・高松城
『秀吉の水攻めで有名な 備中・高松城』
1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻めにかかった。高松城
の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。
5月8日に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえる
ものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものでした。
世に言う「高松城水攻め」です。
人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見
事に水没した。

<クリックで拡大します>
現在は秀吉が築いた堰堤や、城の石積みが僅かに残るのみで、城の痕跡はほとんど残っていません。

城跡には宗治自刃の碑、宗治首塚・胴塚があり、公園として整備されています。

清水宗治の地
清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整え
その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わし、そして
舞を踊った後、
「浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して」
という辞世の句をしたため、自害し他3人も次々と自害を遂げています。
秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛したといいます。

この後、秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返してい
ます。
次は、岡山城に向かいました。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 高井野藩・4万5千石
将軍・徳川秀忠の命により、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と
越後国魚沼郡の4万5千石(高井野藩)に減封されています。移封後、正則は嫡男・忠勝
に家督を譲り、隠居しています。
≪本日の問題≫
1582年、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月、高松城攻めにかかった。高松城
の周囲は沼地に囲まれ難攻不落を誇っていたため、攻城戦は持久戦となった。
5月8日に入り軍師・黒田孝高の献策により城を堰堤で囲むという、攻城というよりむしろ土木工事といえる
ものが開始された。これにより低湿地にあった高松城を水没させようというものでした。
世に言う「高松城水攻め」です。
人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成。折しも梅雨時で堰堤内には水が溢れ城は見
事に水没した。


<クリックで拡大します>
現在は秀吉が築いた堰堤や、城の石積みが僅かに残るのみで、城の痕跡はほとんど残っていません。



城跡には宗治自刃の碑、宗治首塚・胴塚があり、公園として整備されています。


清水宗治の地
清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整え
その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わし、そして
舞を踊った後、
「浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して」
という辞世の句をしたため、自害し他3人も次々と自害を遂げています。
秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛したといいます。

この後、秀吉は主君の仇敵・明智光秀と対決すべく「中国の大返し」を行い、強行軍で近畿に引き返してい
ます。
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昨日の正解: 高井野藩・4万5千石
将軍・徳川秀忠の命により、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と
越後国魚沼郡の4万5千石(高井野藩)に減封されています。移封後、正則は嫡男・忠勝
に家督を譲り、隠居しています。
≪本日の問題≫