宿命の両雄・謙信と信玄 その11「謙信と信玄は尊敬しあっていた!?」
宿命の両雄・謙信と信玄 その11「謙信と信玄は尊敬しあっていた!?」
謙信と信玄は、第4次の戦いの後にも1564年8月、またも川中島で対峙しています。
しかし、これはただにらみ合っただけで、直接の衝突はありません。
この後、武田信玄は都に上って天下を手に収めようとしたが、1573年4月12日、上京の途中、信州伊那
の駒場で亡くなります。享年53歳
武田信玄(1521-1573年)

そして、上杉謙信もまた、その5年後の1578年3月13日49歳で亡くなります。
ともに天下を望みながら、互いに牽制し合い、川中島に疲れ果てて結局は果たせなかった。
謙信と信玄の対決は、地方的なもので日本歴史の大きな流れの上には殆ど影響はなかったといわれます。
しかし、間接的には大きな影響があったと思います。
両雄がお互いを牽制し合わなければ、信玄か謙信が都に攻めあがって日本の歴史は大きく変化したので
しょう。この両雄の前には、信長は決して勝ることは出来なかったでしょうから・・・。
上杉謙信(1530-1578年)

ある作家はこの様に評しています。(作家であるがゆえにかも知れませんが・・・。)
今日でこそ、長篠の合戦も桶狭間の合戦も、文学に取り上げられますけど、現代以前には文学になって
いないのです。
川中島の合戦だけが文学になっています。これはやっぱり美しかったからです。
歴史上の出来事は、文学に出てこないとダメなのです。歴史書に書かれるだけでは影響力がないのです。
優れた文学に書かれれば、有名になり強い影響力を後世に持つようになるのです。民衆は文学を通じて
歴史を知るのであって、歴史学を通じて歴史を知るのではありませ。日本だけでない、どこの国でもそう
なのです。
う~ん。確かに、歴史書ではなく文学で戦国時代を読んでいる自分がいます。
川中島の戦争は古典的に洗練され、2人の戦術が見事なもので「踊りの手を見るような美しさ」があると
言われ、長篠の合戦になると“ただ惨烈なだけ”で、ここが中世の戦争と近世の戦争の違いだといわれ
ます。
最後に逸話を、
信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったそうです。
これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差によるもので、長尾家が関東管領として
上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けた
という。
しかし、謙信と信玄は、度重なる合戦をしても互いに致命的となるダメージを与えることはなかった。
また、信玄は勝頼への遺言では「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残
したといいます。
この熟成した2人の関係は、語らずともお互いに信頼し合っていたような気がしますが、みなさんは如何
でしょうか。
川中島の戦いを中心に、上杉謙信と武田信玄の宿命の両雄を記事にしましたが、次の機会には謙信と
信玄について、個別に記事にしてみたいと思います。
明日からの戦国武将は、マムシと呼ばれ国を盗った男「斎藤道三」を記事にしてみたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石田三成
忍城攻めは石田三成を大将に、本陣を忍城が一望できる近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)
に置いて、利根川を利用した水攻めを行いますが、堤防が決壊し失敗に終っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
謙信と信玄は、第4次の戦いの後にも1564年8月、またも川中島で対峙しています。
しかし、これはただにらみ合っただけで、直接の衝突はありません。
この後、武田信玄は都に上って天下を手に収めようとしたが、1573年4月12日、上京の途中、信州伊那
の駒場で亡くなります。享年53歳
武田信玄(1521-1573年)

そして、上杉謙信もまた、その5年後の1578年3月13日49歳で亡くなります。
ともに天下を望みながら、互いに牽制し合い、川中島に疲れ果てて結局は果たせなかった。
謙信と信玄の対決は、地方的なもので日本歴史の大きな流れの上には殆ど影響はなかったといわれます。
しかし、間接的には大きな影響があったと思います。
両雄がお互いを牽制し合わなければ、信玄か謙信が都に攻めあがって日本の歴史は大きく変化したので
しょう。この両雄の前には、信長は決して勝ることは出来なかったでしょうから・・・。
上杉謙信(1530-1578年)

