日本百名城11 二本松城
『戊辰戦争で二本松少年隊の悲話が残る』
二本松城は標高345mに畠山満泰が築いた山城で、別名「霞が城」、「霧ヶ城」と呼ばれています。
陸奥国に定着していた畠山氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。1585年10月、15代当主・
畠山義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出、輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ
連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺されています(粟之巣の変事)。
1627年に入った加藤氏により現在の近代城郭の姿に大改修され、1643年に丹羽光重が入封すると、三
の丸御殿、箕輪門をつくり城下町を整備しています。
1868年の戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、手薄になった攻城
戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員されています。
戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのですが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算す
ると言う入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は
12歳となってしまったのです。
大壇口での戦いにおいて多くが戦死し、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られています。
平成24年1月7日の多賀城登城の帰りに、二度目の二本松城に登城しました。
前回の登城は本丸のみの登城でしたので、今回は箕輪門を中心に観てきました。(前回は、「こちら」です)

昭和57年に再建された箕輪門

二本松少年隊顕彰碑
復元された箕輪門近くには「二本松少年隊群像」があります。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大根
前田慶次郎は、上杉景勝に仕えた際、初目見えに泥の付いた3本の大根を持参し、「この
大根のように見かけはむさ苦しいが、噛めば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と言った
という。
≪本日の問題≫
二本松城は標高345mに畠山満泰が築いた山城で、別名「霞が城」、「霧ヶ城」と呼ばれています。
陸奥国に定着していた畠山氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。1585年10月、15代当主・
畠山義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出、輝宗のもとに出向いた義継は、輝宗を拉致して二本松城へ
連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺されています(粟之巣の変事)。
1627年に入った加藤氏により現在の近代城郭の姿に大改修され、1643年に丹羽光重が入封すると、三
の丸御殿、箕輪門をつくり城下町を整備しています。
1868年の戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、手薄になった攻城
戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員されています。
戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのですが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算す
ると言う入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は
12歳となってしまったのです。
大壇口での戦いにおいて多くが戦死し、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られています。
平成24年1月7日の多賀城登城の帰りに、二度目の二本松城に登城しました。
前回の登城は本丸のみの登城でしたので、今回は箕輪門を中心に観てきました。(前回は、「こちら」です)

昭和57年に再建された箕輪門


二本松少年隊顕彰碑
復元された箕輪門近くには「二本松少年隊群像」があります。


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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 大根
前田慶次郎は、上杉景勝に仕えた際、初目見えに泥の付いた3本の大根を持参し、「この
大根のように見かけはむさ苦しいが、噛めば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と言った
という。
≪本日の問題≫
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格安・会津遊覧の旅 「朱瓦の会津若松城」
格安・会津遊覧の旅 「朱瓦の会津若松城」
今回の旅の目的「会津遊覧」に、ホテルを朝9時に出発です。
まず、最初に「塔のへつり」に到着です。
塔のへつりは、福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷で、昭和18年に河食地形の
特異例として国の天然記念物に指定されています。
「へつり」 とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のことで、一帯は凝灰岩、凝灰角礫岩、頁岩など
が互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による浸食と風化の作用によって形成されたものだ
そうです。
侵食された部分を歩くこともできるそうですが、時間がないため展望所からの見学だけになりました。
一帯は樹木に覆われており、紅葉の時期が一番いい時期だそうです。

<画像は全てクリックで拡大します>
売店に美味しそうな桃が並んでいたので、2個ほど買ったら“桜桃”をくださいました。^^
前に買われたお客さんは、これだ・あれだと選択されていましたが、「お姉さんが一番美味しいと思わ
れるものをください!」と言ったのが“好感”だったのでしょうか…。
塔のへつりから、20分ほど走り「大内宿」に到着です。
大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町にある旧宿場で、現在は重要伝統的建造物群
保存地区として選定されています。
全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並び、江戸時代には「半農半宿」の
宿場でしたが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然
と並んでいます。

