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三成の関ヶ原 その107 「総集編2・三成と武断派武将」

「総集編2・三成と武断派武将」

石田三成が打倒徳川の兵を挙げ、家康を相手に関ヶ原で決戦を行ったことについても、三成の心中をいろ

いろ憶測し、さまざまな意見があります。

しかし、三成は自分が天下をとるために大バクチを打ったわけでもないし、このままおとなしくしていれば、

反石田派の武将たちのための討ち滅ばされるからと考えて、破れかぶれに兵を挙げた訳でもなく。

豊臣家を防衛とするといった大義名分が三成にあったことは間違いないでしょうが、単に大義名分といった

正義観念のために戦ったのでもなく。

やはり、おのれを知る人、つまり太閤秀吉に対して、その好意と恩恵に応えるために精魂をつくして事にあ

たり、見得も外聞も、恥辱も眼中に入れず、徳川家康という大敵に向かって体当たりしたのではないかと思

います。

is.石田三成 兜

その点からいって、三成は極めて純粋な、一本気な、責任感旺盛な、マジメ人間であると同時に、ある意味

では危険きわまる人物であったのかも知れません。

三成は、同時代の武将としては、上杉謙信、明智光秀、柴田勝家、真田幸村に似たところがありますが、

謙信よりも機略に乏しく、光秀よりも正義感が強く、勝家よりも知恵がある。

勇気のある点では、加藤清正や福島正則よりもはるかに上で、いさぎよい点では真田幸村に最もよく似て

いると思います。

ただ、三成は性格が偏っているから、人に好かれない欠点がある。

性格がもっと明朗で、人物の幅が大きければ、さすがの徳川家康も豊臣の天下を奪い取ることはできなか

ったのでしょう。

豊臣恩顧の武将派の諸大名に嫌われたことが、三成にとって致命的な打撃であったことは間違いないと思

います。


みなさまは、三成くんをどう評価されているのでしょうか。

また、何年後に三成くんに触れたくなったら、記事にしたいと思います。

sakura 20130531 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:政治・軍事の相談役
御伽衆とは、政治や軍事の相談役で、武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手も務めた側近のことです。
秀吉は、読み書きが不得手であり、それを補うべく耳学問として御伽衆を多く揃えていたそうです。秀吉の御伽衆として、武家では足利義昭、織田信雄、織田有楽斎、六角義賢、金森長近ら。町人では千利休、今井宗薫、曽呂利新左衛門らが挙げられます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>
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三成の関ヶ原 その106 「総集編1・主君と家臣」

「総集編1・主君と家臣」

知己の人とか、知己の友とかいう言葉があります。

自分のことを良く理解してくれる他人。自分のことを良くわかってくれる友だち、という意味ですよね。

しかし、こういう相手は、なかなかいないものです。

自分を理解してくれる人が一人もいない人生くらい淋しく、味気ないものはないだろうし、生き甲斐さえもない

と言えるのでしょう。

ですが、たとえ、自分のことをわかってくれる人がいたとしても、ある程度では、物足りないし、満足できない。

それが、社会生活を営んでいるわたしたち常です。

三献の茶(JR長浜駅前)
三献の茶

かりに、自分のことを全面的に理解し、支持してくれる人が一人でもいるとしたならば、それが他人であって

も、非常にうれしいし、親、兄弟、子供だったら、なおさら満足に浸れます。

それが自分を社会的に引き立ててくれる職場の上司であるとすれば、この人のためなら、たとえ命を捨てても

惜しくないといった法悦境にまで到達しかねないものです。

武家を中心とする封建時代に、おのれを知る人のために、実際に一命を棄てて、これに報いた例は、それほど

多くはないと思います。

よく、主君の馬前に死すれば本望だとか、武士道とは死ぬことを見つけたりなどというが、おのれを知る主君

のために、心おきなく討ち死を遂げたと主張できる武士が、はたしてどのくらい存在したのでしょうか。

多くは主君のためという武家社会のしきたりや、外見的な見えのために、しかたなくいやいや戦死したり、切

腹したりする場合が多かったのでしょう。

ということは、それだけおのれを知ってくれる主君が少なかった裏書です。

大義名分だとか、忠節だとかいう理屈をまったく抜きにして考えてみれば、主君のために本当に満足して死ん

でゆけるのは、その主君が家臣である武士を人間的に理解し、愛情をもっておし包み、その長所を認めて、こ

れを抜擢、登用し、その失敗や欠点をも寛大に容赦してくれる場合に限るのでしょう。

pig 20130530 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:高台院
三成の三女・辰姫は、秀吉の正室・高台院(ねね)養女に迎えられています。
その後、弘前藩2代藩主津軽信枚の正室となり、子は3代藩主・津軽信義です。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その105 「三成の菩提寺・三玄院」

