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鬼島津の武を知らしめた「島津義弘」 その3

『捨て奸(がまり)』

義弘がとった行動、それななんと家康の本陣をかすめながらの敵中突破であった。

この突撃に東軍は大慌てになるが、大勝利に傷をつけてなならぬと本多忠勝、井伊直政らが必死に島津隊

を必死に追撃する。

島津隊の退却
島津軍退却

これに対し、義弘は足止め部隊を次々に繰り出す「捨て奸」という戦法で対処。

足止め役は討ち死に確定だったが、島津家では戦場において総大将の首級(しゅきゅう)を決して敵に渡して

はならないという教えがあり、配下たちにもそれが徹底していたからこそ、この戦法はなり得たのです。

足止めの兵士たちが次々と倒れていき、従軍した甥の島津豊久が義弘の身代わりとなって討ち死にするが、

辛くも義弘は戦線離脱に成功。

薩摩に帰り着いたときは、15百いた兵士は僅か80数人しか残っていなかったという。

敗北した西軍のなかにあって、数少ない戦果のひとつである島津家の撤退劇は、敵味方を問わず喝采した

という。

多くの犠牲は出したが、義弘もさぞかし痛快であったでしょう。義弘は東軍からも西軍からも軽視されていた

のですから。

関ヶ原の戦い後の島津家は、徹底抗戦の構えを崩さず裏で徳川に謝罪。なんと追撃部隊にいた井伊直政が

取りなす形で、島津への処分は西軍のなかでは最もあまい「お咎めなし」という裁定がくだされた。

義弘の見事な撤退劇が、敵の心も動かしたのです。

その後、義弘は隠居を決めて後進の指導にあたり、1619年、85歳で没しています。

その身を戦に捧げた怒涛の生涯であったのでしょう。



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島津家の鶴丸城 (鶴丸城登城記は「こちら」です。)
ka.鹿児島城 001





                         <参考文献:戦国武将がよくわかる本(編集者:レッカ社)>
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鬼島津の武を知らしめた「島津義弘」 その2

『軽視される義弘』

舞台は関ヶ原。

義弘の参戦に三成も強力な味方を得たと喜びそうなものであるが、島津ともあろう家が率いる兵は15百人

に落胆。

こともあろうに義弘を軽視するようになる。

関ヶ原の戦い布陣 (クリックで拡大)
se.関ヶ原の戦い布陣図

それでも義弘は今まで培ってきた戦の経験を元に軍議で献策する。

その内容は家康の得意とする夜戦は避け、夜襲にて早々に決着つけるべしという理に叶ったものであった。

しかし、三成は末席の将の意見など聞いていられるかとこれを拒否。

プライドを傷つけられた義弘は怒り、それ以降は口を出さずただ黙って軍議の成り行きを見守るだけであっ

た。

そしていざ開戦。

義弘は口を出さないどころか兵士すらいっさい動かさず、ただ近寄る敵のみを鉄砲で撃退するという、もはや

どちらの味方ととも言えない行動に出た。

この島津の動きには、両軍ともあっけにとられたが、やがて小早川秀秋の部隊が裏切りを決行すると、西軍

は総崩れになり、東軍の勝利が決定的になる。

敵の大軍勢のなかに取り残された島津軍。ここで初めて敵を動かす。




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島津義弘陣跡 (関ヶ原の戦い西軍陣所巡りは「こちら」です。)

