お江 [総集編] その13 「お江に関係が深かった人々(2)」
お江 [総集編] その13「お江に関係が深かった人々(2)」
京極マリア(?-1618年)
浅井久政の娘として生まれる。
そのため、長政の姉にあたるが、一説には久政の妹ともいう。
京極忠吉のもとに嫁ぎ、夫との間に高次、高知、龍子をもうける。
1581年、夫とともに安土で洗礼を受け、マリアと名乗った。豊臣秀吉によるキリシタン禁止後も信仰を守る。
龍子は、母の影響を受けることなく洗礼を受けず、豊臣秀吉の側室に迎えられて松丸殿と称された。
お茶々をはじめとする3姉妹にとり、マリアは伯母にあたりその娘の松丸殿は従姉妹にあたる。
そのため北ノ庄城陥落後、3姉妹は一時マリアに預けられたともいう。
羽柴秀勝(1569-1592年)
三次吉房の次男。母は秀吉の姉にあたる瑞龍院。
幼名は小吉。叔父秀吉の数少ない親族の一人として重用される。
秀吉は、信長の4男にあたる於次を養子とし、秀勝と名乗られていたが、1585年18歳で病没。
その後、丹波亀山城主の座とともに、秀勝の名を甥の小吉に与えた。
禄高への不満を訴えたことから、秀吉によって所領を一旦は没収されたが、兄・秀次の取り成しにより、甲斐
府中城主を経て岐阜城主の座を与えられた。
お江を妻に迎え、秀吉によるアジア制覇が完成すれば、朝鮮の統治を一任される予定だったという。
しかし、朝鮮出兵のさなか、巨済島で陣没した。
お江(1573-1626年)

豊臣定子(1592-1658年)
羽柴秀勝とお江の長女として生まれる。
父は誕生前に病没。母は徳川秀忠に再婚したため、伯母の淀殿に養女として育てられる。
1604年、淀殿の斡旋で九条幸家のもとに嫁ぐ。
1608年には夫・幸家が関白に就任。以後、北政所と敬称される。(北政所は秀吉の妻だけの名称ではありま
せん)
豊臣家滅亡後は、秀忠の養女として扱われ、夫の幸家は幕府との折衝役として朝廷内での影響力を誇示。
2人の間に生まれた道房は、公卿の最高位である摂政に就任し、父と同じように朝幕関係の円滑化に尽力。
定子は、異父兄弟の和子が後水尾天皇に嫁ぐと、朝廷内で数少ない近親者として尽くした。
千姫(1597-1666年)
徳川秀忠とお江との間に生まれた長女。
豊臣秀吉の遺命により、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。
大坂の陣後、豊臣家が滅亡したのち、父・秀忠の意向により、徳川四天王の一人として知られる本多忠勝の
嫡孫にあたる忠刻に再嫁した。
一説によると、家康は千姫を助けた者の嫁にすると約束。
坂崎直盛は助け出しながらも、約束は履行されず、千姫奪取計画を実行に移そうとしたところ家臣に殺害され
たともいう。
1626年、夫の忠刻の死後、加賀前田家との3度目の婚姻も検討されたが、双方ともに気乗り薄のため、破談
となった。
その後、70歳で天寿を全うするまで、3代将軍の姉として影響力を保持した。
徳川和子(1607-1678年)
徳川秀忠とお江の間に生まれた5女。“まさこ”とも読む。
誕生の翌年には天皇家との婚儀が噂された。結果としては大坂の陣の勃発、後陽成上皇の崩御、後水尾天
皇の女性問題によって先送りにされ、14歳で後水尾天皇に嫁いだ。
婚儀にあたっては、徳川家康の側室だった阿茶局が母親代わりとして同行し、御所での世話にあたった。
この婚儀は、徳川家の権威を高めるための政略結婚であり、御所内における風当たりは強かった。だが、和
子は母譲りの根気強さを発揮し、朝廷や幕府の関係が円滑になるように心を配り続けた。
娘の明正天皇の即位後、東福門院と名乗った。
手芸を得意とし、小袖のデザインには定評があったという。
後水尾天皇(1596-1680年)
後陽成天皇の第3皇子。母は関白・近衛前久の娘。
16歳で即位。25歳で徳川家から和子を女御として迎える。
幕府による締め付けへの反発から、和子との間に生まれた皇女(明正天皇)に譲位する。
幕府による圧迫に対して深く憤慨はしていたが、武家政権によって隠岐に配流された後鳥羽上皇や後醍醐天
皇を教訓とし、基本的には協調路線を維持した。
退位してからは、和歌・茶道・書道などの文芸活動に専念した。
また、多くの寺社の建立や復興に関与している。
対する幕府は、上皇の遊行費を負担することにより、不満が高まらないよう配意した。
ほぼ一年に渡り、「お江」におつき合いを戴きましてありがとうございました。
このブログを通じて、浅井3姉妹について勉強することができました。
どうしても、豊臣方の記事が多くなっていますが、来年は徳川方についても取り上げてみたいと思いますの
