利休の茶の湯の流儀の最大の特徴は?
『利休の茶の湯の流儀の最大の特徴は?』
利休の茶の湯の流儀は、「わび茶」という言葉で表現されています。
利休の流儀の代名詞ともいうべき「わび茶」とは、端的にいえば、それは禅宗と通じるとされ、簡素、静粛
な芸道としての茶の湯のことです。
茶の世界でも必要以上にギャンブル的要素の高い闘茶は影を潜めたものの、唐物の高価な茶道具を見せ
びらかすことに主眼を置いて茶会を開くという傾向は強かった。
このような唐物を強調する茶を、唐物飾り、座敷飾りなどといっていました。
加えて、安土桃山時代に入ると、豊臣秀吉の好みもあって、北野大茶湯のような従来以上に華美で、大規
模かつ政治的・軍事的な要素の強い茶会も頻繁に開かれています。
そういったなかで、利休の茶の湯では、官能的、ギャンブル的要素、華美、あるいは政治的、軍事的な要素
といったものを可能な限り排除し、素朴、小規模で、自然な美や精神が追求された。
この段階で利休は、従来は顧みられていなかった、身近で高価でないもの、素朴、自然で、均整のとれた
茶道具、狭小な茶室を好んで用いています。
わび茶室(兼六園の茶室:夕顔亭)
わび茶で使われる茶室は、一般的に写真のように周りに木や竹を生やし、茶室以外の世界から断絶させる。
通常、他の建造物からも隔離させて建て、建材も自然の状態のまま、塗装などをあまりしないものを多く用い
たそうです。

具体的には、利休は従来からある国産の茶道具を愛用するとともに、陶工の長次郎、彫金家の辻与次郎
を促して茶の湯に適した茶碗、釜を制作させています。
その一方では、自ら竹を伐り出して茶の湯に適した竹茶杓や竹花入れを制作しています。
次に、茶の湯の系譜、流儀という面では、利休は茶人の能阿弥にはじまるという東山流の書院台子の茶
と、同じく茶人の珠光、紹鴎の系譜を引く「わび茶」とを融合させています。
これらを通じて、利休は極めて厳格な茶の湯の流儀、点前(てまえ)を確立し、茶の湯を娯楽から芸道へと
発展させることに成功します。
しかし、天下人である秀吉は、華美で大規模な茶会を好んでいたので、「わび茶」を追求する利休と秀吉の
衝突は避けられなかったと思われます。
利休の没後には、次第に大名茶、道具茶と呼ばれる茶道が主流となり、「わび茶」は衰退を余儀なくされて
います。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 2度目
家康本陣まで攻め込んだあげく、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、
本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、真田隊
の凄まじさに家康は自害を2度も覚悟したほどだったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>
利休の茶の湯の流儀は、「わび茶」という言葉で表現されています。
利休の流儀の代名詞ともいうべき「わび茶」とは、端的にいえば、それは禅宗と通じるとされ、簡素、静粛
な芸道としての茶の湯のことです。
茶の世界でも必要以上にギャンブル的要素の高い闘茶は影を潜めたものの、唐物の高価な茶道具を見せ
びらかすことに主眼を置いて茶会を開くという傾向は強かった。
このような唐物を強調する茶を、唐物飾り、座敷飾りなどといっていました。
加えて、安土桃山時代に入ると、豊臣秀吉の好みもあって、北野大茶湯のような従来以上に華美で、大規
模かつ政治的・軍事的な要素の強い茶会も頻繁に開かれています。
そういったなかで、利休の茶の湯では、官能的、ギャンブル的要素、華美、あるいは政治的、軍事的な要素
といったものを可能な限り排除し、素朴、小規模で、自然な美や精神が追求された。
この段階で利休は、従来は顧みられていなかった、身近で高価でないもの、素朴、自然で、均整のとれた
茶道具、狭小な茶室を好んで用いています。
わび茶室(兼六園の茶室:夕顔亭)
わび茶で使われる茶室は、一般的に写真のように周りに木や竹を生やし、茶室以外の世界から断絶させる。
通常、他の建造物からも隔離させて建て、建材も自然の状態のまま、塗装などをあまりしないものを多く用い
たそうです。