民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、
箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習があるそうです。
大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館があります。

今回の本命、会津若松城に到着です。
昼食を含め、100分の時間がありましたけど、二の丸までは足を伸ばすことはできませんでした。
2年ぶりの会津若松城です。前回の百名城登城記は、「こちら」です。
黒瓦と赤瓦の会津若松城の比較です。
同じ場所から撮ったものですが、赤瓦になった会津若松城はCG画像みたいで、堅城って感じでないですよね。
費用も3億円を費やしたようで、このご時世ですから市民からの異論も出ているようです。

本丸からの天守

表門(帯郭側) 表門(本丸側)

石垣は「切込みハギ」で、石が四角に切り揃えられ隙間も切り揃えた石で埋められています。
南町通濠

現在、名君・保科正之生誕400年フェアが開催されています。

この後は2時間30分をかけて、今日の宿泊「塩原おおるりホテル」へバスで移動です。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 京極家
守護大名家のうち近世大名残存できた家は、上杉家、伊達家、京極家、細川奥州家、
小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に留まります。
≪本日の問題≫
今回の旅の目的「会津遊覧」に、ホテルを朝9時に出発です。
まず、最初に「塔のへつり」に到着です。
塔のへつりは、福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷で、昭和18年に河食地形の
特異例として国の天然記念物に指定されています。
「へつり」 とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のことで、一帯は凝灰岩、凝灰角礫岩、頁岩など
が互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による浸食と風化の作用によって形成されたものだ
そうです。
侵食された部分を歩くこともできるそうですが、時間がないため展望所からの見学だけになりました。
一帯は樹木に覆われており、紅葉の時期が一番いい時期だそうです。

<画像は全てクリックで拡大します>
売店に美味しそうな桃が並んでいたので、2個ほど買ったら“桜桃”をくださいました。^^
前に買われたお客さんは、これだ・あれだと選択されていましたが、「お姉さんが一番美味しいと思わ
れるものをください!」と言ったのが“好感”だったのでしょうか…。
塔のへつりから、20分ほど走り「大内宿」に到着です。
大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町にある旧宿場で、現在は重要伝統的建造物群
保存地区として選定されています。
全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並び、江戸時代には「半農半宿」の
宿場でしたが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然
と並んでいます。



民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、
箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習があるそうです。
大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館があります。

今回の本命、会津若松城に到着です。
昼食を含め、100分の時間がありましたけど、二の丸までは足を伸ばすことはできませんでした。
2年ぶりの会津若松城です。前回の百名城登城記は、「こちら」です。
黒瓦と赤瓦の会津若松城の比較です。
同じ場所から撮ったものですが、赤瓦になった会津若松城はCG画像みたいで、堅城って感じでないですよね。
費用も3億円を費やしたようで、このご時世ですから市民からの異論も出ているようです。


本丸からの天守

表門(帯郭側) 表門(本丸側)


石垣は「切込みハギ」で、石が四角に切り揃えられ隙間も切り揃えた石で埋められています。
南町通濠

現在、名君・保科正之生誕400年フェアが開催されています。

この後は2時間30分をかけて、今日の宿泊「塩原おおるりホテル」へバスで移動です。

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昨日の正解: 京極家
守護大名家のうち近世大名残存できた家は、上杉家、伊達家、京極家、細川奥州家、
小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に留まります。
≪本日の問題≫
百名城13 白河小峰城
奥州の押さえに築かれた 名築城家丹波氏の城
『再建された三重櫓が 平成の城復元ブームを巻き起こす』


