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【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その51

『戦争には強かった昌幸』

昌幸は評判ある武将ですが、それほどの人物であったと感じられない。

執念深くて、領土に執着の強かったことは無類であったこと。また、利にさとくて反覆の人であったことも多く

記事にしました。

真田昌幸(1547-1611年) (真田昌幸の墓参りは「こちら」です。)
sa.真田昌幸 002

信義の観念など感じることができないのです。

しかし、戦争には強かった。徳川家の大軍を上田の小城によって前後2回とも散々に打ち破っていますが、

知将であるとは思えない。

第一には当時の心ある武将なら皆が予測していた石田三成の挙兵を全然予知できないで、なぜ前もって知

らせなかったといって三成に怒っている点を見ても、そうとしか思えません。

軍略にはたけていても、大きい意味での知略の人ではなく、人物としての局も小さかったと思われます。

大策士は意外とさらさらしているものです。

黒田官兵衛の生涯を見ても、竹中半兵衛の生涯を見ても、日常の行動、とくに晩年の風趣のすがすがしさは

異なるものがあります。

かれらの本懐が策を楽しむものにあって、物質欲や権勢欲にはないからでしょうか。

昌幸には風趣が全然見られません。先祖の墓があるとウソを言って名胡桃を取り留めたことなど、在郷武士

の執拗強情がむき出しで、垢抜けしないことおびただしいものです。

彼の評判のよさは、豊臣家の最期を飾って悲壮な死をとげた次男・幸村の名声の反映が大きいと思われま

す。


幸村という名は信用できる文献には出てきません。

信繁です。幸村が通用になっていますので、この名を使っています。


長い間、真田昌幸にお付き合い頂き、ありがとうございました。

次の戦国武将は、「中国の覇者 毛利元就」を取り上げてみたいと思います。


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sakura 20140610


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:米沢城
伊達政宗は、1567年9月5日出羽国米沢城で生まれ幼名は梵天丸で、1577年に元服して伊達藤次郎政宗と名乗っています。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>
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【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その50

『昌幸、九度山で没する』

真田記に「或る人言ふ」と注して、こんな話を伝えています。

死に臨んで昌幸は平然として幸村に言った。

「わしの命がもう3年あったら、秀頼公に天下を取って上げられるものを」

幸村は、その策を聞いた。

真田庵 (真田庵訪問記は「こちら」です。)
真田庵 001

昌幸は、はっと我に返った様子で

「いや、いや、重病の心乱れなきことを言うたわ。乞食同然のこの身になって、どうしてそんなことが出来ようぞ」

と、打ち消した。

「いや、いや、それがしに対してご用心はいりませぬ。ぜひ仰せつけください」

「ハハ、そうか。では、ざんげ物語のつもりで聞いてくれい。わしの見るところでは3年のうちに東西が手切れと

なる。もしわしが存命するならば、人数3千ばかりを率いて伊勢の桑名の向こうまで出て備えを立てよう。わし

の手なみは大御所もたやすくはかかられまい。暫くにらみ合っているうちには、豊田家恩顧の諸大名どもして

心を動かして大坂方へ馳せ参ずる者も多く出る筈だ。そこで大御所(家康)が攻めかかって来られたら、陣を

引いて桑名のこちらでまた支える。これを繰り返しているうちには一層人数が集まる筈だ。やがて近江の瀬田

まで来たならば、唐橋を焼き落して、こちらに柵を付けて支える。数日さえぎれば、さらにおびただしく味方は

増えよう。天下の豊臣家に帰すること案のうちではないか。やれやれ、長物語に胸が苦しい。水をくれ。」

と言って、水を飲んでむなしくなったというのです。

これに似た話は砕玉話(武将感謝記)にもあって、この書では昌幸が秘計を語った後、

「そちがわしの志をついで大坂にこもり、この計を用いようとしても、人が同意せんじゃろう」

と言ったという。

おれと違ってお前には名声貫禄がない、同じ計画を述べても信用しないであろういうことでしょう。

同じ程度の作品であっても、名声ある作家の作品であれば評判になるが、無名作家のものは黙殺されるといった

ところでしょうか。

昌幸は1611年6月4日に没した。享年65歳  「法名、竜華院一翁閑雪」


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仙台に外出中のため、戦国クイズはお休みさせてもらいます。

