姫路城 その10 「女難の城」

姫路城 その10「女難の城」

榊原政岑(まさみね)の後は子・政永が7歳で継いだが、越後高田に転封になっています。

政岑も高尾を連れて越後に移ったが、翌年30歳で亡くなります。

しかし、その後も高尾は榊原家を離れず、その墓は榊原家の菩提寺である江戸雑司ヶ谷の本立寺にあり

ます。

国宝姫路城
現在、「大天守保存修理工事」が行なわれていますので、天守が見れるようになるのは
2015年3月18日以降になります。
hi.姫路城 006


榊原家の後、姫路には松平家が来たが2代10年で去り、あとは酒井家が来て明治維新まで続いている。

姫路という名のせいでしょうか。奇妙に女でいりの多い城です。

秀吉の最初の妾・姫路殿、池田輝政の妻・督姫、千姫、高尾、これで終わりかと思うと、まだ、あるのです。

酒井家の時代になって、1831年に酒井忠実が甥の忠学(ただのり)を連れて登城し、将軍・家斉に拝渇

させたところ、将軍は忠学が気に入って側衆とした。

ところが、この忠実に家斉の娘・喜代姫が恋慕して、忠学と結婚することになり、酒井忠実には実子がいる

のに、忠学を跡継ぎにしなければならなくなっています。

姫路城は、どこまでも女に縁のある城だったのです。


姫路城を10回に渡り記事にしましたが、お付き合い戴きましてありがとうございました。

次回の城は、岐阜城を取り上げてみたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 連結式天守
        現存の天守は池田輝政により建てられ、5重6階、天守台中に1階(計7階)(5層6階地下1階)
        の大天守と3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)で構成され、各天守の間は2重
        の渡櫓で結ばれています。
        この構成を「連立式天守」といいます。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>
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姫路城 その9 「姫路城に、また新しい女」

姫路城 その9 「姫路城に、また新しい女」

本多家は1638年まで、25年間姫路城主であったが、大和郡山に転封になり、あとには松平氏が2軒次ぎ

次ぎに来て去り、1649年に榊原家が城主になった。

やはり徳川四天王の一人である榊原康政の子孫である。榊原家は2代20年で去り、松平、本多と主が代

わったが、合して40年後の1704年に、また榊原家が来た。

2度目に榊原家が来て3代目となったのは、20歳の政岑(まさみね)であった。

この政岑が親しく交際していた大名が、尾張の宗春、広島の太守浅野吉長であった。ともに吉原で遊んで、

政岑の買いなじんだのは三浦屋の11代目高尾であった。

この3人は吉原でとにかく豪遊し、ついに1741年に政岑は3000千両の金を出し高尾を身請けしてしまった。

間もなく政岑は高尾を姫路に連れ帰っている。

緞子(どんす)の三つ重ねの蒲団を飾った乗りかけ馬に盛装した高尾を乗せ、東海道を練り下ったという。

高尾は姫路に着くと、千姫御殿に住まい「西の方さま」と呼ばれるようになった。

この年の10月に、政岑は幕府から、

「行跡よろしからざるにより、隠居謹慎を申しつける」と申し渡された。

姫路城
hi.姫路城 005

こんな話が伝わります。

幕府では、高尾身請けのことを聞き、老中松平乗邑が榊原家の家老を呼び出して、詰責したところ、家老は、

「事情があるのでございます。お知りのとおり、主人・政岑は小身の家の生まれでございますが、その頃の

乳母の娘が高尾なのでございます。あわれと思いましたので、身請けしたので決して好色がましいことは

ございません」

と弁解したという。

これで一応通ったのだから、のんびりとした世の中であった。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 真田丸
        秀吉が築いた大坂城は、上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた
        堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで防御が手薄であった。
        真田幸村はこの弱点を補うため、構造は東西180メートルほどの半円形の曲輪を構築し、
        出口は後方と両脇に位置。三方に堀、塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。
        これが真田丸と呼ばれています。


≪本日の問題≫


                                     <参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>

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姫路城 その8 「千姫、姫路城に」

姫路城 その8 「千姫、姫路城に」

本多家当主・忠政は倅(せがれ)の嫁のために、新たに西の丸を建築して、豪奢な御殿を営んだ。

この御殿は、ふすまに金泥銀泥の上に武蔵野の風景を描いてあったので、武蔵野御殿と呼ばれた。

今日では西の丸の遺構と、千姫の化粧の間であったという化粧櫓が残っているだけです。

西の丸から望む天守
2009年の登城記は、「こちら」を参照ください。
hi.姫路城 西の丸から
天守から望む西の丸         化粧櫓
hi.姫路城 天守から西の丸 hi.姫路城 化粧櫓
<画像はすべてクリックで拡大します>