ある作家はこの様に評しています。(作家であるがゆえにかも知れませんが・・・。)
今日でこそ、長篠の合戦も桶狭間の合戦も、文学に取り上げられますけど、現代以前には文学になって
いないのです。
川中島の合戦だけが文学になっています。これはやっぱり美しかったからです。
歴史上の出来事は、文学に出てこないとダメなのです。歴史書に書かれるだけでは影響力がないのです。
優れた文学に書かれれば、有名になり強い影響力を後世に持つようになるのです。民衆は文学を通じて
歴史を知るのであって、歴史学を通じて歴史を知るのではありませ。日本だけでない、どこの国でもそう
なのです。
う~ん。確かに、歴史書ではなく文学で戦国時代を読んでいる自分がいます。
川中島の戦争は古典的に洗練され、2人の戦術が見事なもので「踊りの手を見るような美しさ」があると
言われ、長篠の合戦になると“ただ惨烈なだけ”で、ここが中世の戦争と近世の戦争の違いだといわれ
ます。
最後に逸話を、
信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったそうです。
これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差によるもので、長尾家が関東管領として
上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けた
という。
しかし、謙信と信玄は、度重なる合戦をしても互いに致命的となるダメージを与えることはなかった。
また、信玄は勝頼への遺言では「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残
したといいます。
この熟成した2人の関係は、語らずともお互いに信頼し合っていたような気がしますが、みなさんは如何
でしょうか。
川中島の戦いを中心に、上杉謙信と武田信玄の宿命の両雄を記事にしましたが、次の機会には謙信と
信玄について、個別に記事にしてみたいと思います。
明日からの戦国武将は、マムシと呼ばれ国を盗った男「斎藤道三」を記事にしてみたいと思います。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石田三成
忍城攻めは石田三成を大将に、本陣を忍城が一望できる近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)
に置いて、利根川を利用した水攻めを行いますが、堤防が決壊し失敗に終っています。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
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宿命の両雄・謙信と信玄 その10 「勝敗のゆくえ」
宿命の両雄・謙信と信玄 その10 「勝敗のゆくえ」
午前10時を境に信玄は反撃し、優位にたちます。
しかし、武田軍の損害はあまりにも大きかった。信玄の弟で副大将・信繁をはじめとして、隊長級の
名だたる武将が多く討死した。
これに対し、謙信軍は兵卒級の戦死はともかく、名のある武将の討死は伝えられていません。
ともあれ、午後4時頃には戦いは終わって、謙信はなお恨みを残しつつ越後に引き上げ、信玄は深追
いはせず、川中島に止まった。
双方の戦死6千と伝えられています。
上杉謙信(1530-1578年)

この戦いの後、謙信・信玄それぞれが各方面に書き送った手紙が残っています。
それによると、両方とも自分のほうが勝ったと宣伝しています。激戦ではあったが、あまりハッキリ
した決着はつかなかったものらしいです。
ある歴史家は信玄の勝ちとし、またある戦術家は謙信の勝ちとし、さらに両者の損害は大きかったも
のの、決定的な打撃を受けなかったところから、双方引き分けとする説もあります。
2人の戦争は、信玄のほうは別として、謙信のほうはスポーツ的に見ている感がするのは私だけでしょ
うか。
川中島で中世戦術の粋をつくした壮烈な戦いが行われ、日本の歴史に花を添えてくれたので、後世の
私たちが歴史を楽しむことができ、感謝すればいいことなのでしょう。
謙信と信玄は、生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのでは
ないかと言われたりしますが、歴史評論家の「クラチーさん」に、この二人を考察してもらいましょう。
別室にいるクラチーさんは、「こちら」です。