「三成の菩提寺・三玄院」

三成は、秀吉に抜擢登用されて立身出世するとともに、学問、信仰、教養に励んだが、紫野大徳寺の春屋

宗園和尚に帰依して禅を学び、1586年に大徳寺のなかに三玄院を建て、春屋禅師を推して開山しています。

それゆえ、1600年9月17日に佐和山城が落城し、10月1日に三成が刑されると、禅師は三玄院内に

三成の遺骸を納め墓碑を建て、また石田正澄、主水正、右近など石田一族のため影塔を建立し、香華を手向

けて遺霊を弔った。

そのとき、禅師が三成のために選んだ戒名が「江東院正岫因公大禅定門」です。

石田三成(1560-1600年)
is.石田三成 003

三玄院 (三玄院参拝は「こちら」です。)
三玄院 002


現在の三玄院は、明治年中の改築のものだそうです。

三成の画像は、彦根市の龍潭寺に所蔵しています。

また、三成の末裔と伝えられる杉山氏が所蔵する三成の肖像は、鼻骨が高く、口もとが締まり、口髭とあご髭

を生やしているところは、龍潭寺の画像と容貌が一致します。

意思が強固で勝気な三成の性格が偲ばれます。


長い間、三成にお付き合い戴き、ありがとうございました。

長きに渡りましたので、総集編として2回にまとめ、三成の関ヶ原を終わりにしたいと思います。


ume 20130529 001


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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:佐吉
石田三成は、1560年に石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれ、幼名は佐吉でした。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その104 「石田三成の最後」

「石田三成の最後」

小西行長と安国寺恵瓊とともに、伝馬から下されて刑場に引き出された石田三成の面前に、やがて黒衣の

僧侶が一人近づいてきた。

七条道場の上人です。

上人は、最後の経文で三成らに往生の悟りを得させようとしたのです。


石田三成(小栗さん)
is.石田三成 小栗006


しかし、三成は静かに首を横にふってみせた。

彼には経は、もはや無用のしぐさと思えたのです。

三成は、やがて従容として死につき、41年の生涯を終えた。

その首級は、小西行長、安国寺恵瓊、および水口城で自害した長束正家の首とともに、三条の一角にさら

された。


このシーンは、三成ファンにとって切なくなってきますよね。

「短く太く生きる」という言葉がありますが、三成くんは、秀吉の参謀として太く、また短く生きたのかも知れ

ません。


pig 20130528 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:大谷吉継
これは皆さん良くご存知ですね!
吉継は三成と「刎頚の友」と呼ばれるほど仲が良かったという。
また秀吉は三成・吉継を九州征伐や小田原征伐では兵站奉行を、文禄の役でも「船奉行」を務めている。
また太閤検地でも三成と吉継は検地奉行を担当し、1585年9月14日に秀吉が有馬温泉に湯治に出かけた際にも同行をするなど、2人一緒に行動を共にしたため友情を培ったのではないかといわれます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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三成の関ヶ原 その103 「干柿は痰の毒」

「干柿は痰の毒」

今日は、みなさんも良くご存知の「干し柿は痰の毒」です。


石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が伝馬に乗せられ、京都の一条の辻から室町を通って、寺町に出

て、六条河原に引き出されたのは、1600年10月1日のことであった。

三成は、その時に至っても顔色が平素と少しも変わらず、傍の武士に向かって

「この三成が大軍を率い、分け目の大合戦を行ったということは、天地が破れない限りは、明々白々、かくれ

ない事実である。少しも心に恥じることとてない」

と語ったという。(武功雑記)

佐和山城(CG画像)
佐和山城 003

洛中を引き廻される途中で、三成は、いかにも喉が渇いたので

「湯がほしい」

といった。

「贅沢をいわれるな」

と、警固の武士が、その辺をさがしたが、急に手にいりそうもないので

「湯はないが、ここに干柿がある。これを食われよ」

と、勧めた。

すると、三成は

「いや干柿は痰の毒と聞いている。食うまい」

と答えた。

警固の武士は、あざ笑い

「ただいま首を刎ねられる御仁が、毒断ちとは、気が知れぬ」

といった。

そこで、三成は

「汝らのような者には、そのように考えられるのが当然であろう、しかし、大義を想う者は首を刎ねられる間際

まで一命を惜しむ。なんとかして本望を達せんと思うからだ」

と述べた。

さすがの武士も、その言葉を聞いて胸をうたれたという。

また、薄気味悪くもあったでしょう。

三成が最後の際まで一時一刻も、その命を惜しんだのは、始終、豊臣家のためを想い、そのために全力を

傾注してきたことは間違いない。

目的を貫くためには、生も死も問題でなかった。ただ、不養生のために無駄死するのを嫌ったのです。

死ぬとしても、善死できぬことを恐れたのです。

sakura 20150527 001

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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫(5月24日)
正解:名護屋城
名護屋城建設では、後方支援の三成と建設指揮の加藤清正が協力して短期間に10数万の兵をを収容できる基地を建設しています。
2人の仲が破綻したのは、文禄の役の講和問題が持ち上がった時期といわれます。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:石田三成(桑田忠親薯)、大谷吉継と石田三成(工藤章興薯)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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