で、お付き合いください。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 高坂昌信
武田四天王とは、武田信玄・勝頼期の重臣のうち、馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、高坂
昌信を指す総称です。
いずれも譜代家老層の出身で、信玄に登用され壮年・晩年期に活躍した主要家臣です。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
京極マリア(?-1618年)
浅井久政の娘として生まれる。
そのため、長政の姉にあたるが、一説には久政の妹ともいう。
京極忠吉のもとに嫁ぎ、夫との間に高次、高知、龍子をもうける。
1581年、夫とともに安土で洗礼を受け、マリアと名乗った。豊臣秀吉によるキリシタン禁止後も信仰を守る。
龍子は、母の影響を受けることなく洗礼を受けず、豊臣秀吉の側室に迎えられて松丸殿と称された。
お茶々をはじめとする3姉妹にとり、マリアは伯母にあたりその娘の松丸殿は従姉妹にあたる。
そのため北ノ庄城陥落後、3姉妹は一時マリアに預けられたともいう。
羽柴秀勝(1569-1592年)
三次吉房の次男。母は秀吉の姉にあたる瑞龍院。
幼名は小吉。叔父秀吉の数少ない親族の一人として重用される。
秀吉は、信長の4男にあたる於次を養子とし、秀勝と名乗られていたが、1585年18歳で病没。
その後、丹波亀山城主の座とともに、秀勝の名を甥の小吉に与えた。
禄高への不満を訴えたことから、秀吉によって所領を一旦は没収されたが、兄・秀次の取り成しにより、甲斐
府中城主を経て岐阜城主の座を与えられた。
お江を妻に迎え、秀吉によるアジア制覇が完成すれば、朝鮮の統治を一任される予定だったという。
しかし、朝鮮出兵のさなか、巨済島で陣没した。
お江(1573-1626年)

豊臣定子(1592-1658年)
羽柴秀勝とお江の長女として生まれる。
父は誕生前に病没。母は徳川秀忠に再婚したため、伯母の淀殿に養女として育てられる。
1604年、淀殿の斡旋で九条幸家のもとに嫁ぐ。
1608年には夫・幸家が関白に就任。以後、北政所と敬称される。(北政所は秀吉の妻だけの名称ではありま
せん)
豊臣家滅亡後は、秀忠の養女として扱われ、夫の幸家は幕府との折衝役として朝廷内での影響力を誇示。
2人の間に生まれた道房は、公卿の最高位である摂政に就任し、父と同じように朝幕関係の円滑化に尽力。
定子は、異父兄弟の和子が後水尾天皇に嫁ぐと、朝廷内で数少ない近親者として尽くした。
千姫(1597-1666年)
徳川秀忠とお江との間に生まれた長女。
豊臣秀吉の遺命により、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。
大坂の陣後、豊臣家が滅亡したのち、父・秀忠の意向により、徳川四天王の一人として知られる本多忠勝の
嫡孫にあたる忠刻に再嫁した。
一説によると、家康は千姫を助けた者の嫁にすると約束。
坂崎直盛は助け出しながらも、約束は履行されず、千姫奪取計画を実行に移そうとしたところ家臣に殺害され
たともいう。
1626年、夫の忠刻の死後、加賀前田家との3度目の婚姻も検討されたが、双方ともに気乗り薄のため、破談
となった。
その後、70歳で天寿を全うするまで、3代将軍の姉として影響力を保持した。
徳川和子(1607-1678年)
徳川秀忠とお江の間に生まれた5女。“まさこ”とも読む。
誕生の翌年には天皇家との婚儀が噂された。結果としては大坂の陣の勃発、後陽成上皇の崩御、後水尾天
皇の女性問題によって先送りにされ、14歳で後水尾天皇に嫁いだ。
婚儀にあたっては、徳川家康の側室だった阿茶局が母親代わりとして同行し、御所での世話にあたった。
この婚儀は、徳川家の権威を高めるための政略結婚であり、御所内における風当たりは強かった。だが、和
子は母譲りの根気強さを発揮し、朝廷や幕府の関係が円滑になるように心を配り続けた。
娘の明正天皇の即位後、東福門院と名乗った。
手芸を得意とし、小袖のデザインには定評があったという。
後水尾天皇(1596-1680年)
後陽成天皇の第3皇子。母は関白・近衛前久の娘。
16歳で即位。25歳で徳川家から和子を女御として迎える。
幕府による締め付けへの反発から、和子との間に生まれた皇女(明正天皇)に譲位する。
幕府による圧迫に対して深く憤慨はしていたが、武家政権によって隠岐に配流された後鳥羽上皇や後醍醐天
皇を教訓とし、基本的には協調路線を維持した。