評論家「クラチーさん」の考察の一部です。
『謙信の死因は「大虫」っていうけど、それってサナダムシ(寄生虫)とかじゃないかなぁ、と思うんですよ。』
今回も絶妙なコメントです。お代は無料ですから、詳しくは別室で!!
pigletは善良なドアーフです。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上杉謙信
信玄が今川氏真によって塩止めを受けたとき、氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、
「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、
信玄に塩を送ったという。
この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えら
れています。(「敵に塩を送る」という言葉はここから派生したといわれています。)
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
午前10時を境に信玄は反撃し、優位にたちます。
しかし、武田軍の損害はあまりにも大きかった。信玄の弟で副大将・信繁をはじめとして、隊長級の
名だたる武将が多く討死した。
これに対し、謙信軍は兵卒級の戦死はともかく、名のある武将の討死は伝えられていません。
ともあれ、午後4時頃には戦いは終わって、謙信はなお恨みを残しつつ越後に引き上げ、信玄は深追
いはせず、川中島に止まった。
双方の戦死6千と伝えられています。
上杉謙信(1530-1578年)

この戦いの後、謙信・信玄それぞれが各方面に書き送った手紙が残っています。
それによると、両方とも自分のほうが勝ったと宣伝しています。激戦ではあったが、あまりハッキリ
した決着はつかなかったものらしいです。
ある歴史家は信玄の勝ちとし、またある戦術家は謙信の勝ちとし、さらに両者の損害は大きかったも
のの、決定的な打撃を受けなかったところから、双方引き分けとする説もあります。
2人の戦争は、信玄のほうは別として、謙信のほうはスポーツ的に見ている感がするのは私だけでしょ
うか。
川中島で中世戦術の粋をつくした壮烈な戦いが行われ、日本の歴史に花を添えてくれたので、後世の
私たちが歴史を楽しむことができ、感謝すればいいことなのでしょう。
謙信と信玄は、生涯にわたる因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのでは
ないかと言われたりしますが、歴史評論家の「クラチーさん」に、この二人を考察してもらいましょう。
別室にいるクラチーさんは、「こちら」です。

評論家「クラチーさん」の考察の一部です。
『謙信の死因は「大虫」っていうけど、それってサナダムシ(寄生虫)とかじゃないかなぁ、と思うんですよ。』
今回も絶妙なコメントです。お代は無料ですから、詳しくは別室で!!
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上杉謙信
信玄が今川氏真によって塩止めを受けたとき、氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、
「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、
信玄に塩を送ったという。
この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えら
れています。(「敵に塩を送る」という言葉はここから派生したといわれています。)
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
宿命の両雄・謙信と信玄 その9 「キツツキ作戦」
宿命の両雄・謙信と信玄 その9 「キツツキ作戦」
両雄はにらみ合ったまま、10日余りも動かなかった。この間に信玄は世にいうキツツキ作戦を立て
ます。
妻女山

まず、手持ちの軍勢を二手に分け、一方で妻女山の謙信に夜討ちをかける。謙信はこの夜討ちに勝
っても負けても、必ず山を下り川中島を通って越後に引き揚げるに違いない。そこを信玄の本隊が待ち
伏せて襲いかかり、謙信を討ち取ろうという作戦である。
これはあたかもキツツキが、虫のいる穴の反対側をコツコツと突き、驚いた虫が穴から這い出した
ところをパクリと食うのに似ているから、こう名づけられています。
信玄の夜襲部隊は、馬場信春、真田幸隆らの率いる1万2千、待ち構える本隊は信玄以下8千の部隊
であった。
川中島