具体的には、利休は従来からある国産の茶道具を愛用するとともに、陶工の長次郎、彫金家の辻与次郎
を促して茶の湯に適した茶碗、釜を制作させています。
その一方では、自ら竹を伐り出して茶の湯に適した竹茶杓や竹花入れを制作しています。
次に、茶の湯の系譜、流儀という面では、利休は茶人の能阿弥にはじまるという東山流の書院台子の茶
と、同じく茶人の珠光、紹鴎の系譜を引く「わび茶」とを融合させています。
これらを通じて、利休は極めて厳格な茶の湯の流儀、点前(てまえ)を確立し、茶の湯を娯楽から芸道へと
発展させることに成功します。
しかし、天下人である秀吉は、華美で大規模な茶会を好んでいたので、「わび茶」を追求する利休と秀吉の
衝突は避けられなかったと思われます。
利休の没後には、次第に大名茶、道具茶と呼ばれる茶道が主流となり、「わび茶」は衰退を余儀なくされて
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昨日の正解: 2度目
家康本陣まで攻め込んだあげく、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、
本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、真田隊
の凄まじさに家康は自害を2度も覚悟したほどだったという。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>
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利休はどういった人物と交遊したのか
「利休はどういった人物と交遊したのか」
利休が師事、交遊した人物には和泉堺の茶人、町人が多く、利休に入門した者はやはり堺の茶人、町人
や戦国武将だったという。
まず、師事、交遊した僧侶には、臨済宗の禅僧、浄土真宗の僧侶などがいて、なかでも利休が長期間師
事し、特に大きな薫陶を受けたのが、南宗寺のゆかりの大林宗套(だいりんそうとう)と古渓宗陳だったと
いいます。
千利休屋敷跡(堺市宿院)

次に、利休が旧弊にこだわらず、優れた茶道具を用いたこともあって、新進気鋭の楽焼、彫金家、塗師な
どと交遊し、また、文化人としては華道、医師、囲碁、鼓打ち等とも幅広く交遊があったとされます。
高弟以外の戦国武将で利休が交遊したのは、前半生は三好義賢、三好政康、松永秀久など畿内の武将
が多く、後半生には浅野長政、池田輝政、宇喜多秀家、黒田如水、小西行長、前田玄以などの豊臣恩顧
の武将とも交遊しています。
また、豊臣恩顧の武将ではないものの、1586年に豊臣秀吉に援軍を求めた豊後の大友宗麟は利休の入
れた茶を喫しています。
奥羽の伊達政宗は、天正18年の小田原征伐に遅参し、秀吉の怒りを招きますが、この時、政宗は前田利
家を介して利休に取り成しを依頼し、ようやく秀吉に目通りを許されたといいます。
さらに薩摩の島津家の重臣・伊集院忠棟は、利休からの和平勧告の書状を受取っています。
以上のように、保身を目的として、利休の門を叩たり、近づいて来た武将も少なくなかったようです。
最近、pigletの日課となっている通路の散歩です。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: これは味噌だ
三方ヶ原の戦いで敗走中の家康は恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した。家臣から
脱糞した旨を咎められるが「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話があります。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生薯)>
利休が師事、交遊した人物には和泉堺の茶人、町人が多く、利休に入門した者はやはり堺の茶人、町人
や戦国武将だったという。
まず、師事、交遊した僧侶には、臨済宗の禅僧、浄土真宗の僧侶などがいて、なかでも利休が長期間師
事し、特に大きな薫陶を受けたのが、南宗寺のゆかりの大林宗套(だいりんそうとう)と古渓宗陳だったと
いいます。
千利休屋敷跡(堺市宿院)