退位してからは、和歌・茶道・書道などの文芸活動に専念した。
また、多くの寺社の建立や復興に関与している。
対する幕府は、上皇の遊行費を負担することにより、不満が高まらないよう配意した。
ほぼ一年に渡り、「お江」におつき合いを戴きましてありがとうございました。
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昨日の正解: 高坂昌信
武田四天王とは、武田信玄・勝頼期の重臣のうち、馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、高坂
昌信を指す総称です。
いずれも譜代家老層の出身で、信玄に登用され壮年・晩年期に活躍した主要家臣です。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
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お江 [総集編] その12 「お江に関係が深かった人々(1)」
お江 [総集編] その12「お江に関係が深かった人々(1)」
大河ドラマ「お江」も、今日の放映を含めて残り2回になりましたが、当ブログのお江も彼女に関わりの
深かった人々を回顧して、来週の日曜日で完結にしたいと思います。
浅井長政(1545-1573年)
小谷城主の浅井久政の嫡男として生まれる。
観音寺城の六角氏とは近江の覇権を巡って激しい攻防戦を展開。
一旦は、六角氏重臣の平井氏の娘を妻に迎えることにより、服属の意思を明らかにする。だが、一乗谷
城主の朝倉氏との関係を強化することにより、再び六角氏と絶縁し、平井氏の娘を離縁する。
1568年、信長の妹・お市を妻に迎えるが、その4年前には側室との間に長男の万福丸をもうける。
義兄にあたる織田信長に反旗を翻し、その結果、小谷落城ともに覚悟の自害を遂げた。
大蔵卿局(?-1615年)
前歴は不詳。
お市に仕え、長女お茶々の乳母となる。
お茶々が豊臣秀吉の側室となり、淀殿の称されると深い信任を受け、豊臣家有数の実力者となる。加え
て、子の大野治長のまた、豊臣秀頼の側近として権力を握った。
関ヶ原合戦では、対立する東軍に属した京極家の帰順のために力を尽くす。
大坂冬の陣が勃発すると、この治長とともに豊臣家の生き残りのため奔走した。
一旦は和議を締結へと導くが、その願いは叶えられることはなかった。
大坂城が落城の炎に包まれると、淀殿や治長とともに自害することを余儀なくされた。
織田信包(のぶかね)(1543-1614年)
織田信秀の4男として生まれる。
北伊勢を所領とする長野氏の養子に迎えられるが、ほどなく織田の姓に復す。
信長の命に従って各地を転戦。親族衆として伊勢上野城主の座を与えられる。
浅井家滅亡後は、妹・お市と3人の娘たちを保護した。
これは、数多い信長の兄弟のなかでも、信包とお市の母が同じだったことによる処置と思われる。
兄・信長の死後、豊臣秀吉に臣従し、伊勢安濃津城主となるが、小田原合戦で秀吉の不興を買い、一旦は
領地を失った。
その後、御伽衆として秀吉に仕え、丹波柏原の大名に復帰。
関ヶ原合戦の後、豊臣秀頼に仕え、姪の淀殿を支えたが大坂冬の陣勃発直前に病没した。
柴田勝家(1522?-1583年)
出自は不詳。
織田信長の弟・信行に仕えるが、信行が兄・信長に反旗を翻したのち、信長の家臣となる。
主君信長の天下布武のために尽力。
1575年、越前平定後、北ノ庄城の座を与えられる。
知名度の高い武将であるのにもかかわらず、配偶者は不詳であり、2人の姉の子(勝政、勝豊)をそれぞれ
養子に迎えている。
お市を妻に迎えたとき、すでに60歳前後と推定され、お市とは25歳前後の年齢差があった。
お市との婚儀は恋愛感情というより、織田信孝が反秀吉包囲網の結束強化のため、叔母のお市を利用した
という要素が強かった。
賤ヶ岳合戦に敗れたのち、北ノ庄城で自害を遂げた。
高台院(1548-1624年)
杉原定利の娘として生まれ、浅野長勝の養女となる。
足軽時代の豊臣秀吉に嫁ぎ、糟糠(そうこう)の妻として夫の驚異的な出世を支える。
秀吉との間には子どもには恵まれなかったが、正室の座は守り抜く。
側室の淀殿とは、女同士の激しいつばぜり合いを演じたというイメージが強い。だが、高台院は、大津城
攻防戦ではお初の身に危険が迫らないように、淀殿と協力して京極高次を降伏へと導いた。
また、大坂の陣でも大坂方と徳川方が決裂しないように斡旋しており、淀殿との女の戦いは後世のフィク
ションによるところが多いと思われる。