川中島の平野には千曲川と犀川が流れ、川中島地方は非常に霧が多いところであった。
おそらく謙信の軍にしろ、信玄の軍にしろ、この霧のことは熟知していたでしょうから、明日の天気
が気になったことでしょう。
その濃霧が発生した時をもって両軍の均衡が破れ、この戦いの引き金が引かれています。
信玄は、このチャンスを逃さずキツツキ作戦を発令した。
ところが、謙信はいち早く、この信玄の作戦を読み取っています。
9月9日の真夜中、
謙信は、信玄の夜襲部隊が来る前に、密かに妻女山を下り、雨ノ宮の渡しから千曲川を渡って川中島
に出てしまったのです。
妻女山の上には、旗印をなびかせ、かがり火を焚いて、謙信がまだ山の上にいることを装った。
対岸に渡った謙信は、川中島の真っただ中の八幡原に陣を敷いた。
両軍の間、わずか1㎞余り。
川中島の霧はますます濃く、深く立ちこめていたという。
明けて、9月10日午前6時に霧が晴れ始めた。
と、その朝霧の向こうに、信玄は突如大地をゆるがす馬蹄の響きを聞いた。
信玄は、そこに予期せぬものを見た。
夢にも忘れぬ謙信の旗印、白地に大きく「毘」と「龍」の文字を染め抜いた上杉の軍旗が、ようやく薄れ
始めた朝霧の向こうに、幻を見るかのように迫っていた。
信玄は愕然とした。
信玄の方は、妻女山に遣わした1万2千が、いずれは駆けつけるであろうと考え、もっぱら時を稼ぎ出来
るだけ戦いを長引かせることを考える。
一方の謙信は、ぐずぐずしていれば敵の1万2千が駆けつけてくる。そうなれば数の上では負けるのが
必定だから、早く敵をやっつけなければならない。
川中島の戦い

さほど広くない八幡原に両軍合わせて1万6千の大軍が激突し、すり鉢にゴマでも入れてすり潰すような
勢いで、上杉方は息もつかせず攻めたといいます。
戦いは、初め意表を突いた謙信軍の優勢のうちに展開し、信玄はよく持ちこたえたが、信玄の長男・太郎
義信が受け持つ右翼の陣がまず破られた。
そこを突破口に、謙信の軍は遮二無二(しゃにむに)突撃し、信玄の本陣に迫った。
川中島の戦いの謙信と信玄

この時の逸話があります。
謙信は旗本隊まで投入しておいて、自ら単騎で戦場を迂回して川のほとりで兜を脱いで、それを渕に叩き
込み、白い布を出して面部を包み、行人包みという包み方をしたという。つまり覆面です。
覆面をし非常に長い刀を抜いて、片手で手綱を操って信玄の本陣に切り込んだといいます。
謙信は信玄に切りつけますが、信玄は軍配団扇でそれを受け止める。
この謙信と信玄の一騎打ちは、超有名で戦国時代を語るに欠かせないエピソードとして語り伝えられて
いますが、古来その真相は謎ですが、この戦況を良く象徴しているのだろうと思います。

おっと!! マイクが帰ってきました。
さすが、今日も絶好調のクラチーさんです!!(拍手)
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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 豪勢な食事
謙信の部下は、謙信の食事により出陣の有無を知ったという。
これは、日ごろは倹約に努め質素に過ごす謙信が、戦の前になると飯を山のように炊かせ、
山海の珍味を豊富に並べ、部下将兵に大いに振舞ったためです。
日ごろの倹約ぶりを知る部下たちは、その豪勢な食事に喜び、結束を固くした。
これが客をもてなす「お立ち飯」、「お立ち」として、今なお、新潟や山形の一部に風習
として残っているそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
両雄はにらみ合ったまま、10日余りも動かなかった。この間に信玄は世にいうキツツキ作戦を立て
ます。
妻女山

まず、手持ちの軍勢を二手に分け、一方で妻女山の謙信に夜討ちをかける。謙信はこの夜討ちに勝
っても負けても、必ず山を下り川中島を通って越後に引き揚げるに違いない。そこを信玄の本隊が待ち
伏せて襲いかかり、謙信を討ち取ろうという作戦である。
これはあたかもキツツキが、虫のいる穴の反対側をコツコツと突き、驚いた虫が穴から這い出した
ところをパクリと食うのに似ているから、こう名づけられています。
信玄の夜襲部隊は、馬場信春、真田幸隆らの率いる1万2千、待ち構える本隊は信玄以下8千の部隊
であった。
川中島

