最後の戦国武将 その49 「晩年の政宗」
最後の戦国武将・伊達政宗 その49 『晩年の政宗』
よく聞く言葉として、戦う政宗は好きだけど、戦わなくなった政宗はあまり好きではない。
1616年以降は、野心に満ち、野望に萌えた政宗の姿が見られなくなったからでしょう。
みなさんは、如何でしょうか?
伊達政宗(1567-1636年)

娘婿・忠輝が改易によって、政宗はガックリきたのでしょう。
その後は、これといった政治的な動きは見られません。
むしろ、伊達家の存続を図ることに奔走しています。
1617年、政宗の嫡男・忠宗が将軍・秀忠の養女である振姫と結婚している。
この振姫は、池田輝政の娘であるが、忠宗に嫁ぐにあたり、秀忠の養女ということにしたものです。
それだけに、将軍家としても政宗を自家薬籠中のものにしておきたかったし、政宗にしても伊達家の存続
のためには将軍家と縁を結んで置くことが得策であったのでしょう。
1627年、政宗は仙台城下はずれの若林に屋敷を建て、ふだんはそこに居住するようになった。
事実上の隠居所であるが、政宗はまだ家督を忠宗に譲ってはおらず、まだ隠居の身ではなかった。
没したのは1636年、江戸の桜田屋敷であった。享年70歳。
伊達政宗墓所・瑞鳳殿

「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったそうです。
遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前その
ままの大名行列により仙台へ戻ったそうです。
殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」
という政宗の考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられています。
仙台市経ヶ峰にある政宗の廟は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃(ねはん)門などからなる桃山様式
であったが、昭和20年の空襲で焼失し、現在あるのは昭和54年に再建されたものです。
長きに渡り、伊達政宗におつき合い頂きありがとうございました。
明日からは、文武両道の達人と言われながら、40歳の若さでこの世を去った「不運の武将・蒲生氏郷」を
記事にしてみたいと思います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 私も家康公の首を狙ったことがある
家光が鷹狩に没頭し、外泊を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、
政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と
家光を説得、以後、外泊を行わなくなったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
よく聞く言葉として、戦う政宗は好きだけど、戦わなくなった政宗はあまり好きではない。
1616年以降は、野心に満ち、野望に萌えた政宗の姿が見られなくなったからでしょう。
みなさんは、如何でしょうか?
伊達政宗(1567-1636年)

娘婿・忠輝が改易によって、政宗はガックリきたのでしょう。
その後は、これといった政治的な動きは見られません。
むしろ、伊達家の存続を図ることに奔走しています。
1617年、政宗の嫡男・忠宗が将軍・秀忠の養女である振姫と結婚している。
この振姫は、池田輝政の娘であるが、忠宗に嫁ぐにあたり、秀忠の養女ということにしたものです。
それだけに、将軍家としても政宗を自家薬籠中のものにしておきたかったし、政宗にしても伊達家の存続
のためには将軍家と縁を結んで置くことが得策であったのでしょう。
1627年、政宗は仙台城下はずれの若林に屋敷を建て、ふだんはそこに居住するようになった。
事実上の隠居所であるが、政宗はまだ家督を忠宗に譲ってはおらず、まだ隠居の身ではなかった。
没したのは1636年、江戸の桜田屋敷であった。享年70歳。
伊達政宗墓所・瑞鳳殿

「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったそうです。
遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前その
ままの大名行列により仙台へ戻ったそうです。
殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」
という政宗の考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられています。
仙台市経ヶ峰にある政宗の廟は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃(ねはん)門などからなる桃山様式
であったが、昭和20年の空襲で焼失し、現在あるのは昭和54年に再建されたものです。
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昨日の正解: 私も家康公の首を狙ったことがある
家光が鷹狩に没頭し、外泊を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、
政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と
家光を説得、以後、外泊を行わなくなったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
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最後の戦国武将 その48 「娘婿・忠輝の改易」
最後の戦国武将・伊達政宗 その48 『娘婿・忠輝の改易』
家康が死んで2ヵ月余りたった8月6日、松平忠輝は改易処分を受け、所領を没収され、伊勢国朝熊に
流された。
忠輝が改易された高田城
天下普請によって築城され、城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗が担当しています。