京都の高台院で余生を過ごし、77歳で病没した。
松ボックリが、すっかりお気に入りのさくらです。

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≪昨日の解答≫
11月18日の正解: 片倉重長(小十郎)
幸村の次男・大八(真田守信)は、伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長
の元で姉達とともに保護され、後に元服し片倉守信となっています。
以降、公式に残る信繁唯一の家系・仙台真田家として現在も続き、守信の子・辰信の時、
片倉姓から真田姓に復しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
大河ドラマ「お江」も、今日の放映を含めて残り2回になりましたが、当ブログのお江も彼女に関わりの
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浅井長政(1545-1573年)
小谷城主の浅井久政の嫡男として生まれる。
観音寺城の六角氏とは近江の覇権を巡って激しい攻防戦を展開。
一旦は、六角氏重臣の平井氏の娘を妻に迎えることにより、服属の意思を明らかにする。だが、一乗谷
城主の朝倉氏との関係を強化することにより、再び六角氏と絶縁し、平井氏の娘を離縁する。
1568年、信長の妹・お市を妻に迎えるが、その4年前には側室との間に長男の万福丸をもうける。
義兄にあたる織田信長に反旗を翻し、その結果、小谷落城ともに覚悟の自害を遂げた。
大蔵卿局(?-1615年)
前歴は不詳。
お市に仕え、長女お茶々の乳母となる。
お茶々が豊臣秀吉の側室となり、淀殿の称されると深い信任を受け、豊臣家有数の実力者となる。加え
て、子の大野治長のまた、豊臣秀頼の側近として権力を握った。
関ヶ原合戦では、対立する東軍に属した京極家の帰順のために力を尽くす。
大坂冬の陣が勃発すると、この治長とともに豊臣家の生き残りのため奔走した。
一旦は和議を締結へと導くが、その願いは叶えられることはなかった。
大坂城が落城の炎に包まれると、淀殿や治長とともに自害することを余儀なくされた。
織田信包(のぶかね)(1543-1614年)
織田信秀の4男として生まれる。
北伊勢を所領とする長野氏の養子に迎えられるが、ほどなく織田の姓に復す。
信長の命に従って各地を転戦。親族衆として伊勢上野城主の座を与えられる。
浅井家滅亡後は、妹・お市と3人の娘たちを保護した。
これは、数多い信長の兄弟のなかでも、信包とお市の母が同じだったことによる処置と思われる。
兄・信長の死後、豊臣秀吉に臣従し、伊勢安濃津城主となるが、小田原合戦で秀吉の不興を買い、一旦は
領地を失った。
その後、御伽衆として秀吉に仕え、丹波柏原の大名に復帰。
関ヶ原合戦の後、豊臣秀頼に仕え、姪の淀殿を支えたが大坂冬の陣勃発直前に病没した。
柴田勝家(1522?-1583年)
出自は不詳。
織田信長の弟・信行に仕えるが、信行が兄・信長に反旗を翻したのち、信長の家臣となる。
主君信長の天下布武のために尽力。
1575年、越前平定後、北ノ庄城の座を与えられる。
知名度の高い武将であるのにもかかわらず、配偶者は不詳であり、2人の姉の子(勝政、勝豊)をそれぞれ
養子に迎えている。
お市を妻に迎えたとき、すでに60歳前後と推定され、お市とは25歳前後の年齢差があった。
お市との婚儀は恋愛感情というより、織田信孝が反秀吉包囲網の結束強化のため、叔母のお市を利用した
という要素が強かった。
賤ヶ岳合戦に敗れたのち、北ノ庄城で自害を遂げた。
高台院(1548-1624年)
杉原定利の娘として生まれ、浅野長勝の養女となる。
足軽時代の豊臣秀吉に嫁ぎ、糟糠(そうこう)の妻として夫の驚異的な出世を支える。
秀吉との間には子どもには恵まれなかったが、正室の座は守り抜く。
側室の淀殿とは、女同士の激しいつばぜり合いを演じたというイメージが強い。だが、高台院は、大津城
攻防戦ではお初の身に危険が迫らないように、淀殿と協力して京極高次を降伏へと導いた。
また、大坂の陣でも大坂方と徳川方が決裂しないように斡旋しており、淀殿との女の戦いは後世のフィク
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京都の高台院で余生を過ごし、77歳で病没した。
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11月18日の正解: 片倉重長(小十郎)