川中島の平野には千曲川と犀川が流れ、川中島地方は非常に霧が多いところであった。
おそらく謙信の軍にしろ、信玄の軍にしろ、この霧のことは熟知していたでしょうから、明日の天気
が気になったことでしょう。
その濃霧が発生した時をもって両軍の均衡が破れ、この戦いの引き金が引かれています。
信玄は、このチャンスを逃さずキツツキ作戦を発令した。
ところが、謙信はいち早く、この信玄の作戦を読み取っています。
9月9日の真夜中、
謙信は、信玄の夜襲部隊が来る前に、密かに妻女山を下り、雨ノ宮の渡しから千曲川を渡って川中島
に出てしまったのです。
妻女山の上には、旗印をなびかせ、かがり火を焚いて、謙信がまだ山の上にいることを装った。
対岸に渡った謙信は、川中島の真っただ中の八幡原に陣を敷いた。
両軍の間、わずか1㎞余り。
川中島の霧はますます濃く、深く立ちこめていたという。
明けて、9月10日午前6時に霧が晴れ始めた。
と、その朝霧の向こうに、信玄は突如大地をゆるがす馬蹄の響きを聞いた。
信玄は、そこに予期せぬものを見た。
夢にも忘れぬ謙信の旗印、白地に大きく「毘」と「龍」の文字を染め抜いた上杉の軍旗が、ようやく薄れ
始めた朝霧の向こうに、幻を見るかのように迫っていた。
信玄は愕然とした。
信玄の方は、妻女山に遣わした1万2千が、いずれは駆けつけるであろうと考え、もっぱら時を稼ぎ出来
るだけ戦いを長引かせることを考える。
一方の謙信は、ぐずぐずしていれば敵の1万2千が駆けつけてくる。そうなれば数の上では負けるのが
必定だから、早く敵をやっつけなければならない。
川中島の戦い

さほど広くない八幡原に両軍合わせて1万6千の大軍が激突し、すり鉢にゴマでも入れてすり潰すような
勢いで、上杉方は息もつかせず攻めたといいます。
戦いは、初め意表を突いた謙信軍の優勢のうちに展開し、信玄はよく持ちこたえたが、信玄の長男・太郎
義信が受け持つ右翼の陣がまず破られた。
そこを突破口に、謙信の軍は遮二無二(しゃにむに)突撃し、信玄の本陣に迫った。
川中島の戦いの謙信と信玄

この時の逸話があります。
謙信は旗本隊まで投入しておいて、自ら単騎で戦場を迂回して川のほとりで兜を脱いで、それを渕に叩き
込み、白い布を出して面部を包み、行人包みという包み方をしたという。つまり覆面です。
覆面をし非常に長い刀を抜いて、片手で手綱を操って信玄の本陣に切り込んだといいます。
謙信は信玄に切りつけますが、信玄は軍配団扇でそれを受け止める。
この謙信と信玄の一騎打ちは、超有名で戦国時代を語るに欠かせないエピソードとして語り伝えられて
いますが、古来その真相は謎ですが、この戦況を良く象徴しているのだろうと思います。

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昨日の正解: 豪勢な食事
謙信の部下は、謙信の食事により出陣の有無を知ったという。
これは、日ごろは倹約に努め質素に過ごす謙信が、戦の前になると飯を山のように炊かせ、
山海の珍味を豊富に並べ、部下将兵に大いに振舞ったためです。
日ごろの倹約ぶりを知る部下たちは、その豪勢な食事に喜び、結束を固くした。
これが客をもてなす「お立ち飯」、「お立ち」として、今なお、新潟や山形の一部に風習
として残っているそうです。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
宿命の両雄・謙信と信玄 その8 「川中島の布陣」
宿命の両雄・謙信と信玄 その8 「川中島の布陣」
1561年9月10日、ついに2人の英雄が川中島に相まみえる時がきた。
謙信と信玄は、この9月の決戦まで既に3回にわたって対決していた。
1553年8月、1555年7月、1557年8月、いずれも決定的な戦果を得られないまま、すでに8年に渡る
お互いの遺恨が積み重なっていた。
上杉謙信32歳、武田謙信41歳、いずれも人生の最も充実した時期を迎えていた。
春日山城
写真は平成21年6月20日に撮ったものです。登城記は「こちら」です。