<クリックで拡大します>

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登城日:平成21年8月31日


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『再建された三重櫓が 平成の城復元ブームを巻き起こす』


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百名城11 二本松城
蒲生・加藤氏が築いた 石垣造りの山城
『戊辰戦争に散った 二本松少年隊の悲話が残る』
山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120mあります。
本丸から北西・東・南にそれぞれ尾根が伸びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。
唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断されており、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを
防ぐ形となっています。
1591年に蒲生氏郷が入部すると、城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌し、また、本丸直下に穴太積み
による大石垣が組まれ、織豊城郭としての形が整えられています。
これと同時に城下も整備されている。蒲生氏の支配の後は加藤嘉明が会津に入部し、加藤領となった。
このときに山麓部分の高石垣が築かれている。
1868年の戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、手薄になった攻城戦に
おいては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員され、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られてい
ます。


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登城日:平成21年8月30日


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『戊辰戦争に散った 二本松少年隊の悲話が残る』
山の頂上の本丸が置かれ、本丸と平地の比高は約120mあります。
本丸から北西・東・南にそれぞれ尾根が伸びており、東と南の尾根にそれぞれ曲輪が築かれている。
唯一他の山につながっている北西の尾根は堀切で遮断されており、北方の尾根伝いに敵が侵入するのを
防ぐ形となっています。
1591年に蒲生氏郷が入部すると、城域は拡大され、梯郭式の城へと変貌し、また、本丸直下に穴太積み
による大石垣が組まれ、織豊城郭としての形が整えられています。
これと同時に城下も整備されている。蒲生氏の支配の後は加藤嘉明が会津に入部し、加藤領となった。
このときに山麓部分の高石垣が築かれている。
1868年の戊辰戦争に際し、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦い、手薄になった攻城戦に
おいては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員され、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られてい
ます。


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百名城12 会津若松城
戊辰戦争を戦い抜いた 奥州屈指の堅城
『南走長屋・干飯櫓など 本丸建物の再建が進む』
室町時代からあった葦名氏の黒川城を蒲生氏郷が1592年から改修し、名称を黒川から若松に改めて
います。
その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変えたり、地震で壊れた7重の天守を5重にするなど
大改修が行なわれ、東北地方屈指の名城になっています。
幕末の戊辰戦争では、会津藩は新政府軍との戦いにおいて、1ヵ月も籠城に耐え城の堅城ぶりを見せ
つけています。
多用された石垣には、野面積をはじめとする色々の技法を見ることができます。
戊辰戦争でダメージを受け、明治初めに取り壊された天守は昭和40年にコンクリートで外観復元され
ています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、三の丸の一部、北出丸、西出丸、石垣、堀
◇ 天守から走長屋、南走長屋、千飯櫓と長く連なって再建された建物群の眺めが壮観です。
また、20mにおよぶ本丸東側の高石垣は、打込接の美しいものです。

走長屋と千飯櫓
南走長屋と千飯櫓は、平成13年に再建されています。

<クリックで拡大します>

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登城日:平成21年8月30日


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『南走長屋・干飯櫓など 本丸建物の再建が進む』
室町時代からあった葦名氏の黒川城を蒲生氏郷が1592年から改修し、名称を黒川から若松に改めて
います。
その後も蒲生氏や加藤氏によって、空堀を水堀に変えたり、地震で壊れた7重の天守を5重にするなど
大改修が行なわれ、東北地方屈指の名城になっています。
幕末の戊辰戦争では、会津藩は新政府軍との戦いにおいて、1ヵ月も籠城に耐え城の堅城ぶりを見せ
つけています。
多用された石垣には、野面積をはじめとする色々の技法を見ることができます。
戊辰戦争でダメージを受け、明治初めに取り壊された天守は昭和40年にコンクリートで外観復元され
ています。
【主な遺構と見どころ】
◇ 本丸、二の丸、三の丸の一部、北出丸、西出丸、石垣、堀
◇ 天守から走長屋、南走長屋、千飯櫓と長く連なって再建された建物群の眺めが壮観です。
また、20mにおよぶ本丸東側の高石垣は、打込接の美しいものです。

走長屋と千飯櫓
南走長屋と千飯櫓は、平成13年に再建されています。

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登城日:平成21年8月30日


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