si.島津義弘陣所跡 000


                         <参考文献:戦国武将がよくわかる本(編集者:レッカ社)>

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鬼島津の武を知らしめた「島津義弘」 その1

『秀吉への恩義から当主と反目』

生涯で52回の合戦に出陣し、いずれも華々しい戦果を飾った薩摩の雄・島津義弘。

戦いの鬼ともいわれた義弘を語るうえで、絶対に外せないエピソードが、関ヶ原の戦いでの壮絶な撤退劇

です。

島津義弘(1535-1619年)
sh.島津義弘

この戦いのなかで義弘は、参戦した諸将にその強さと恐ろしさ、そして武人としてのプライドの高さを充分に

見せつけている。

豊臣秀吉の死後、徳川家康と旧豊臣方の激突は避けることができない状況になった。

このような状況に島津家は、当主・島津義久の判断により中立の立場を保つよう方針を定めるが、義久は恩

義ある豊臣方に与するべしと兄と反目し、大坂に居すわっていた。

その後、徳川家康が上杉征伐のために会津に出発すると、石田三成が挙兵。

留守となった家康の居城・伏見城へとその兵を向ける。

ここで家康に救援を頼まれた義弘は、仕方なく兵15百を率いて出陣。

伏見城に到着するが、城を守る鳥居元忠が島津軍の入場を拒否したため、義弘は怒って引き返し、そのまま

三成が率いる部隊に合流する。

こうして義弘は兼ねてからの思惑り、旧豊臣方の西軍へと名を連ねることになった。



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sa-ko 20160311




                                  <参考文献:加藤清正(海音寺潮五郎薯)>

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立花 千代も陰る名将 「立花 宗茂」

すべてを兼ね備えた武士の中の武士

『義父のスパルタ教育で才能が開花』

父は豊後の大名である大友家の重臣 知将として知られる高橋招運である

同じく重臣で大友家きっての猛将の立花道雪が ぜひ養子にして立花家を継がせたいと懇願・・・嫡男で

あることから招運は 最初はこれを断ったが 言い出したら聞かない道雪についに養子に出してしまう


立花 宗茂 1567年12月18日-1643年1月15日 享年76才
立花宗茂

道雪はこの養子を徹底したスパルタ教育で鍛え その資質を開花させた

1581年の初陣で敵将の首を獲る殊勲をあげて その武勇は轟いた

1586年の島津氏との戦いでは立花山城に籠って大軍と対峙しながら 巧みな遊撃戦や果敢な敵本陣へ

の奇襲攻撃など変幻自在な戦法を駆使して ついには島津軍を撤退させている

その勇猛と知謀は広く他国まで知れ渡り 九州征伐に来た豊臣秀吉も知ることとなった

人物鑑定には定評のある秀吉は「その忠義も武勇も九州随一である」と褒め称え 柳川12万石の大名に

とりたてている


明治初頭に撮影された古写真を基に    本丸跡に建つ石碑    
描かれた柳川城天守
柳川城古写真   柳川城跡碑

これに応えるように朝鮮出兵でも得意の奇襲戦や鉄砲を巧妙に使った戦術で 数倍の明軍を撃破する

「立花家の3000人は他家の1万人の軍勢に匹敵する・・・」

小早川隆景は驚いた とにかく呆れるほどに強い その鋭い戦術と用兵術は「軍神」といわれた越後の

上杉謙信に匹敵するといわれた

関ヶ原合戦では 秀吉の恩義に報いるために西軍についた 義に殉じる潔さもまた謙信に通じるところが

ある

家康は精強な立花勢を警戒したというが 合戦の当日 宗茂は大津城を包囲中で関ヶ原にはいなかった

本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した

大坂城に退いた後 宗茂は大坂城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが輝元は

その進言を容れずに徳川家康に恭順したため 宗茂は自領の柳川に引き揚げた

柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行した

関ヶ原での戦で兵の殆どを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ

家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け むしろ島津軍の護衛を申し出でて

島津義弘と友誼を結び 無事に柳川まで帰りついた

関ヶ原合戦後は改易されて浪人するが 威張ることなくいつも温厚な人柄も素晴らしく人には好かれた 

敵であった家康も彼をとことん憎むことができずに 最終的には陸奥棚倉藩で3万5000石の大名に復帰

している

その後 再び柳川藩に復帰し幕末まで続いています

[余禄]
ジョン・レノンの妻・オノ・ヨーコさんは 日本七槍・立花四天王の一人に数えられる小野 鎮幸の子孫に

なるそうです


健康優良で丸々のsa-ko嬢です     オモチャに囲まれると嬉しくて・・・
sa-ko 20100817 001   sa-ko 20100817 002


『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解は:山
    家臣に理由を聞かれた信玄は「山には常に草木(臭き)が絶えぬから」と答えた逸話があります。

≪本日の問題≫



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                                       <参考文献:戦国時代>

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女性当主 立花 千代

『関ヶ原の戦いでは 夫の留守を甲冑着て守る』

千代は1569年「雷神の化身」とまで謳われた立花道雪の娘として生まれています

父道雪には 晩年になっても跡を継ぐべき嫡子が生まれなく 1575年道雪は娘に家督を継がせるため

通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み 主家である大友家の許しを得たうえで7歳である千代

に家督を相続し 千代を立花家の当主とした


立花 千代(たちばな ぎんちよ)1569年9月23日-1602年11月30日(享年34才)
千代

実権は道雪が握っていたので形だけであるものの こうして戦国時代には非常に珍しい女当主が誕生

したのです

雷神の化身といわれた立花道雪の娘である影響もあったのでしょう 当時の女性としては珍しく武勇に

優れていたといいます

1581年 道雪は高橋紹運の息子であった統虎(宗茂)を気に入り 彼を養子として迎え入れ千代を妻

として家督を相続させます

武勇に優れていた千代の逸話があります

宗茂が文禄・慶長の役で不在の間 豊臣秀吉は千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ手込めに

しようとしたが それを察知した千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて護衛させ また自らも武装

をして乗り込んだため それに恐れをなした秀吉は手も足も出なかったそうです

また 宗茂が不在の間 城の守りは妻である千代が任せられており そのため侍女たちとともに

武装し敵からの攻撃に備えていたという

1595年に千代は柳川城を出て新館に移り宗茂と別居していますが 理由は不明で「性格的にそり

が合わなかった」「千代が政治に口を挟む 男勝りな女性だったから」などといわれていますが 宗茂

が側室を娶ったことに際し 自ら身を引いたのではないかと考えられます

そんななか 1600年の関ヶ原の戦いでは 夫である立花宗茂が西側に加担したため 留守の間 城

の守りは妻である千代が任されることになり 千代は侍女たちと共に武装し 敵からの攻撃に備

えたのです

関ヶ原の戦いで西軍が敗北後 城には東軍が攻め寄せると 千代は居館から甲冑を着て出撃し 

侍女たちには鉄砲で援護射撃をさせ 攻め寄せる東軍をおおいに威嚇したそうです

猛将伝でも誇り高き千代です。
「立花なれど!」 「甘い!うなれ雷切」 「敵将を立花が討ち取った!」

千代002   千代003

しかし 戦後は所領を没収され宗茂は浪人 千代は肥後での隠棲生活を余儀なくされ 34歳という

若さで没しています


模様替えして、うさ~ずルームにソファを入れたら・・・
pigletが早速やって来て 「なんだい! 楽そうじゃないかい」 
pig 20100816 001
「すべりそうで、危ないなぁ~」
pig 29100816 002
「今日は、ここで我慢してやるか~」 小声で「誰もいない時はカジルからなぁ~」
pig 20100816 003

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
正解は:小西行長
     小西行長の主君は宇喜多直家→豊臣秀吉→秀頼で、肥後宇土城主です
     明石全登は宇喜多秀家の家臣でしたが肥後の大名ではなく、加藤清正は肥後熊本城主です
     が秀吉子飼の家臣です。

≪本日の問題≫



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piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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