幸村の次男・大八(真田守信)は、伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長
の元で姉達とともに保護され、後に元服し片倉守信となっています。
以降、公式に残る信繁唯一の家系・仙台真田家として現在も続き、守信の子・辰信の時、
片倉姓から真田姓に復しています。
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<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
お江 [総集編] その11 「残された姉妹の最後」
『お江の子どもたちが歩んだ苦悩の道のり』
淀殿の死後、2人の妹は、徳川家の天下のもとで生きつづけた。
お江は、長男の家光を自分の手で育てられず、しかも病弱で口数も少なかったため、自分の手で育てた
次男の忠長を溺愛。忠長が将軍の座に就くことを願ったという。
夫の秀忠もまた、妻の影響を受け、忠長を後継者にしようとしていたが、家康の鶴の一声により、次期
将軍は長男の家光と決した。
家光は、廃嫡の危機を免れたものの、両親への不信感と弟への猜疑心は消えることはなかった。
お江が産んだ女子は、長女千姫が豊臣家に嫁いだのをはじめ、次女は前田家、3女は越前松平家、4女
は京極家にと嫁いでおり、いわば政略結婚の道具として利用される運命にあった。
家康は、摂関家や平清盛のように、天皇家へ徳川家の血を引く娘を送り込むチャンスを狙い続けており、
その大役を果たすことになったのが5女の和子だった。
慶長15年には、和子と後水尾天皇との婚約が成立し、1616年6月、14歳になった和子は入内して後水
尾天皇の后(きさき)となった。
和子は、後水尾天皇との間に2男5女をもうけるも、皇子は早世しており、無事に育ったのは2人の内親
王だけだった。
1629年、興子内親王が7歳で明正天皇として即位。秀忠は自分の孫を帝位につけることができた。
しかし、即位後の女帝は配偶者をもてないという不文律により、徳川家の血筋を天皇家に伝える悲願は
叶えられなかった。
お江のお墓
*お江の墓所訪問記は、「こちら」と「こちら」です。

お江が波瀾の生涯を閉じたのは1626年9月15日であった。
お江は、異状に嫉妬心が深く、夫・秀忠が側室を持つことを許さず、妊娠した側室に堕胎させたともいう。
家康が数多くの側室を従え、子宝に恵まれたことは、徳川家の天下の安定に大きく貢献している。そう考
えれば、秀忠も多く側室を持つべきであっただろうが、彼女は許さなかったとされる。
しかし、秀忠が側室を持たなかったことは、すべての原因が彼女の嫉妬深さに起因するとも思われない。
徳川家の天下を確実にするためには、後継者の優先順位は厳然として守られるべきであり、そのために
は、将軍が無造作に側室を設けることは避けるべきであった。そういう事情のあり、秀忠は公的には側室
を持たなかったと思われます。
また、秀忠は、妻を恐れたというよりも、自分に嫁ぐまで、さまざまな辛い経験をした妻を思いやる心が強か
ったのではないでしょうか。
1633年8月27日、次女お初が江戸で病没。享年64歳。
3姉妹のなかでは、比較的平穏な人生を送り、そして最も長寿を保った。
お初の死により、浅井3姉妹の歴史は終幕を迎えます。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 福島正則
福島正則は、母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に
仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る
という大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられてい
ます。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
淀殿の死後、2人の妹は、徳川家の天下のもとで生きつづけた。
お江は、長男の家光を自分の手で育てられず、しかも病弱で口数も少なかったため、自分の手で育てた
次男の忠長を溺愛。忠長が将軍の座に就くことを願ったという。
夫の秀忠もまた、妻の影響を受け、忠長を後継者にしようとしていたが、家康の鶴の一声により、次期
将軍は長男の家光と決した。
家光は、廃嫡の危機を免れたものの、両親への不信感と弟への猜疑心は消えることはなかった。
お江が産んだ女子は、長女千姫が豊臣家に嫁いだのをはじめ、次女は前田家、3女は越前松平家、4女
