孫子の兵法 『敵の情けを知らざるものは不仁の至りなり』

孫子の兵法 『敵の情けを知らざるものは不仁の至りなり』 (用間編)

10万もの大軍を動員して千里のかなたまで遠征すれば、政府および国民は、一日に千金もの戦費を負担

しなければならない。こうなると国中があげて戦争に巻き込まれる。

人民は牛馬のように戦争にかり出され、耕作を放棄せざるを得なくなる農家が70万戸にも達するであろう。

こうして戦争は何年も続く。しかも、勝利はたった一日で決するのである。

それなのに爵禄や金銭を出し惜しんで、敵側の情報収集を怠るのは、バカげた話だ。これでは将師として

資格がないし。君主の補佐役も務まるまい。また、勝利を収めることもかなうまい。

明君賢将が、戦えば必ず敵を破ってはなばなしい成功を収めるのは、相手に先んじて敵情を探るからであ

る。

しかもかれらは、神に祈ったり、経験にたよったり、星を占ったりして敵情を探り出す訳ではない。あくまで

人間を使って探り出すのである。


【解説】

スパイとか諜報活動と言うと、陰惨なイメージがつきまとい、あまり好感を持っては迎えられない。

しかし、孫子はその重要性を認め「爵禄百金をおしみて敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」と断言す

る。

孫子は「戦争はやむなく行うものであるが、始めたら勝たねばならない」、「勝つためには敵を知り己れを

知らなければならない」と考える。

そういう孫子からみれば、スパイの働きを否定するのは「不仁の至り」であり、感傷以外のなにものでもな

いのです。

戦争指導者としての冷徹な眼が、ここにも光っているのです。



昨日は、春の京都を駆け巡りました。

二条城
3年ぶり登城でした。百名城スタンプ83個目(→82個でした)をゲット!
二条城

大徳寺
多くの戦国武将が眠る。
大徳寺

高台寺
北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院。
高台寺

醍醐寺
豊臣秀吉の「醍醐の花見」で有名ですね。
見事なしだれ桜です。
醍醐寺

伏見城
現在、閉城している天守
伏見城

淀城
淀古城が近くにあります。
淀城

勝竜寺城
忠興さんとガラシャさんの城で有名ですネ。
勝竜城

東寺
ライトアップにチャレンジしてみました。
東寺


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孫子の兵法 『実を避けて虚を撃つ』 (虚実編)

孫子の兵法 『実を避けて虚を撃つ』 (虚実編)

戦争態勢は水の流れのようであらねばならない。

水は高い所を避けて低いところに流れて行くが、戦争も敵を避けて相手の手薄をついていくべきである。

水に一定の形がないように、戦争にも不変の態勢はありえない。敵の態勢に応じて変化しながら勝利を

勝ち取ってこそ、絶妙な用兵といえる。

それはちょうど、五行が相克しながら巡り、四季、日月が変化しながら巡っているのと同じである。

相手がどんな強大でも、かならず手薄の部分があり、つけこむ隙がある。

そこを突けば戦いの主導権を握って勝利を収めることができるというのが、「実を避けて虚を撃つ」の

考え方です。

これで成功した例は古今の戦史に多く見られます。

例えば、春秋時代、晋軍と楚、陳、蔡の連合軍が激突した「城濮の戦い」(西暦前632年)もその一つと

いわれます。

この時、晋軍を率いた文公は、まず連合軍の右翼を固めていた陳、蔡の軍に攻撃を定めた。

というのは、陳、蔡勢は同盟国のよしみで参戦しただけで、元々あまりやる気がなかった。

したがって、戦意も乏しい。

文公はそこに目をつけ、先ず、これを叩いたのです。

狙いどおり、陳・蔡勢は総崩れとなり、連合軍の右翼は破滅した。

これで戦いの主導権を奪った晋軍は、勢いに乗って楚軍まで撃破し、ついに大勝利を収めたのです。


これは戦争ばかりの話ではありませんよね。皆様の近くにも、「実を避けて虚を撃つ」の戦略で、恋愛の

大勝利者になられた方がいらっしゃいませんか。


「孫子の旗」
武田神社宝物殿で、平成23年12月25日まで開催されている「川中島合戦450年特別展」に『孫子の旗』が
展示されていました。
詳しい説明はなかった様な気がしますが、確かに古い旗でした。 訪問記は、「こちら」です。
so.孫子の旗 002
<クリックで拡大>

sa-ko 20111209 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 姉川の戦い
        姉川の戦いは、姉川を挟んだ形で繰り広げられ、初め浅井・朝倉軍が優勢であったが、
        家康軍の善戦により織田・徳川連合軍の大勝利に終わった。義景の援軍は越前に敗走し、
        長政の軍勢も小谷城に逃げ込み、浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となっています。

≪本日の問題≫


                                      <参考文献:孫子の兵法(守屋洋著)>

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孫子の兵法『十をもって一を攻める』(虚実編)

孫子の兵法『十をもって一を攻める』(虚実編)