理由は、
大坂夏の陣において、味方が必死に戦っていたにも関わらず、戦いに加わらなかったというもので
あった。
忠輝が、
「これは政宗が動くなといったからである」
と抗弁したかどうかはわからないが、事実として忠輝の責任はなかった。
しかし、それが理由の一つに挙げられているのです。
その他にも理由を付けていますが、これらはあくまで忠輝を改易にするための理由であったのでしょう。
秀忠の本心は、
「忠輝をそのままにしておけば、政宗と結びつき、幕府を倒す陰謀を起しかねない」
と判断したのではないのでしょうか。
また、幕府政治の安泰にとって“危険分子”との烙印を押された。
というだったのでしょう。
忠輝は、その後、朝倉から飛騨高山に移され、さらに1624年には信州上諏訪に移され、1683年に没して
います。
忠輝が改易になったあと、妻の五郎八姫は父・政宗に引き取られ、暫くは江戸屋敷で生活をしていたが、
1620年に仙台に戻り、やがて落飾し天麟院と号しています。
長くおつき合い頂きました、伊達政宗も明日が最終回になります。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大御所政治
家康は1607年には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として
実権を掌握し続けましたが、このことを大御所政治といいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
家康が死んで2ヵ月余りたった8月6日、松平忠輝は改易処分を受け、所領を没収され、伊勢国朝熊に
流された。
忠輝が改易された高田城
天下普請によって築城され、城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗が担当しています。

理由は、
大坂夏の陣において、味方が必死に戦っていたにも関わらず、戦いに加わらなかったというもので
あった。
忠輝が、
「これは政宗が動くなといったからである」
と抗弁したかどうかはわからないが、事実として忠輝の責任はなかった。
しかし、それが理由の一つに挙げられているのです。
その他にも理由を付けていますが、これらはあくまで忠輝を改易にするための理由であったのでしょう。
秀忠の本心は、
「忠輝をそのままにしておけば、政宗と結びつき、幕府を倒す陰謀を起しかねない」
と判断したのではないのでしょうか。
また、幕府政治の安泰にとって“危険分子”との烙印を押された。
というだったのでしょう。
忠輝は、その後、朝倉から飛騨高山に移され、さらに1624年には信州上諏訪に移され、1683年に没して
います。
忠輝が改易になったあと、妻の五郎八姫は父・政宗に引き取られ、暫くは江戸屋敷で生活をしていたが、
1620年に仙台に戻り、やがて落飾し天麟院と号しています。
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昨日の正解: 大御所政治
家康は1607年には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として
実権を掌握し続けましたが、このことを大御所政治といいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
最後の戦国武将 その47 「政宗謀叛の噂」
最後の戦国武将・伊達政宗 その47 『政宗謀叛の噂』
1616年2月27日、家康は駿府城から田中(静岡県藤枝市)に出かけ鷹狩りを楽しみ、その夜は田中城
に泊まった。
この田中城に京都からご機嫌伺いに来ていて、茶屋四郎次郎に榧(かや)の油であげた鯛の天ぷらを
勧められ、つい食べ過ぎて夜中に腹痛を訴えたという。
「家康、発病!」
が、またたく間に諸国に広まり、急報を受けた秀忠は、3月8日に江戸を出発し、翌9日には駿府に駆け
つけ家康を見舞っている。
「政宗謀叛」
の噂が飛び交ったのもこの頃であった。
その内容は、大坂の陣の論功行賞に不満を持った松平忠輝が家康と対立し、まさに一触即発の状態で、
しかも、忠輝の背後には政宗がついていたというものである。
「家康、発病!」と「政宗、謀叛!」
の風説があたかも表裏をなすかのように津々浦々を電波のように駆け抜けたという。
では、政宗の謀叛の噂は、どの程度の信憑性があったものだったのか。
駿府城と家康像

だいぶ後のことになりますが、1628年4月、政宗が前将軍・秀忠を江戸屋敷に招待したとこのことです。
政宗自ら善を持って秀忠のところに持っていったとき、若年寄の侍が「毒味を」と言った。
それに対する政宗の答えが、
「将軍家を殺そうと思ったのは、もう10年も昔のことだ。その時だって、毒などで殺そうとは思わなかった。
馬を乗り寄せて戦いで殺そうと思ったのだ」
といったという。
このやり取りを聞くだけでも、天下に挑戦し続けた男の執念を感じます。
しかし、結局、政宗は謀叛を起さなかった。
政宗は、駿府城を訪れ、病床の家康を見舞い、家康も政宗に後のことを頼んだという。
この構図は、1598年の秀吉の死の直前と似ていますが、秀吉の場合は秀頼がまだ幼く、家康の時は
既に秀忠が立派な2代将軍になっていたのです。
政宗も、自分が秀吉臨終の時の家康の立場になれないことは十分理解していたのでしょう。
涼しくなりましたので、外出もできるようになりました!