青葉通り

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【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その48

『第2次上田合戦の勝利』

戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取りかかる。

短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、9月8日に

上田城下の稲の刈り取りを始めた。

上田城 (pigletも攻めた上田城は「こちら」です。)
ue.上田城 20100625 002

徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出してきた。

そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走。

それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

それらの流れは全て昌幸の作戦であった。

徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊

が一斉射撃を浴びせた。

さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。

功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型

を成さない状態に陥っていた。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前

進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討ち出て徳川軍を散々に打

ち破った。

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。

前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた幸村隊200が秀忠本陣に奇襲をかけた。幸村隊

は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。

秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。

また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、幸村の合図で堤防が切られると、大量の

水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる

事となり、第二次上田合戦はわずか1日で真田方の大勝に終わった。

3万8千の秀忠軍は、関ヶ原の決戦には間に合わなかったので、家康の機嫌は恐ろしく悪く

「合戦にも間にもあわず、といって上田城を落とすこともようせず、不覚千万、どの面さげて来た」

と、暫くは秀忠に会いもしなかったという。

しかし、昌幸の名声はおおいに上がったが、肝心の関ヶ原の戦いが大敗戦ですから、目を当てられないこととな

った。


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sakura 20140605


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:江
徳川秀忠は、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫と結婚したが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁しています。
その後、1595年に秀吉の養女・江(浅井長政の3女)と再婚しています。江は3度目の結婚になります。

≪本日の問題≫


                                         <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その47

『昌幸の時間稼ぎ』

徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、すでに3日の足止めに成功し、役目は十分に果たして

いる。

上田城
ue.上田城 20100625 004

さらに挑発に乗って攻めてくれば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけです。

家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えないことは明らかであり、兵力で圧倒され

ていようとも、城に籠もって数日間持ちこたえれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。

短期決戦を行うしかない徳川勢の戦術はおのずと限られ、しかも総大将の秀忠はこれが初陣であった。

徳川勢が挑発に乗らなければ良し。乗ればなお良しの二段構え。狡猾な昌幸の策に陥った徳川勢は戦わず

して苦しい状況に陥れられた。

秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田幸村が守る上田城の支城・戸石城に対し、幸村

の兄である信幸の軍勢を差し向ける。

迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った幸村は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げた。

信幸軍は戦わずして戸石城を接収している。

これは幸村が、東軍内での立場が危うかった信幸に手柄を上げさせ、信幸に対する秀忠の信用を高めようと

したため、また、信幸軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減らすと

同時に、信幸を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われます。


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pig 20140604


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:本多忠勝の娘・小松姫を信幸に嫁がせた
第一次上田合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信幸へ嫁がせて懐柔するきっかけをつくったという。

≪本日の問題≫


                                        <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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【知将か表裏比興の者か真田昌幸】 その46

『昌幸の挑発』

豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8千の軍勢は中山道を進んで西に向

かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

秀忠が陣した、小諸城二の丸 (小諸城登城記は「こちら」です。)
ko.小諸城 005

小諸城に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信幸と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して

無難に開城を求めた。

老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。

数日の後、昌幸から届いた返答は

「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」

というものだった。

あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は

「謀ったな安房守!」

と怒鳴り散らし、上田城攻略を決意したという。

この時、本多正信や榊原康政などは上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、

第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは

出来なかった。

これこそが、まさに昌幸の思うつぼであった。

昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎ。この時点ですでに戦わずして秀忠隊を3日間足止めしており、さらにあから

さまな挑発を加えることによって徳川方に揺さぶりをかけた。


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sakura 20140603


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:本多忠勝の提案
真田氏の軍略に惚れた本多忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。それに対して家康は、信幸を自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾、小松姫を自らの養子(一説には秀忠の養子)として、真田家へ嫁がせたという。

≪本日の問題≫


                                          <参考文献:乱世の英雄(海音寺潮五郎薯)>

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Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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