征夷大将軍 『徳川家康』 その49

『天下が家康の手中に落ちたのは自然のなりゆきだった?』

家康はけっして無理をしない男であった。

信長に対しても終始変らない彼の信義、秀吉在世までの彼の恭敬さをみてもわかります。

彼は力をもって秀吉に服属させられたのでない。だから、秀吉に服属しても彼は天下一の大大名で、その力は

他の大名に比べ非常に強大であった。


歴史のターニングポイント『小山評定跡』 (小山評定訪問記は「こちら」です。)
IMG_0173.jpg


天下第一の実力者であるから、秀吉の死後、天下が彼の手中に帰するのは最も自然なことであったのでしょう。

関ヶ原の戦いの時、家康が関東から引き返して来たことがわかると、西軍の大名らは色を失ったといいます。彼

の実力のほどがわかります。

関ヶ原の戦いによって天下を取るまでの彼の動きには無理がなく、石田三成が天下を取らせてくれたと言っても

いいのでしょうが、70の老衰になっても大坂に豊臣家がいて穏然たる力を保っているとあっては、子孫のために

焦らざるを得なかったのでしょう。


方広寺の鐘銘 (方広寺参拝は「こちら」です。)
方広寺鐘銘


それがあの無理(鐘銘問題)となったのです。

信長・秀吉・家康の3人は、日本の英雄中の英雄です。

信長の電撃的天才、秀吉の陽気な大才、ともに魅力満点ですが、時代を同じくして生きなければならないとした

ら、2人に接近して生活することはご免こうむりたい気がします。

信長の狂気じみた感情の変化は怖くてならない。

秀吉の常習的大言壮語にはやりきれなくなること間違いなし。

この点、家康の着実と重厚さは最もがまんできそうな気がします。

泰平に帰せんとする天下が家康の手中に落ちたのは、最も自然な成り行きであったのかも知れません。

それに時の人々が待ち望んだ太平の世が300年近くも続いていますし・・・。



長い間、家康さんにお付き合い戴きありがとうございました。

次の戦国武将は、山陰地方の武将をとりあげてみたいと思います。



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pig 20141113


『戦国アンケート』

≪前回の解答≫
正解:方広寺
豊臣秀頼が建立した方広寺の梵鐘の鐘銘、「国家安康」、「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家をぼうとくするものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされます。

≪本日の問題≫


                                       <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>
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征夷大将軍 『徳川家康』 その48

『家康の責任』

家康は日本の英雄のなかで最も評判の悪い人の中のひとりです。

しかし、彼の伝記を少し詳しく調べた人は、みな好きになるというのです。

素人好きはしないが、玄人好きのする人物といえるのでしょう。奥行きが深いとうことかも知れません。

岡崎城の家康公(1543-1616年) (1回目の岡崎城登城記は「こちら」です。)
to.家康 岡崎城

彼の評判の悪さの原因は、維新運動がアンチ徳川の旗印で行われたため、明治時代を通じて逆賊徳川将軍

の第1世と考えられたことが一つ。

江戸時代300年近く間をずっと神格視されたことの反動が二つ。

講談の難波戦記が大坂種であるため、大坂方を持ち上げるため、不当に家康をおとしめたことが三つ。

その難波戦記から派生した立川文庫がアンチ家康熱をあおり立てたことが四つ。


以上が彼の不人気の原因の主なるものと思われますが、これらはすべて彼には責任のないことです。

一つだけ家康に責任があることは、豊臣家を叩き潰すのに随分無理強引なことをしていることです。

大仏の鐘銘問題など誰が考えても無理ないいがかりなのです。



家康さんに長い間お付き合いいただきましたが、次回が最終回になります。



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sakura 20141112



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:嫁ぐため離縁
尾張国の農夫のもとに嫁ぐも、1586年に兄・秀吉が徳川家康を懐柔するために強制的に夫と離縁させられ、家康の正室(継室)として徳川家に嫁いでいます。
1588年に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛し、そのまま京都の実家(聚楽第)に住んでいます。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その47