は京極家にと嫁いでおり、いわば政略結婚の道具として利用される運命にあった。
家康は、摂関家や平清盛のように、天皇家へ徳川家の血を引く娘を送り込むチャンスを狙い続けており、
その大役を果たすことになったのが5女の和子だった。
慶長15年には、和子と後水尾天皇との婚約が成立し、1616年6月、14歳になった和子は入内して後水
尾天皇の后(きさき)となった。
和子は、後水尾天皇との間に2男5女をもうけるも、皇子は早世しており、無事に育ったのは2人の内親
王だけだった。
1629年、興子内親王が7歳で明正天皇として即位。秀忠は自分の孫を帝位につけることができた。
しかし、即位後の女帝は配偶者をもてないという不文律により、徳川家の血筋を天皇家に伝える悲願は
叶えられなかった。
お江のお墓
*お江の墓所訪問記は、「こちら」と「こちら」です。

お江が波瀾の生涯を閉じたのは1626年9月15日であった。
お江は、異状に嫉妬心が深く、夫・秀忠が側室を持つことを許さず、妊娠した側室に堕胎させたともいう。
家康が数多くの側室を従え、子宝に恵まれたことは、徳川家の天下の安定に大きく貢献している。そう考
えれば、秀忠も多く側室を持つべきであっただろうが、彼女は許さなかったとされる。
しかし、秀忠が側室を持たなかったことは、すべての原因が彼女の嫉妬深さに起因するとも思われない。
徳川家の天下を確実にするためには、後継者の優先順位は厳然として守られるべきであり、そのために
は、将軍が無造作に側室を設けることは避けるべきであった。そういう事情のあり、秀忠は公的には側室
を持たなかったと思われます。
また、秀忠は、妻を恐れたというよりも、自分に嫁ぐまで、さまざまな辛い経験をした妻を思いやる心が強か
ったのではないでしょうか。
1633年8月27日、次女お初が江戸で病没。享年64歳。
3姉妹のなかでは、比較的平穏な人生を送り、そして最も長寿を保った。
お初の死により、浅井3姉妹の歴史は終幕を迎えます。

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昨日の正解: 福島正則
福島正則は、母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に
仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る
という大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられてい
ます。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
お江 [総集編] その10 「大坂城落城」
『妹たちの願いむなしく淀殿は自害』
淀殿が徳川家の天下を認め、わが子・秀頼が徳川家の臣下として仕えるようにし向けていたのなら、
大坂の陣は勃発しなかったのかも知れない。
だが、淀殿は徳川家の風下に立つことはなく、滅亡の道を選択することとなる。
お江は、姉の淀殿と、婚家である徳川との決裂に心を痛めたものの、2代将軍の妻という立場にある
以上、江戸城から動くことは出来なかった。
その点、夫・高次の死後、出家して常高院と名乗っていたお初は、我が身の危険を顧みず、徳川家と
豊臣家との決裂を防ごうとしている。お初にしてみれば、姉が陥落寸前の大津城へ使者を送ったこと
により、命を救われた恩に報いたかったのでしょう。
だが、結果として彼女の努力は報われなかった。
淀殿・秀頼らの自害の碑

1614年12月、大坂の陣が膠着事態に陥ると、お初は自ら使者として大坂城へ移り、姉の淀殿に講和を
結ぶように働きかけた。
講和が締結されても、お初は大坂城に止まり、大坂夏の陣に巻き込まれてしまう。
この頃、3姉妹には従兄弟にあたる織田信雄(信長の2男)や、叔父の有楽斎(信長の弟)も大坂城に
いた。
彼らもまた、調停役のような顔をして淀殿に取り入っていたが、その役割は徳川家から送り込まれた
スパイ程度に過ぎない。
そのため、この2人は大坂夏の陣が勃発すると大坂城から退散している。
淀殿は、大坂城陥落の危機が迫ると、姪である千姫を道連れにはせず、徳川家に戻るように命じた。
千姫は、父・秀忠と祖父・家康に対して、淀殿と秀頼の助命を嘆願。
家康は、処置を秀忠に一任したが、秀忠は娘の願いを拒絶。その結果、1615年6月8日、淀殿・秀頼
母子は自害へと追い込まれた。
この千姫をめぐる流れで、淀殿は千姫を道連れにしようとしたと説かれることもあります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 徳川家康に内通している疑惑を持たれた