次に、利休が旧弊にこだわらず、優れた茶道具を用いたこともあって、新進気鋭の楽焼、彫金家、塗師な
どと交遊し、また、文化人としては華道、医師、囲碁、鼓打ち等とも幅広く交遊があったとされます。
高弟以外の戦国武将で利休が交遊したのは、前半生は三好義賢、三好政康、松永秀久など畿内の武将
が多く、後半生には浅野長政、池田輝政、宇喜多秀家、黒田如水、小西行長、前田玄以などの豊臣恩顧
の武将とも交遊しています。
また、豊臣恩顧の武将ではないものの、1586年に豊臣秀吉に援軍を求めた豊後の大友宗麟は利休の入
れた茶を喫しています。
奥羽の伊達政宗は、天正18年の小田原征伐に遅参し、秀吉の怒りを招きますが、この時、政宗は前田利
家を介して利休に取り成しを依頼し、ようやく秀吉に目通りを許されたといいます。
さらに薩摩の島津家の重臣・伊集院忠棟は、利休からの和平勧告の書状を受取っています。
以上のように、保身を目的として、利休の門を叩たり、近づいて来た武将も少なくなかったようです。
最近、pigletの日課となっている通路の散歩です。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: これは味噌だ
三方ヶ原の戦いで敗走中の家康は恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した。家臣から
脱糞した旨を咎められるが「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話があります。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生薯)>
利休が残した業績にはどんなものがあるのか
「利休が残した業績にはどんなものがあるのか」
利休は70年の生涯のなかで、さまざまな業績を残しています。
最大の業績は侘び茶を大成し、茶の湯を娯楽から芸道へ高めたことでしょう。
利休が茶人となった当時、茶の世界では唐物の高価な茶道具をみせびらかす、華美で娯楽的要素の強
い茶会が主流でした。
茶人・武野紹鴎に従事した利休は、進んで国産の茶道具、狭小な茶室などを用い、質素で簡便な侘び茶
を追求し、これを完成させます。
この段階で利休は、自ら竹を用いて竹茶杓、竹花入などを制作するとともに、陶工の長次郎、彫金家の辻
与次郎らに国産の茶碗、釜の制作を命じます。
この結果、従来にはない優れた形状、色彩の茶道具が生まれることになります。
茶人としての名声が高まると、町人や武将などのなかに利休の門を叩く者が相次ぐことになります。
蒲生氏郷、細川忠興、高山右近などの戦国武将にも名高い茶人が生まれています。
大友宗麟(1530-1587年)

人材登用には天才的な才能を有していた秀吉が、利休の秘めたる才能を見落とす筈はありません。
茶頭として茶会の開催を委ねる一方で、利休に豊臣政権の軍師、補佐役としての職務を任せます。
天正年間(1573~1591年)の半ばに利休に会った大友宗麟は、豊臣政権の軍師、補佐役として活躍す
る利休の姿に驚嘆したといいます。
特に、秀吉の九州征伐では、薩摩の島津家への降伏勧告に関わるなど、利休が秀吉による天下統一に
業績を残したことも判明しています。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 尼子経久
典型的な城盗りの物語として、織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取
などがありますが、どこまで真実かは分かりません。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>
利休は70年の生涯のなかで、さまざまな業績を残しています。
最大の業績は侘び茶を大成し、茶の湯を娯楽から芸道へ高めたことでしょう。
利休が茶人となった当時、茶の世界では唐物の高価な茶道具をみせびらかす、華美で娯楽的要素の強
い茶会が主流でした。
茶人・武野紹鴎に従事した利休は、進んで国産の茶道具、狭小な茶室などを用い、質素で簡便な侘び茶
を追求し、これを完成させます。
この段階で利休は、自ら竹を用いて竹茶杓、竹花入などを制作するとともに、陶工の長次郎、彫金家の辻
与次郎らに国産の茶碗、釜の制作を命じます。
この結果、従来にはない優れた形状、色彩の茶道具が生まれることになります。
茶人としての名声が高まると、町人や武将などのなかに利休の門を叩く者が相次ぐことになります。
蒲生氏郷、細川忠興、高山右近などの戦国武将にも名高い茶人が生まれています。
大友宗麟(1530-1587年)

人材登用には天才的な才能を有していた秀吉が、利休の秘めたる才能を見落とす筈はありません。
茶頭として茶会の開催を委ねる一方で、利休に豊臣政権の軍師、補佐役としての職務を任せます。
天正年間(1573~1591年)の半ばに利休に会った大友宗麟は、豊臣政権の軍師、補佐役として活躍す
る利休の姿に驚嘆したといいます。
特に、秀吉の九州征伐では、薩摩の島津家への降伏勧告に関わるなど、利休が秀吉による天下統一に
業績を残したことも判明しています。

