秀吉と桃山文化 その20

『秀吉の死因』

秀吉の死因については諸説があり、明国の使節によって毒殺されたという説まであります。

これは前田家の古記録に見えますから、当時、そのような風説があったということは事実なので

しょう。

豊臣秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉 小

しかし、確かな証拠があるわけででもない。病死説のほうが信用できるでしょう。

その病死説にも、腎虚説と労咳説があります。

腎虚説はあまりにも女性との交渉が過ぎたため、腎水(精液)が虚(から)になり、そのため死

んだというのですが、現代医学ではこのような説、あるのでしょうか。

無難な説は、やはり労咳説なのでしょう。

当時の日記や古文書には、太閤秀吉は死去する数年前から、しきりに咳をしていたというのです。

そうして、それが次第にひどくなったといいますから、やはり労咳なのでしょう。

労咳とは結核のことですが、昔は肺結核と気管支炎の区別さえはっきりしていない訳ですから、

そのどちらかであったと判断すると間違いないことなのでしょう。

あるいは喘息だったのかもしれません。

腎虚にしても労咳にしても、消耗病であることに違いはなく、伊予の国の宇和島藩・伊達家に伝

わった秀吉晩年の画像の、やせ衰えた容貌を見ても、そのことに頷ける気がします。


秀吉公にお付き合い頂き、ありがとうございました。

秀吉公から暫くはなれ、また、別の機会に秀吉公を勉強したいと思います。




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秀吉と桃山文化 その19

『豊臣の天下』

こんな訳ですから、「真書太閤記」に書かれている『8月16日に大老・中老・五奉行を集めて、

堂々と後事を託したというのは、ありえないことです。

to.豊臣秀吉 小

まして、家康や利家に向かい、秀頼が成人した後に、天下を治める器量がなければ、家康と利家

とで政治を預かり天下を治めて欲しいと、秀吉が依頼したなどとは、蜀漢の昭烈皇帝が諸葛孔明

に遺詔したという中国の故事をもとに、デッチあげた話なのでしょう。

事実、秀吉はそれほどメデタイ人間でなく、人の思惑はどうであれ是が非でも秀頼に豊臣の天下

を渡したかったのです。



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昨年の写真です
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秀吉と桃山文化 その18

『秀吉の最後』

「真書太閤記」に書かれた太閤秀吉の末期は、史実とは少々違うようです。

to.豊臣秀吉 002

相国寺の長老・西笑承タイの書状や、家康の侍医・板坂卜斎の覚書や毛利家の古文書に載っている

五大老の起請文、秀吉自筆の遺言状などによると、秀吉は慶長3年の5月頃から発病し、次第に痩

せ衰え、7月には伏見城内の前田利家の屋敷で、秀吉の遺物を家族や諸大名に分配し、起請文を提

出させ、8月5日に病床で五大老あてに遺書をしたため、

「秀頼が成人するまで、この書付を書いた人々に、頼み申す。何事も、このほかには、思い残すこ

ともない。くれぐれも、秀頼のこと、頼み申す。5人のかたがたに、お頼みする。くわしいことは

五奉行に申し渡した。名残り惜しいことだ」

と繰り返し、繰り返し、懇願している。

五大老・五奉行などは、同日、互いに、8ヵ条の起請文を交換し、後事について誓約を結んだと

いう。

その後、秀吉の病勢は悪くなる一方で、意識も朦朧となってきたので、五大老は相談の末に、3ヵ

条の指令を発し、今後の事は形式上この指令に従うことにとどめ、他日、秀吉の病が回復してか

ら、改めて御定を承り、それに従うように定めたという。

8月16日、秀吉は五大老を枕元に招き、また、ねんごろに秀頼の将来を託したけれど、病勢は

刻々と危篤となり、18日の午前2時になって息をひきとった。



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秀吉と桃山文化 その17

『秀吉の遺言』

英雄太閤秀吉の末期をもっとも演技的に見せてくれたのは「真書太閤記」ですが、これは江戸幕

末の1852年(嘉永5)から明治にかけて、栗原柳庵という民間の学者が編集した書物です。

1598年(慶長3)8月16日というと、没する3日前のことです。

太閤秀吉(1537-1598年)
to.豊臣秀吉

太閤秀吉は、大老・中老・五奉行をはじめ、譜代・外様の諸大名を病床ちかくに召し寄せて

「わしのいのちも、旦夕に迫った。もはや両3日とは、もたないであろう。わしが死んだなら、

死を極秘にせよ。もちろん葬式など、やるに及ばぬ。大老・中老・五奉行の面々は、遠謀をめぐら

し、朝鮮在陣の将兵らを無事に帰還させよ。わしが一番心配しているのは、この事だ。もし、下手

やって将兵らがいたずらに異国の地で、命を落とすようなことがあったなら、その身だけか、日本

の国の恥にもなる。それに、わしが死ねば、わが子秀頼は、まだ幼弱であるから、天下の政治のこ

とは、各々方で相談し、よろしきに計らうがよい。とりわけ、徳川家康と前田利家のうち一人は、

秀頼の後見役となり、一人は執権職として、政令をただし、一年おきに、その役目を交替して、秀

頼を補佐せよ。その上で、もし秀頼が成人して、天下に号令するほどの器量があったならば、一人

前の武将にもして欲しい。しかし、万が一、その器でなければ、両人が政治をあずかり、天下を治

めてほしい」

と遺言した。

家康と利家は、謹んで

「そのことについては、少しも心配なされますな。それがしども、この世にあるかぎりは、誠心誠

意、幼君・秀頼公を補佐いたそう」

と答えたという。


この書物に基づく小説やドラマはたくさんありますが、秀吉没後、250年も後に書かれた書物で

すから、本当のところ、どうだったのでしょうね。



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秀吉と桃山文化 その16

『能は名護屋城で始める』

秀吉が能の仕舞の稽古を始めたのは文禄2年2月、肥前国名護屋在陣中のことで、金春座の暮松

新九郎の勧めでした。

名護屋城 (名護屋城登城記は「こちら」です。)
na.名護屋城大手門

長陣を慰めるため、金春太夫安照・暮松新九郎・樋口石見守・女房能のちほ太夫・津田右衛門な

どの能役者を側近に召し寄せ能を興行させ、これを見物すると同時に、「弓八幡」の仕舞の稽古

に熱中し始めたという。

それから同年の10月には、5日から3日間にわたって宮中で盛大な能楽を興行し、後陽成天皇

の叡覧に供えています。

「駒井日記」によれば、このとき秀吉自身も、初日に「弓八幡」、「芭蕉」、「皇帝」、「三輪」

の4番を、2日目に「定家」、「大会」の2番を、3日目に「呉服」、「田村」、「松風」、

「杜若」、「金札」の5番を演じたという。

さらに文禄3年2月9日、大坂城本丸の舞台で、「吉野詣」、「田村」、「関寺小町」、「源氏

供養」、「老松」の5番を演じ、関白・秀次に見物させたといいます。

その頃、大坂城にいた正妻・北政所に送った秀吉自筆の手紙には、能楽の稽古に忙しくて、北政

所からの便りに対して、返事も書けないほどであって

「京都中の女房殿に見せてやるのだ」

と、得意がっていた様子が伺えます。




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