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 朝倉家と信長が不仲であったから
最大の問題は、父・久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だったからといいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
1616年2月27日、家康は駿府城から田中(静岡県藤枝市)に出かけ鷹狩りを楽しみ、その夜は田中城
に泊まった。
この田中城に京都からご機嫌伺いに来ていて、茶屋四郎次郎に榧(かや)の油であげた鯛の天ぷらを
勧められ、つい食べ過ぎて夜中に腹痛を訴えたという。
「家康、発病!」
が、またたく間に諸国に広まり、急報を受けた秀忠は、3月8日に江戸を出発し、翌9日には駿府に駆け
つけ家康を見舞っている。
「政宗謀叛」
の噂が飛び交ったのもこの頃であった。
その内容は、大坂の陣の論功行賞に不満を持った松平忠輝が家康と対立し、まさに一触即発の状態で、
しかも、忠輝の背後には政宗がついていたというものである。
「家康、発病!」と「政宗、謀叛!」
の風説があたかも表裏をなすかのように津々浦々を電波のように駆け抜けたという。
では、政宗の謀叛の噂は、どの程度の信憑性があったものだったのか。
駿府城と家康像


だいぶ後のことになりますが、1628年4月、政宗が前将軍・秀忠を江戸屋敷に招待したとこのことです。
政宗自ら善を持って秀忠のところに持っていったとき、若年寄の侍が「毒味を」と言った。
それに対する政宗の答えが、
「将軍家を殺そうと思ったのは、もう10年も昔のことだ。その時だって、毒などで殺そうとは思わなかった。
馬を乗り寄せて戦いで殺そうと思ったのだ」
といったという。
このやり取りを聞くだけでも、天下に挑戦し続けた男の執念を感じます。
しかし、結局、政宗は謀叛を起さなかった。
政宗は、駿府城を訪れ、病床の家康を見舞い、家康も政宗に後のことを頼んだという。
この構図は、1598年の秀吉の死の直前と似ていますが、秀吉の場合は秀頼がまだ幼く、家康の時は
既に秀忠が立派な2代将軍になっていたのです。
政宗も、自分が秀吉臨終の時の家康の立場になれないことは十分理解していたのでしょう。
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 朝倉家と信長が不仲であったから
最大の問題は、父・久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だったからといいます。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
最後の戦国武将 その46 「大坂夏の陣」
最後の戦国武将・伊達政宗 その46 『大坂夏の陣』
家康が大坂再討命令を出したのが、5月10日です。
政宗は直ぐ準備を整えて、5月13日に江戸を発ち、再び大坂に向います。
5月31日の軍評定で、政宗は先の冬の陣の時と同じく大和口から大坂城を攻める手はずとなった。
実際の戦いとなったのは6月9日からで、西軍の後藤基次・真田幸村(信繁)らが道明寺まで進出し、そこ
で東軍と衝突する。
これが道明寺の戦いと呼ばれ、夏の陣のなかでも最も激戦であったといわれます。
馬上武者620騎余、鉄砲3400挺余、槍1300本余、弓100張、およそ1万5千の伊達軍もこの戦いで奮戦
しています。
特に、伊達軍の先鋒・片倉小十郎重綱の働きは目覚しいものがあり、後藤基次隊を打ち破っています。
この小十郎重綱は、政宗の股肱の臣・片倉景綱の子です。戦いは既に子供の代になっていたのです。
大坂夏の陣の布陣図