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 尼子経久
典型的な城盗りの物語として、織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取
などがありますが、どこまで真実かは分かりません。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>
利休が生きた時代はどんな時代だったのか?
利休が生きた時代はどんな時代だったのか?
利休は1522年に泉堺で生まれ、1591年に豊臣秀吉の命により切腹して果てています。
この利休と同年代である人物は、畿内の三好長慶、越前の朝倉義影らがいます。
利休は戦国時代の中期に生まれ、安土桃山時代の半ばまで生きたことになります。
この戦国時代はというのは、為政者である筈の室町将軍の権威が著しく失墜した時代で、室町幕府の
内部では守護などを務める有力な大名が将軍を押し退け、地方では辣腕の守護代が無能な守護を押し
退けて威勢をふるっていました。
織田信長(1534-1582年)
戦国武将といったら、私は織田信長ですけど…、みなさんの戦国武将の一番は
誰なのでしょうか?

このように、下位のものが上位の者を押し退けて権威をふるう下克上の時代だったのです。
この下克上の時代には、上位の者を倒すなどして広大な領地を版図に収め、強大な軍事力を保持する
武将も登場しています。
こういった武将のことを戦国大名といい、この中には守護から脱皮した者もいたが、上杉謙信(長尾景虎
)や織田信長のように守護代やその重臣の子から戦国大名になった者もいました。
第15代将軍・足利義昭を追放した信長は、美濃の斉藤家、越前の朝倉家、近江の浅井家などを相次い
で滅ぼしますが、本能寺の変で落命します。
その後、豊臣秀吉が天下統一事業に着手し、これを完成すると関白、太閤となった秀吉は自身を頂点と
する豊臣政権を発足させます。
利休はこの段階で軍師、補佐役をつとめ、秀吉の天下統一、政権運営に一役かっています。
一方、文化の担い手であった天皇や公家、武将に代わって、豪商や一般の庶民、女性などが斯界をリ
ードする時代になってきます。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 北条氏康
上杉憲房(在任:1515-1525年) と上杉謙信(在任:1561-1578年) は関東管領です。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>
利休は1522年に泉堺で生まれ、1591年に豊臣秀吉の命により切腹して果てています。
この利休と同年代である人物は、畿内の三好長慶、越前の朝倉義影らがいます。
利休は戦国時代の中期に生まれ、安土桃山時代の半ばまで生きたことになります。
この戦国時代はというのは、為政者である筈の室町将軍の権威が著しく失墜した時代で、室町幕府の
内部では守護などを務める有力な大名が将軍を押し退け、地方では辣腕の守護代が無能な守護を押し
退けて威勢をふるっていました。
織田信長(1534-1582年)
戦国武将といったら、私は織田信長ですけど…、みなさんの戦国武将の一番は
誰なのでしょうか?

このように、下位のものが上位の者を押し退けて権威をふるう下克上の時代だったのです。
この下克上の時代には、上位の者を倒すなどして広大な領地を版図に収め、強大な軍事力を保持する
武将も登場しています。
こういった武将のことを戦国大名といい、この中には守護から脱皮した者もいたが、上杉謙信(長尾景虎
)や織田信長のように守護代やその重臣の子から戦国大名になった者もいました。
第15代将軍・足利義昭を追放した信長は、美濃の斉藤家、越前の朝倉家、近江の浅井家などを相次い
で滅ぼしますが、本能寺の変で落命します。
その後、豊臣秀吉が天下統一事業に着手し、これを完成すると関白、太閤となった秀吉は自身を頂点と
する豊臣政権を発足させます。
利休はこの段階で軍師、補佐役をつとめ、秀吉の天下統一、政権運営に一役かっています。
一方、文化の担い手であった天皇や公家、武将に代わって、豪商や一般の庶民、女性などが斯界をリ
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 北条氏康
上杉憲房(在任:1515-1525年) と上杉謙信(在任:1561-1578年) は関東管領です。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>
利休が根強い人気を誇る理由は?
『利休が根強い人気を誇る理由とは』
千利休は安土桃山時代を代表する茶人であり、今なお根強い人気を誇るのはどういう点に理由がある
のでしょうか。
利休は10代半ばに茶人としての活動を開始し、半世紀以上を経た晩年には、質素、簡便を特徴とする
侘び茶は、国産の茶道具、狭小な茶室を使用することで茶の湯、侘び茶を大成しています。
唐物の高価な茶道具・名物をみせびらかす風潮を否定し、侘び茶を大成した点が、今なお根強い人気
を誇る理由のひとつと思われます。
千 利休(1522-1591年)