1561年8月14日、謙信は1万3千の大軍を率いて、春日山城(新潟県上越市)を出発し、善光寺平(長
野市)に大荷駄(兵站部)とその援護兵5千を残し、8千の兵を率いて犀川を渡り、一気に川中島を突っ
切って、雨ノ宮の渡しで千曲川を渡り、妻女山に陣を構えた。
一方、この知らせを聞いた信玄は、8月18日直ちに2万に近い大軍を率いて甲府を出発し、すでに築き
あげていた海津城(松代城)に入った。
当時、川中島での上杉と武田の勢力圏は、ほぼ犀川を境に分かれていたといいますから、謙信は敵中
深く入って布陣したことになります。
謙信はこれまで3回も戦っているのに、信玄との合戦においては、いつも勝ったようでもあるし、そうでも
ないようでもあるというような、曖昧な感じなのです。
今度こそは決着の一戦だということで、敵のふところ深く入り死地に身を投じたのでしょうか。
謙信が妻女山にこもり、そして信玄は海津城(松代城)の近くに行って布陣した。
ところが、海津城はむしろ越後に近いし、妻女山は甲府に近いのです。この布陣では相手をやっつけ
ないと、お互いに自分の領地に帰れない訳です。
海津城(松代城)
写真は、平成21年6月20日に撮ったものです。登城記は「こちら」です。

謙信は常に死中活を求める低の冒険家ですが、信玄はソロバンをはじき勝つという計算が出て来なけ
れば戦わなかったといいますから、信玄に賞賛があったのでしょう。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 死因が大虫であった
謙信の死因は「大虫」であった、ということが前提です。大虫とは婦人の血の道を起こす
ということから、婦人の血の道とは更年期障害のことです。
ゆえに謙信の死因は「更年期障害による婦人病の一種」であり、謙信が女性であることの
証明であるということです。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
1561年9月10日、ついに2人の英雄が川中島に相まみえる時がきた。
謙信と信玄は、この9月の決戦まで既に3回にわたって対決していた。
1553年8月、1555年7月、1557年8月、いずれも決定的な戦果を得られないまま、すでに8年に渡る
お互いの遺恨が積み重なっていた。
上杉謙信32歳、武田謙信41歳、いずれも人生の最も充実した時期を迎えていた。
春日山城
写真は平成21年6月20日に撮ったものです。登城記は「こちら」です。

1561年8月14日、謙信は1万3千の大軍を率いて、春日山城(新潟県上越市)を出発し、善光寺平(長
野市)に大荷駄(兵站部)とその援護兵5千を残し、8千の兵を率いて犀川を渡り、一気に川中島を突っ
切って、雨ノ宮の渡しで千曲川を渡り、妻女山に陣を構えた。
一方、この知らせを聞いた信玄は、8月18日直ちに2万に近い大軍を率いて甲府を出発し、すでに築き
あげていた海津城(松代城)に入った。
当時、川中島での上杉と武田の勢力圏は、ほぼ犀川を境に分かれていたといいますから、謙信は敵中
深く入って布陣したことになります。
謙信はこれまで3回も戦っているのに、信玄との合戦においては、いつも勝ったようでもあるし、そうでも
ないようでもあるというような、曖昧な感じなのです。
今度こそは決着の一戦だということで、敵のふところ深く入り死地に身を投じたのでしょうか。
謙信が妻女山にこもり、そして信玄は海津城(松代城)の近くに行って布陣した。
ところが、海津城はむしろ越後に近いし、妻女山は甲府に近いのです。この布陣では相手をやっつけ
ないと、お互いに自分の領地に帰れない訳です。
海津城(松代城)
写真は、平成21年6月20日に撮ったものです。登城記は「こちら」です。