<クリックで拡大します>
政宗は真田幸村とも戦っていますが、この戦いで妙なことが起こったといいます。
政宗とほぼ同じ位置にいた松平忠輝が、疲れきっている伊達軍苦戦の様子をみて、
「交代しよう」と申し出たのに対して、
政宗は、
「今、前に出ては危ない」と押しとどめたという。
この時、忠輝が戦いに加わらず、いわば「高見の見物」していたことが、後に忠輝改易の一つの理由と
言われます。
この政宗の対応には、次の2つが考えられます。
一つは、忠輝は最愛の娘・五郎八姫の夫であり、命を落とす危険な戦いに出させなかった政宗の親心
だったとする解釈。
もう一つは、政宗が真田幸村との戦功を一人占めしたかったのではないかという解釈です。
幸村は1590年の小田原征伐の初陣以来、上田城の戦いなどで徳川軍を悩ましたこともあり、大阪の
陣では西軍のスター的存在であった。
しかも、政宗とは年齢も近く(幸村が2歳下、同じ説も)、政宗としてみれば、生涯最後の敵として幸村
は相手にとって不足なしと考えていたのかも知れません。
その一方において、政宗はこの大坂の陣において、それまでの戦功をふいにしてしまうような失態を
したという。
味方撃ちです。
東軍の水野勝成隊に西軍の明石全登隊が押し寄せて来たとき、水野隊の先鋒となって明石隊を押し
戻して一息を入れている神保長三郎(相茂)の部隊に、突然伊達軍から鉄砲が撃ちかけられたという。
神保長三郎率いるおよそ300の兵は、必死になって、
「東軍だ!」、「味方だ!」叫んでみても鉄砲は撃たれ、全滅してしまった。
弁解の余地のない味方撃ちです。
この件についても、政宗は悠然としている。
「神保長三郎の部隊が我々の部隊に崩れかかってきたまでのこと。自軍の前方を侵す者は味方とて敵
である」
と水野勝成の抗議をはねのけている。
「非情」といわれる戦国的論理が政宗の体の中に息づいていたことを伺うことができます。
こうして夏の陣は終わり、秀頼は自刃し、豊臣家は滅亡した。
昨日は、市ヶ谷に仕事で行きましたので、江戸城外堀を散策してきました。
手前の線路は中央線線です。この辺は、桜の名所になっています。


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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 方広寺鐘銘事件
方広寺梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を
分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると
言いがかりをつけた。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
家康が大坂再討命令を出したのが、5月10日です。
政宗は直ぐ準備を整えて、5月13日に江戸を発ち、再び大坂に向います。
5月31日の軍評定で、政宗は先の冬の陣の時と同じく大和口から大坂城を攻める手はずとなった。
実際の戦いとなったのは6月9日からで、西軍の後藤基次・真田幸村(信繁)らが道明寺まで進出し、そこ
で東軍と衝突する。
これが道明寺の戦いと呼ばれ、夏の陣のなかでも最も激戦であったといわれます。
馬上武者620騎余、鉄砲3400挺余、槍1300本余、弓100張、およそ1万5千の伊達軍もこの戦いで奮戦
しています。
特に、伊達軍の先鋒・片倉小十郎重綱の働きは目覚しいものがあり、後藤基次隊を打ち破っています。
この小十郎重綱は、政宗の股肱の臣・片倉景綱の子です。戦いは既に子供の代になっていたのです。
大坂夏の陣の布陣図

<クリックで拡大します>
政宗は真田幸村とも戦っていますが、この戦いで妙なことが起こったといいます。
政宗とほぼ同じ位置にいた松平忠輝が、疲れきっている伊達軍苦戦の様子をみて、
「交代しよう」と申し出たのに対して、
政宗は、
「今、前に出ては危ない」と押しとどめたという。
この時、忠輝が戦いに加わらず、いわば「高見の見物」していたことが、後に忠輝改易の一つの理由と
言われます。
この政宗の対応には、次の2つが考えられます。
一つは、忠輝は最愛の娘・五郎八姫の夫であり、命を落とす危険な戦いに出させなかった政宗の親心
だったとする解釈。
もう一つは、政宗が真田幸村との戦功を一人占めしたかったのではないかという解釈です。
幸村は1590年の小田原征伐の初陣以来、上田城の戦いなどで徳川軍を悩ましたこともあり、大阪の
陣では西軍のスター的存在であった。
しかも、政宗とは年齢も近く(幸村が2歳下、同じ説も)、政宗としてみれば、生涯最後の敵として幸村
は相手にとって不足なしと考えていたのかも知れません。
その一方において、政宗はこの大坂の陣において、それまでの戦功をふいにしてしまうような失態を
したという。
味方撃ちです。
東軍の水野勝成隊に西軍の明石全登隊が押し寄せて来たとき、水野隊の先鋒となって明石隊を押し
戻して一息を入れている神保長三郎(相茂)の部隊に、突然伊達軍から鉄砲が撃ちかけられたという。
神保長三郎率いるおよそ300の兵は、必死になって、
「東軍だ!」、「味方だ!」叫んでみても鉄砲は撃たれ、全滅してしまった。
弁解の余地のない味方撃ちです。
この件についても、政宗は悠然としている。
「神保長三郎の部隊が我々の部隊に崩れかかってきたまでのこと。自軍の前方を侵す者は味方とて敵
である」
と水野勝成の抗議をはねのけている。
「非情」といわれる戦国的論理が政宗の体の中に息づいていたことを伺うことができます。
こうして夏の陣は終わり、秀頼は自刃し、豊臣家は滅亡した。
昨日は、市ヶ谷に仕事で行きましたので、江戸城外堀を散策してきました。
手前の線路は中央線線です。この辺は、桜の名所になっています。