こちらからは、敵の動きは手にとるように判るが、敵はこちらの動きを察知することはできない。

これなら、味方の力は集中し敵の力を分散させることができる。

こちらが仮に一つに集中し、敵が十に分散したとする。

それなら十の力で一の力を相手することになる。つまり、味方は多勢で敵は無勢。

多勢で無勢を相手すれば、戦う相手が少なくて済む。

どこから攻撃されるか判らないとなれば、敵は勢力を分散して守らなければならない。

敵が兵力を分散すれば、それだけこちらと戦う兵力が少なくなる。

従って敵は、前を守れば後ろが手薄になり、後ろを守れば前が手薄になる。左を守れば右が手薄になり、

右を守れば左が手薄になる。

四方八方すべてを守れば、四方八方すべてが手薄になる。

これで明らかのように、兵力が少ないというのは、分散して守らざるを得ないからである。

また、兵力が多いというのは、相手を分散して守らせるからである。


【集中と分散】

兵力の多少は、絶対的なものではなく相対的なものである。

その鍵は集中と分散にあるという。

こちらが集中し、相手を分散させれば、劣勢を優勢に転化することができる。

太平洋戦争のとき、日本軍は太平洋の島々に兵力を分散させ、米軍の各個撃破にあって、次々と玉砕を

余儀なくされた。

明らかに孫子の兵法の逆をいったのです。

これを企業経営に当てはめると、兵力劣勢な中小企業が大企業に互して行くには、一点集中主義、つまり

有力なアイデア商品の開発に努めよということなのでしょう。

大企業と同じことをやっていたのでは、勝負にならないということです。


昨日から、武田家ゆかりの地と紅葉を求めて山梨に来ています。

甲斐大和駅前の武田勝頼像
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武田勝頼自刃の地(景徳寺)
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昇仙峡
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信玄堤防
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武田八幡宮
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新府城跡
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武田氏ゆかりの地は、別途、個別に記事にしたいと思います。

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孫子の兵法 『利を見て進まざるは労(つか)るるなり』(行軍編)

孫子の兵法 『利を見て進まざるは労(つか)るるなり』(行軍編)

敵兵が杖にすがって歩いているのは、食糧不足に陥っているからである。

水汲みに出て、本人が真っ先に水を飲むのは、水不足に陥っているからである。

有利なことがわかっているのに進行しようとしないのは、疲労しているからである。

敵陣の上に鳥が群がっているのは、すでに軍を引き払っているのである。

夜、大声で呼び交わすのは、恐怖にかられているのである。

軍に統制を欠いているのは、将軍が無能で威令が行なわれていないのである。

旗指物が揺れ動いているのは、将兵に動揺が起こっているのである。

軍幹部がむやみに部下をどなりちらすのは、戦いに疲れているのである。

馬を殺して喰らうのは、兵糧が底をついているのである。

将兵が炊事道具をとりかたづけて兵営の外をたむろしているのは、追い詰められて最後の決戦を挑もう

としているのである。

将軍がぼそぼそと小声で部下に語りかけるのは、部下の信頼を失っているのである。


【高円寺阿波踊り】

高円寺阿波踊りが、8月27日(土)、28日(日)に開催されます。

今年は、節電のため両日とも、午後3:00~6:00の開催になっています。

踊り子1万人、観客数100万人の大規模イベントで、友人が踊り子1万人のなかの一人になって

いますので、100万人の一人になってみたいと思っています。

ko.高円寺阿波踊り

sa-ko 20110826 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 水野勝茂
        東軍の水野勝成隊に西軍の明石全登隊が押し寄せて来たとき、水野隊の先鋒となって
        明石隊を押し戻して一息を入れている神保長三郎の部隊300人に、突然伊達軍から鉄砲
        が撃ちかけられ全滅したという。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>

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孫子の兵法 『兵は多きを益とするにあらず』(行軍編)

孫子の兵法 『兵は多きを益とするにあらず』(行軍編)

兵の数が多ければ、それでよいというものではない。

やたらに猛進することを避け、戦力を集中しながら敵情の把握に努めてこそ、はじめて勝利を収める

ことができるのである。

逆に深謀遠慮を欠き、敵を軽視するならば、敵にしてやられるのがおちだ。

兵士が十分なついていないのに、罰則ばかり適用したのでは、兵士は心服しない。

心服しない者は使いにくい。逆に、すっかりなついているからといって、過失があっても罰しないなら、

これまた使いこなせない。

したがって、兵士に対しては、温情を持って教育するとともに、軍律をもって統制をはたらかなけれ

ばならない。

普段から軍律の徹底を図っていれば、兵士は喜んで命令に従う。逆に、ふだんから軍律の徹底を欠

いていれば、兵士は命令に従おうとしない。

つまり、ふだんから軍律の徹底に務めてこそ、兵士の信頼を勝ち取ることができるのである。



昨日は築地に仕事で出かけましたので、土佐藩築地邸跡に行ってきました。

【龍馬が寄宿した土佐藩築地邸跡】

この地は、江戸時代前期に埋め立てられ、武家地や町人地になっていましたが、1826年にこの地が

まとめられ、土佐藩山内家が拝領し、山内家は中屋敷あるいは下屋敷としていたようで、幕末まで

この地にありました。

土佐藩は初代山内一豊から16代豊範まで続き、幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は15代で、

ここに屋敷を構えていた時の藩主です。

薩長同盟を成立させ大政奉還を提唱した坂本龍馬は、1856年から57年にかけて剣術修行のため江戸

に来ていましたが、龍馬はこの地、土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(八重洲2丁目)にあったと

される千葉定吉道場に通っていたそうです。<現地案内板より>

当時の地図   
to.土佐藩中屋敷図
案内板<クリックで拡大>
to.土佐藩中屋敷 001
屋敷跡には、中央区役所が鎮座しています。
to.土佐藩中屋敷 中央区役所
屋敷前の堀(運河?)は高速道路に
to.土佐藩中屋敷 堀跡

sa-ko 20110819 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 20人
        南殿、淀殿、徳子、南の局、加賀殿、松の丸殿、甲斐姫、三の丸殿、三条殿、姫路殿、
        広沢局、月桂院、安楽院、円融院など20人位はいたといいます。
        ちなみに、家康は15人。秀次は40人以上。信長や信玄も多数の側室がいたらしいです。
        (人数は定かではありません)

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:孫子の兵法(守屋洋薯)>

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Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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