謙信は常に死中活を求める低の冒険家ですが、信玄はソロバンをはじき勝つという計算が出て来なけ
れば戦わなかったといいますから、信玄に賞賛があったのでしょう。

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昨日の正解: 死因が大虫であった
謙信の死因は「大虫」であった、ということが前提です。大虫とは婦人の血の道を起こす
ということから、婦人の血の道とは更年期障害のことです。
ゆえに謙信の死因は「更年期障害による婦人病の一種」であり、謙信が女性であることの
証明であるということです。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
宿命の両雄・謙信と信玄 その7 「信玄は欲張り過ぎ!?」
宿命の両雄・謙信と信玄 その7 「信玄は欲張り過ぎ!?」
川中島の合戦の原因となった、こんな話が伝わります。
村上義清などが武田信玄にその領地を奪われて、春日山に来て上杉謙信に助けを求めた時のことです。
その時、謙信が村上らに向かって、「信玄の戦争のしぶりはどうなんだ」と聞いたという。
そうか、彼の戦争は緒戦や2度目の戦争には負けても差し支えない。最後に勝てばいいというやり方な
んだ。
しかし、おれの戦争のやり方は違うんだ。
「最初から、勝って、勝って、勝ちまくらなければならないんだ」
と言ったという。
作られた話くさいですが、信玄の性格と謙信の性格がよく出ている話だと思います。
信玄の居城・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(武田神社)

川中島が北信州の穀倉地帯だからここで行われたと言われますが、大きな一因だったことは間違いない
ことでしょう。
しかし、越後の勢力と甲信の勢力とが衝突するならば、川中島以外にはなかったのではとも思われます。
信越の国境にただ一箇所空いている峡道を、越後の方から信州の方へ来たところが善光寺平、それに
続いて川中島ですから、戦場になるのは必然であったのでしょう。
信玄の利益から見ると、信玄は北信州を緩衝地帯として、そっとしておいた方が良かったのではないで
しょうか。
北信州を奪ったため、謙信と膚を触れ合うことになり、手間のかかる困難な戦争を幾度もしなければなら
なくなり、京都進発も遅れ、ついに定命尽きて無限の恨みを残して死んでしまったのですから。
結果論ではありますが、あまり欲張り過ぎたのかも知れません。
後世の我々としては、川中島合戦という大ドラマを見せて貰って有り難いことですが・・・。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 林泉寺
謙信(虎千代)は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされます。
実父・為景と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたといわれ
ます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
川中島の合戦の原因となった、こんな話が伝わります。
村上義清などが武田信玄にその領地を奪われて、春日山に来て上杉謙信に助けを求めた時のことです。
その時、謙信が村上らに向かって、「信玄の戦争のしぶりはどうなんだ」と聞いたという。
そうか、彼の戦争は緒戦や2度目の戦争には負けても差し支えない。最後に勝てばいいというやり方な
んだ。
しかし、おれの戦争のやり方は違うんだ。
「最初から、勝って、勝って、勝ちまくらなければならないんだ」
と言ったという。
作られた話くさいですが、信玄の性格と謙信の性格がよく出ている話だと思います。
信玄の居城・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)(武田神社)

川中島が北信州の穀倉地帯だからここで行われたと言われますが、大きな一因だったことは間違いない
ことでしょう。
しかし、越後の勢力と甲信の勢力とが衝突するならば、川中島以外にはなかったのではとも思われます。
信越の国境にただ一箇所空いている峡道を、越後の方から信州の方へ来たところが善光寺平、それに
続いて川中島ですから、戦場になるのは必然であったのでしょう。
信玄の利益から見ると、信玄は北信州を緩衝地帯として、そっとしておいた方が良かったのではないで
しょうか。
北信州を奪ったため、謙信と膚を触れ合うことになり、手間のかかる困難な戦争を幾度もしなければなら
なくなり、京都進発も遅れ、ついに定命尽きて無限の恨みを残して死んでしまったのですから。
結果論ではありますが、あまり欲張り過ぎたのかも知れません。
後世の我々としては、川中島合戦という大ドラマを見せて貰って有り難いことですが・・・。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 林泉寺
謙信(虎千代)は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされます。
実父・為景と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたといわれ
ます。
≪本日の問題≫
<参考文献:日本史探訪(角川書店編)>