こうしたことを聞いて、津和野藩主・坂崎直盛は発狂せんばかりに憤った。

「5万石の加増も、10万石の化粧料も、姫も、本来ならばおれがものになる筈だったのだ」

とばかりに、家来どもを集めて武装させる。

こうなっては、もう穏便には行かない。幕府では最後の手段に出る。

坂崎家の老臣坂崎勘兵衛を召して、

「出羽は乱心して、色々なことを口走っているそうじゃが、その方ども早くなんとかせんと、公儀でも

捨てておけんことになる。そうすれば、坂崎家は断絶じゃ。後のことはこちらで含んでおいてやる故、

しかるべき方法を講じて、家督をせがれに譲るようにせい」

と申し渡した。殺してしまえと、暗に示唆したのです。

勘兵衛は恐れいって帰邸し、同僚と相談して、坂崎直盛が乱酔して土蔵のなかで熟睡している時、

首をはめて殺し、その首を幕府に差し出した。

幕府では、

「おのれら、諌めて腹でも切らせることか、主の寝首を掻くということがあるものか。不忠むざん者ども」

と勘兵衛を捕らえ、有無を言わさず斬ってしまった。坂崎家はここに断絶した。

万事、筋書きどおり。といったところでしょうか。

化粧櫓内部              千姫と化粧櫓について
戦前の修理までは、化粧櫓には、その名の通り当時の化粧品の跡が残っていたそうです。
hi.姫路城 化粧櫓内部 hi.姫路城 千姫と化粧櫓

長局の廊下              侍女たちの部屋
千姫に仕えた侍女たちが居たところで、千姫は毎朝この廊下から男山を拝んでいたと伝えられています。
hi.姫路城 長局の廊下 hi.姫路城 侍女の部屋


こうして、1618年7月1日に千姫は本多忠刻に嫁いだ。

結婚した若夫婦は、翌年姫路に行く。

この2人の間に生まれた娘・勝姫が外祖父・秀忠の養女となって、前の姫路城主で鳥取城主に転じた

池田光政に嫁いでいる。

忠刻は部屋住みのまま、30歳の若さで病死した。千姫が嫁して7年目であった。

後世、腎虚して命を縮めたと言われるが、これは下々の噂でしょう。

千姫は落飾して天樹院と号し、1626年12月に江戸城内竹橋御殿に入ったが、後に飯田町に天樹院

屋敷が建てられ、そこに移って北の丸様と呼ばれ長寿を保って、1666年2月6日に70歳で没しています。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 器量が悪い
        坂崎直盛の器量が悪いことから千姫が結婚を嫌がり、結局美男の本多忠刻と結婚することに
        なったという。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>

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姫路城 その7 「千姫、本多忠勝の孫・忠刻を見初める」

姫路城 その7 「千姫、本多忠勝の孫・忠刻を見初める」

千姫は伏見に4ヶ月留まり、7月末日に江戸に向うことになる。

数日の後、勢州桑名に着く。

桑名は当時、本多忠勝の子・忠政が領主であった。この忠政の妻・国姫は若くして織田信長の命で

自殺した家康の長男・岡崎信康の娘ですから、千姫とは従姉妹にあたります。

この時の国姫は38歳、その長子・忠刻は当時21歳で千姫より1歳年上であった。

忠刻は大坂の陣にも参陣し武功を上げ、祖父・忠勝の名を辱しめぬ青年で、風流闊達な当時有名な

美少年であったといいます。

千姫一行は連日の雨で3日間、桑名城に滞在しています。主従の間柄とはいえ、血の続いたなかで

すから国姫は忠刻を千姫に引き合わせたのは間違いないでしょう。

桑名城(安藤広重)
ku.桑名城(安藤広重)