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方広寺梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、「国家安康」は家康の諱を
分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると
言いがかりをつけた。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
最後の戦国武将 その45 「大坂冬の陣」
最後の戦国武将・伊達政宗 その45 『大坂冬の陣』
戦歴の兵、政宗にとって最後の戦いとなったのが大坂の陣です。
政宗は、冬の陣と夏の陣の両方に出陣しています。
家康は、1614年10月に大坂討伐を決意し、諸大名に出陣を命じます。
仙台の政宗にその触れが届いたのが、11月20日。政宗はすぐ1万8千の大軍を率いて11月29日には
江戸に入る。
12月3日に江戸を発ち、12月31日には大坂城外の矢尾川端に陣を張っています。
実際に東西両軍の戦いが始まったのは、政宗が大坂に到着した翌日からで、東軍は緒戦から勝利を
収め、西軍は大坂城に籠城します。
大阪冬の陣・布陣図

<クリックで拡大します>
その後、冬の陣で最大の激戦といわれる今福・鴫野の戦いなどがあったが、伊達軍はこれといった
働きはしていない。
結局、1月30日に講和が成立し、大坂城は二の丸・三の丸を壊し、本丸のみを残すことになっています。
この講和の少し後に、政宗の長男・秀宗が四国の伊予宇和島に10万石を与えられ、初めて大名に取り
立てられています。
これは、家康が関ヶ原の戦いにおいて「100万石のお墨付」を与えておきながら、それを反故にしてしま
った過去に対してのフォローだったのでは、とも言われたりしています。
秀宗は、政宗の長男として生まれながら、母が側室であったため庶子となり、これまで不遇であったが
地位を得ています。
大坂城の堀を埋める作業に従事していた政宗は、2月28日に京都に入り、暫く様子を見たのち江戸に
向っています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 真田幸村(信繁)
1615年大坂夏の陣での、道明寺の戦いでは後藤基次らと戦っています。基次は伊達家
家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したという。
また、道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に
兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされたと
いう。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
戦歴の兵、政宗にとって最後の戦いとなったのが大坂の陣です。
政宗は、冬の陣と夏の陣の両方に出陣しています。
家康は、1614年10月に大坂討伐を決意し、諸大名に出陣を命じます。
仙台の政宗にその触れが届いたのが、11月20日。政宗はすぐ1万8千の大軍を率いて11月29日には
江戸に入る。
12月3日に江戸を発ち、12月31日には大坂城外の矢尾川端に陣を張っています。
実際に東西両軍の戦いが始まったのは、政宗が大坂に到着した翌日からで、東軍は緒戦から勝利を
収め、西軍は大坂城に籠城します。
大阪冬の陣・布陣図

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その後、冬の陣で最大の激戦といわれる今福・鴫野の戦いなどがあったが、伊達軍はこれといった
働きはしていない。
結局、1月30日に講和が成立し、大坂城は二の丸・三の丸を壊し、本丸のみを残すことになっています。
この講和の少し後に、政宗の長男・秀宗が四国の伊予宇和島に10万石を与えられ、初めて大名に取り
立てられています。
これは、家康が関ヶ原の戦いにおいて「100万石のお墨付」を与えておきながら、それを反故にしてしま
った過去に対してのフォローだったのでは、とも言われたりしています。
秀宗は、政宗の長男として生まれながら、母が側室であったため庶子となり、これまで不遇であったが
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1615年大坂夏の陣での、道明寺の戦いでは後藤基次らと戦っています。基次は伊達家
家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したという。
また、道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に
兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされたと
いう。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>