千利休の死罪の原因は、その他にも「天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石など
に使った」、「秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、拒否したため秀吉に恨まれた」、
「交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれた」など
多く言われています。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
淀殿が徳川家の天下を認め、わが子・秀頼が徳川家の臣下として仕えるようにし向けていたのなら、
大坂の陣は勃発しなかったのかも知れない。
だが、淀殿は徳川家の風下に立つことはなく、滅亡の道を選択することとなる。
お江は、姉の淀殿と、婚家である徳川との決裂に心を痛めたものの、2代将軍の妻という立場にある
以上、江戸城から動くことは出来なかった。
その点、夫・高次の死後、出家して常高院と名乗っていたお初は、我が身の危険を顧みず、徳川家と
豊臣家との決裂を防ごうとしている。お初にしてみれば、姉が陥落寸前の大津城へ使者を送ったこと
により、命を救われた恩に報いたかったのでしょう。
だが、結果として彼女の努力は報われなかった。
淀殿・秀頼らの自害の碑

1614年12月、大坂の陣が膠着事態に陥ると、お初は自ら使者として大坂城へ移り、姉の淀殿に講和を
結ぶように働きかけた。
講和が締結されても、お初は大坂城に止まり、大坂夏の陣に巻き込まれてしまう。
この頃、3姉妹には従兄弟にあたる織田信雄(信長の2男)や、叔父の有楽斎(信長の弟)も大坂城に
いた。
彼らもまた、調停役のような顔をして淀殿に取り入っていたが、その役割は徳川家から送り込まれた
スパイ程度に過ぎない。
そのため、この2人は大坂夏の陣が勃発すると大坂城から退散している。
淀殿は、大坂城陥落の危機が迫ると、姪である千姫を道連れにはせず、徳川家に戻るように命じた。
千姫は、父・秀忠と祖父・家康に対して、淀殿と秀頼の助命を嘆願。
家康は、処置を秀忠に一任したが、秀忠は娘の願いを拒絶。その結果、1615年6月8日、淀殿・秀頼
母子は自害へと追い込まれた。
この千姫をめぐる流れで、淀殿は千姫を道連れにしようとしたと説かれることもあります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 徳川家康に内通している疑惑を持たれた
千利休の死罪の原因は、その他にも「天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢や庭石など
に使った」、「秀吉が利休の娘を妾にと望んだが、拒否したため秀吉に恨まれた」、
「交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれた」など
多く言われています。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
お江 [総集編] その9 「千姫輿入れ」
『淀殿による千姫いびりは史実なのか?』
関が原合戦後、徳川家康が事実上の天下人になるとともに、お江も次期天下人の妻に昇格。
お江は、長女の千姫を1597年に出産後、1599年には次女、1600年には3女を出産し、1603年には3女
を懐妊中にもかかわらず、長女・千姫と秀頼との婚儀に立ち会うために上洛。7月28日、大坂城内で11歳
の秀頼と7歳の婚儀が挙行された。
その後、お江は伏見城内で4女・初姫を出産。初姫は姉のお初に養女として引き取られた。
お初は、夫・高次との間に子が恵まれなかったことから、お初は妹のお江に対し、もう一人女子が生まれた
ら養女にする約束を交わしていたので、お初の願い通りに引き取られたのです。
秀忠とお江は、政略結婚で結ばれながらも、この時点で4人の子に恵まれており、夫婦仲は良かったと思
われます。ただ、すべてが女子だったことは、夫の秀忠や舅の家康の期待に沿うことは出来なかったが、
1604年には待望の男子を授かります。
後の3代将軍・家光の誕生です。
淀殿(1569-1615年)

淀殿は、お江が無事に男児を出産したことを喜ぶ手紙を知人に送っています。このことからも3姉妹は、それ
ぞれ異なる立場にありながら、血縁者としての絆を保ち続けていることが伺えます。
