日本百名城10 「山形城」
日本百名城10 「山形城」
山形城は、別名で霞城(かじょう)、霞ヶ城と呼ばれます。
山形城は百名城巡りの記念すべきスタートの城で、平成21年5月6日に最初にスタンプを押した城です。
今回は、10月6日に長谷堂城(こちら)に登城しましたので、近隣ということで再登城しました。
前回の登城時には、東大手門を中心に見学しましたが、今回は北門から車で入城できることを知りました
ので、本丸を中心に見学しました。
最上義光公と平成3年に復元された二の丸東大手門

1356年に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、初期の山形城が築城されています。
おおよそ基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられ、江戸時代には山形
藩の政庁が置かれる。
鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、
江戸中期以降は城の維持が困難になる。
幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。
戦前は陸軍に、現在は野球場、体育館などに占拠されています。(wik画像)

本丸絵図(現地案内板)

本丸正門の石垣

平成18年に 本丸の正門に当たる一文字門に架かる大手橋が復元されています。


本丸・一文字跡
本丸には以前、サッカー場などがあったようですが、現在は整備中で立ち入ることはできません。

山形城は整備が進められていますが、広大な城内には公共施設が林立していますので、歴史を感じること
のできない城のひとつでした。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解:皇室家外戚の将軍が生まれないようにした
2代秀忠御台所の江が3代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいません。
将軍の正妻は、大奥の制度が確立されて以降、皇室や公家から迎えるのが慣例となっています。
このため、皇室や公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされます。
≪本日の問題≫
山形城は、別名で霞城(かじょう)、霞ヶ城と呼ばれます。
山形城は百名城巡りの記念すべきスタートの城で、平成21年5月6日に最初にスタンプを押した城です。
今回は、10月6日に長谷堂城(こちら)に登城しましたので、近隣ということで再登城しました。
前回の登城時には、東大手門を中心に見学しましたが、今回は北門から車で入城できることを知りました
ので、本丸を中心に見学しました。
最上義光公と平成3年に復元された二の丸東大手門


1356年に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、初期の山形城が築城されています。
おおよそ基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられ、江戸時代には山形
藩の政庁が置かれる。
鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、
江戸中期以降は城の維持が困難になる。
幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。
戦前は陸軍に、現在は野球場、体育館などに占拠されています。(wik画像)

本丸絵図(現地案内板)

本丸正門の石垣

平成18年に 本丸の正門に当たる一文字門に架かる大手橋が復元されています。



本丸・一文字跡
本丸には以前、サッカー場などがあったようですが、現在は整備中で立ち入ることはできません。

山形城は整備が進められていますが、広大な城内には公共施設が林立していますので、歴史を感じること
のできない城のひとつでした。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
正解:皇室家外戚の将軍が生まれないようにした
2代秀忠御台所の江が3代将軍家光の生母となった以外、将軍生母となった御台所はいません。
将軍の正妻は、大奥の制度が確立されて以降、皇室や公家から迎えるのが慣例となっています。
このため、皇室や公家の外戚を持つ将軍が生まれないよう、大奥が管理していたからともされます。
≪本日の問題≫
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百名城10 山形城
戦国大名最上義光が拡張整備した城
『堂々たる二の丸東大手門が復元され、本丸の復元も進む』
山形城は、最上氏の祖・斯波兼頼が1357年に創築しています。
その後、戦国時代末期に最上義光が10数基の櫓を備えた平城に拡張整備します。
その後に入った鳥居氏も大幅な改修を行い、城の形が定っています。
縄張りは3重の堀が巡らされた典型的な輪郭式で、本丸に天守はなく防御の中心は二の丸におかれていた。
本丸の堀は明治に陸軍によって埋められてしまったが、二の丸の堀は現在も残っています。
近年絵図などを基に二の丸東大手門が木造再建されています。
また、本丸一文字の石垣も復元整備され、今後も復元を進めていく計画が持たれています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、石垣、堀、土塁
◇ 完全再建された二の丸東大手門は、高麗門、櫓門、続門などからなり、近代城郭の枡形門の典型的な
姿を見ることができます。
また、本丸一文字門の復元整備された高石垣とともに、かつての山形城の威容を偲ぶことができます。
最上義光について ボランティアの説明員の方に 大変親切に説明して貰えました。
大変気持ち良く拝聴できましたが スタンプ印をおいてある場所の受付嬢は 愛想なさ過ぎで残念でした

二の丸東大手門
二の丸東大手門枡形にあった建物は、明治8年に解体されたが、平成3年に木造で再建されています。

<クリックで拡大します>

<クリックで拡大します>
次は、蔵王温泉に立ち寄り後、白石城に向かう予定でしたが時間がないため蔵王温泉はパスして、直接に
白石城に向かいました。
蔵王は霧が深くて数メートルの視界で怖かったです
登城日:平成21年5月6日


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『堂々たる二の丸東大手門が復元され、本丸の復元も進む』
山形城は、最上氏の祖・斯波兼頼が1357年に創築しています。
その後、戦国時代末期に最上義光が10数基の櫓を備えた平城に拡張整備します。
その後に入った鳥居氏も大幅な改修を行い、城の形が定っています。
縄張りは3重の堀が巡らされた典型的な輪郭式で、本丸に天守はなく防御の中心は二の丸におかれていた。
本丸の堀は明治に陸軍によって埋められてしまったが、二の丸の堀は現在も残っています。
近年絵図などを基に二の丸東大手門が木造再建されています。
また、本丸一文字の石垣も復元整備され、今後も復元を進めていく計画が持たれています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、石垣、堀、土塁
◇ 完全再建された二の丸東大手門は、高麗門、櫓門、続門などからなり、近代城郭の枡形門の典型的な
姿を見ることができます。
また、本丸一文字門の復元整備された高石垣とともに、かつての山形城の威容を偲ぶことができます。
最上義光について ボランティアの説明員の方に 大変親切に説明して貰えました。
大変気持ち良く拝聴できましたが スタンプ印をおいてある場所の受付嬢は 愛想なさ過ぎで残念でした

二の丸東大手門
二の丸東大手門枡形にあった建物は、明治8年に解体されたが、平成3年に木造で再建されています。

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<クリックで拡大します>
次は、蔵王温泉に立ち寄り後、白石城に向かう予定でしたが時間がないため蔵王温泉はパスして、直接に
白石城に向かいました。
蔵王は霧が深くて数メートルの視界で怖かったです
登城日:平成21年5月6日


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