8月20日に千姫一行は江戸に着きます。母・お江に会ったのは12年ぶりであった。

千姫再婚の話が出たのは間もなくのことです。

恐らくは、津和野藩主・坂崎直盛から、

「しかじかの大納言家を適当と存じますがいかが」と申し出たのでしょう。

或いはまた、大坂城落城の際の家康の約束が本当なら、

「お約束により、拙者にたまわりたい」

と申し出たのかも知れない。

ところが、これに対して千姫は、

「再縁するなら、本多忠刻に」とはっきりと言った。

家康がこれを許さなかったのか、それとも坂崎から異議が出たためか。多分後者でしょうが、話は急

に運ばず、その年は暮れます。

翌年の4月半ばに、家康は駿府城で不帰の人となった。

家康が死んでしまえば、家康と坂崎との誓約は力ないものになる。もともと口約束だけのものであり、

書いたものが残っている訳ではない。

秀忠としては、

「おれは聞いておらんぞ」と突っぱねることができる。

また、秀忠にしてみれば、家の犠牲にして苦労をさせた姫の折角の希望を聞いてやりたい心がやま

やまである。忠刻ならば似合いの夫婦でもある。お江も秀忠を口説いたのでしょう。

縁談は急に進められて、その年の9月29日に婚約の上使として都築弥左衛門が桑名に派遣される。

腹を立てたのは、坂崎直盛です。強硬に幕府に抗議し、ついには、

「あくまで姫が入輿なさるならば、途中輿を奪い取り申すぞ」と言い出した。

坂崎家の老陣らは諌めたが、聞かない。

津和野城
tu.津和野城 001

「津和野3万石は、おれの槍先で稼ぎ出したものだ。潰そうと捨てようと、おれの勝手だ。姫のことは、

おれに任せる仰せ出された故、おれは散々苦労して、しかるべき縁辺を探し出したのに、それを踏み

つけて他家へ縁づかれては、おれは男が立たぬ。3万石が足の裏にへばりついて動きが取れぬと言

われるのは必定だ。男がどう立つものか。余計なことを申すな!」と言ったという。

いったい、坂崎成正という男は、がむしゃらな武士の多かったその時代でもがむしゃらで通った男だ。

要するに、頑固一徹、執拗至極、剛強一点ばりの男であった。

幕府も心がとがめるところがあるので、強圧策はとれず、色々と慰諭に務めたが、こんな男だ。

「いやでござる。拙者は武士の意気地をつらぬき申す」

と言い張って、頑として受け付けない。

あまりのことに、幕府はかまわず強行することを決め、その第一着として、本多家に5万石を加増して、

桑名から姫路に転封させた。

つまり、池田家を2つに分けて鳥取と岡山に移したのは、千姫を嫁入らせる固めであった。

本多家は姫路に移ると、千姫を迎える用意をした。いよいよ千姫が嫁して来れば、さらに10万石の化

粧料がつくというのだ。

*今日、姫路城の登城ブログを紹介する予定でしたが、明日に変更しました。

pig 20110324 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 奈阿姫
        豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘・奈阿姫が処刑される際に体を張った必死の助命嘆願
        を行い、その結果、奈阿姫は助けられたとされる。
        奈阿姫は後に「縁切り寺」として有名な東慶寺の住職になっています。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>

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姫路城 その6 「大坂城の落城」

姫路城 その6 「大坂城の落城」

千姫もまた政略結婚の犠牲になった人である。

千姫が大坂城へ輿入れしたのは7歳の時です。千姫の母・お江は淀殿の妹であるから、彼女と夫・秀忠

はいとこ同士であった。

その結婚は政略以外のなにものでもなかった。徳川家ではこれをもって大坂方を油断させようと心組み、

大坂方では人質にとったつもりであったのです。

それから10余年、東西の風雲が急になり、ついに大坂の陣になる。

豊臣大坂城(CG画像)
大坂城大手門と西の丸

一説によると、大坂城落城の間際に家康は、

「城内に入って姫を助け出して来る者はいないか。救い出して来た者に姫をやるぞ」

と言ったところ、津和野藩主・坂崎直盛が、

「拙者がつかまる」

と飛び出して行き、猛火の中から千姫を救い出し来たのだと言い、また一説によると千姫は大野修理

のはからいで、秀頼母子の命乞いのため城を出てくる途中、坂崎に出会い、その守護によって家康の

本陣にたどり着いたともいう。

後説の方がよさそうです。

坂崎は家康の旗本ではない外様の大名なので、家康の本陣にいたというのはおかしいと思います。

とにかく、千姫は救われた。

大坂城の落城は、千姫が家康の本陣に到着して間もなくのことだったという。

千姫は祖父様に泣きながら嘆願したが、

「女子供にわからぬことだ、あちらに行きゃれ」

と、他に連れ去らせておいて、大砲を猛撃させ、ついに秀頼母子を自害に追込んだ。

大坂城が落ちると、家康は千姫を連れて二条城に入り、千姫は伏見城に移っています。

伏見は千姫が産まれたところであり、伏見城から大坂に輿入れした思い出の土地であり、千姫の毎日

の思いは切ないものであったでしょう。

pig 20110323 001

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 西の心柱
        姫路城には東西の心柱があり西の心柱が腐っていたため、兵庫県神崎郡市川町の笠形神社
        境内の檜と岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の檜を継ぎ合わせて使用しています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:日本名城伝(海音寺潮五郎薯)>

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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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