一般的には、淀殿は徳川家から嫁いだ千姫を憎み、姑として陰湿ないじめを繰返したとイメージされるが、
淀殿は豊臣家を滅亡へと追い込んだ張本人として悪女役を演じさせられている傾向が強い。
淀殿にとり、千姫は豊臣家の天下を奪い取った憎き家康の孫である前に、数少ない身内であるお江の子
だった。
小谷城陥落以来、戦国乱世の翻弄された少女時代を送った淀殿であれば、実家を離れて大坂城で暮らさ
なければならなくなった姪の心細さを理解できたと思われます。
浅井3姉妹は、戦国乱世に翻弄されながらも、お互いの幸福を願いながら、動乱の時代に必死に生き続け
たのでしょう。
piglet一家のハロウィンは土曜日でした。
明日、写真をアップさせて頂きます。

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東京都立 旧古河庭園「秋のバラフェスティバル」
10月15日~30日まで開催されていますので、29日(土)に行ってきました。
この庭園は大正6年、古河虎之助が経営した大正初期の代表的な庭園です。
洋風庭園は邸主の住居であるルネッサンス風の本館と、それをとりまく方式庭や、花壇、芝生など
からなり、明治から大正初期にかけて作られた東京における代表的庭園です。

<写真はクリックで拡大します>



『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 現在も残っている
家康は豊臣討滅の口実をつくっただけで、現在も京都の街に時を告げる鐘の音を響かせて
います。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
関が原合戦後、徳川家康が事実上の天下人になるとともに、お江も次期天下人の妻に昇格。
お江は、長女の千姫を1597年に出産後、1599年には次女、1600年には3女を出産し、1603年には3女
を懐妊中にもかかわらず、長女・千姫と秀頼との婚儀に立ち会うために上洛。7月28日、大坂城内で11歳
の秀頼と7歳の婚儀が挙行された。
その後、お江は伏見城内で4女・初姫を出産。初姫は姉のお初に養女として引き取られた。
お初は、夫・高次との間に子が恵まれなかったことから、お初は妹のお江に対し、もう一人女子が生まれた
ら養女にする約束を交わしていたので、お初の願い通りに引き取られたのです。
秀忠とお江は、政略結婚で結ばれながらも、この時点で4人の子に恵まれており、夫婦仲は良かったと思
われます。ただ、すべてが女子だったことは、夫の秀忠や舅の家康の期待に沿うことは出来なかったが、
1604年には待望の男子を授かります。
後の3代将軍・家光の誕生です。
淀殿(1569-1615年)

淀殿は、お江が無事に男児を出産したことを喜ぶ手紙を知人に送っています。このことからも3姉妹は、それ
ぞれ異なる立場にありながら、血縁者としての絆を保ち続けていることが伺えます。
一般的には、淀殿は徳川家から嫁いだ千姫を憎み、姑として陰湿ないじめを繰返したとイメージされるが、
淀殿は豊臣家を滅亡へと追い込んだ張本人として悪女役を演じさせられている傾向が強い。
淀殿にとり、千姫は豊臣家の天下を奪い取った憎き家康の孫である前に、数少ない身内であるお江の子
だった。
小谷城陥落以来、戦国乱世の翻弄された少女時代を送った淀殿であれば、実家を離れて大坂城で暮らさ
なければならなくなった姪の心細さを理解できたと思われます。
浅井3姉妹は、戦国乱世に翻弄されながらも、お互いの幸福を願いながら、動乱の時代に必死に生き続け
たのでしょう。
piglet一家のハロウィンは土曜日でした。
明日、写真をアップさせて頂きます。

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東京都立 旧古河庭園「秋のバラフェスティバル」
10月15日~30日まで開催されていますので、29日(土)に行ってきました。
この庭園は大正6年、古河虎之助が経営した大正初期の代表的な庭園です。
洋風庭園は邸主の住居であるルネッサンス風の本館と、それをとりまく方式庭や、花壇、芝生など
からなり、明治から大正初期にかけて作られた東京における代表的庭園です。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 現在も残っている
家康は豊臣討滅の口実をつくっただけで、現在も京都の街に時を告げる鐘の音を響かせて
います。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>