そんな利休は次第に、華美で大規模な茶会を好む秀吉との間に軋轢を生じ、遂には1591年に秀吉の
怒りをかい、秀吉の命により切腹して果てます。
切腹の直前、高台院(ねね)らを介して、その夫・秀吉に命乞いをするように、熱心に勧める弟子たちも
いたようです。
しかし、自らの信念を曲げることを嫌ったのでしょう。あえて高台院らに命乞いはせず、利休は従容とし
て切腹に臨んだといいます。利休は先祖が武士であったとされますが、なかなか出来るものではありま
せん。
信念を貫いた潔い態度に感銘を受ける人も少なからず、これもまた、今なお利休が根強い人気を誇る理
由のひとつと思われます。
昭和時代の半ば以降、利休の子孫、茶道の正系である表千家、裏千家をはじめとする各流派が、海外
への茶道の普及に本腰を入れ海外の人々に知られるようになったそうです。
大河ドラマ「お江」の前半では毎回のように登場した『千利休』について、少し勉強してみたいと思います
ので、折に触れ記事にしてみたいと思いますので、お付き合いください。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 主君への忠義は見事といって釈放した
奥州転封後に、旧領主の伊達政宗から16歳の清十郎という若い刺客を送られた。
しかし、関所で伊達家との通信文が見つかりこの刺客は牢に繋がれたが、「伊達に
対する忠義、天晴れなり」と刺客を解放したとの逸話が残ります。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>
千利休は安土桃山時代を代表する茶人であり、今なお根強い人気を誇るのはどういう点に理由がある
のでしょうか。
利休は10代半ばに茶人としての活動を開始し、半世紀以上を経た晩年には、質素、簡便を特徴とする
侘び茶は、国産の茶道具、狭小な茶室を使用することで茶の湯、侘び茶を大成しています。
唐物の高価な茶道具・名物をみせびらかす風潮を否定し、侘び茶を大成した点が、今なお根強い人気
を誇る理由のひとつと思われます。
千 利休(1522-1591年)

そんな利休は次第に、華美で大規模な茶会を好む秀吉との間に軋轢を生じ、遂には1591年に秀吉の
怒りをかい、秀吉の命により切腹して果てます。
切腹の直前、高台院(ねね)らを介して、その夫・秀吉に命乞いをするように、熱心に勧める弟子たちも
いたようです。
しかし、自らの信念を曲げることを嫌ったのでしょう。あえて高台院らに命乞いはせず、利休は従容とし
て切腹に臨んだといいます。利休は先祖が武士であったとされますが、なかなか出来るものではありま
せん。
信念を貫いた潔い態度に感銘を受ける人も少なからず、これもまた、今なお利休が根強い人気を誇る理
由のひとつと思われます。
昭和時代の半ば以降、利休の子孫、茶道の正系である表千家、裏千家をはじめとする各流派が、海外
への茶道の普及に本腰を入れ海外の人々に知られるようになったそうです。
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ので、折に触れ記事にしてみたいと思いますので、お付き合いください。


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奥州転封後に、旧領主の伊達政宗から16歳の清十郎という若い刺客を送られた。
しかし、関所で伊達家との通信文が見つかりこの刺客は牢に繋がれたが、「伊達に
対する忠義、天晴れなり」と刺客を解放したとの逸話が残ります。
≪本日の問題≫
<参考文献:千利休101の謎(川口素生著)>