『家康という人』

ずっと後年の話ですが、家康が幸若舞の「満仲」を見た時の話です。

源満仲の郎党の仲光が満仲に若君美女丸を討つように命ぜられたのを、美女丸と同年の自分の子を討って

差す出す筋であった。

浜松城の家康公(1543-1616年)
to.徳川家康(浜松城)

家康は涙をこぼしながら、大久保忠世に

「よく見よ、よく見よ」

と言ったという。

また、酒井忠次が息子の家次のために何事かを家康に乞うた時

「そちも子供が可愛いか」

と言ったので、忠次は満身汗になったという。

すべて家康の悲しみがいかに深かったかを語るものです。家康は今日考えられているような冷血漢ではなか

ったのかも知れません。

家康は築山殿の後には、秀吉の妹・朝日を押し付けられて、1586年4月からの4年間、朝日が死ぬまでこれ

を正室にした以外は正室をおいていません。

その前、その間、その後、彼の寵した衆妾は身分の低い女ばかりだった。

滅んだ大名の家臣や神主の娘や、中には百姓の後家さんまでいたというのです。

彼の実用一点張りの性格そのままで、誠にあじけないものだったのかも知れませんが、これも身分高い女を

愛することの恐ろしさに懲りたためであったのでしょう。

彼の幼児からの難苦にみちた生活は、同じあやまちを2度とは起こさない用心深い性質に彼を仕上げていた

のでしょう。



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pig 20141111


『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:島津義弘
勝敗を静観していた島津義弘隊は東軍に包囲される。
島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」が開始される。島津隊は捨て奸戦法で、決死を決め死兵と化した島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。
1,500人の島津部隊は、退却したのは80人余りで島津豊久、阿多盛淳が捨て奸となり玉砕しています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その45

『築山殿、信康を征伐』

徳川家が最大のピンチを迎えている最中に中断となってしまいました。 先に進めたいと思います。


忠次は安土から岡崎を素通りして、浜松に直行して委細を家康に告げた。

家康は熟慮すること数日、信康を岡崎から大浜へ移し、大浜から遠州堀江に移し、さらにの二股城に移して、

城代・大久保忠世に預けた。

家康としては忠世が逃がしてくれるであろうと期待していたのだというが、忠世は厳重に監視して日数を送っ

た。

「忠世み心を得ざりしか、また思ふところもありけるにや」

と後風土記には憤癒の情を見せている。

信康と老臣らとの間が旨く行っていなかたことが、ここでも推理されます。

二股城
fu.二股城

一方、築山殿は、野中重政という家来に命じて連れ出させて、浜松近くの小藪村というところで首を討った。

これも野中が帰って報告すると、家康は

「女のことなれば尼となし、いず方へか落し申すべきを、心強くも討ち取ったものかな」

と言ったので、野中は恐れて在所の遠州堀江村に蟄居したという。

ついに家康も信康を殺さざるを得なくなり、天方通経、服部半蔵の2人を二股城に遣わして、自殺の命を伝え

た。

信康は

「おれが勝頼に味方するなど、さらに覚えのないことじゃ。あとでよくよく父上に申し上げてくれい」

と言って、見事に腹を切り

「半蔵、そちは馴染みのある者じゃ、介錯をたのむ」

といった。

半蔵は立ち上がろうとしたが、斬るにしのびなく、ただむせび泣くばかりであったので、天方が立ちあがり

「手間取ってはお苦しみのほど恐れ入りますれば、てまえご免こうむります」

と言って、介錯した。

信康21歳。1579年9月15日のことでした。

この時の天方の刀が、村正であったという。 村正のたたり3回目です。


今日は家康さんのずるいところが出ている内容でした。



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『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:京都伏見藩邸
官兵衛さんは、1604年4月19日に京都伏見藩邸(京都市伏見区深草大亀谷敦賀町)で没しています。享年59歳でした。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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征夷大将軍 『徳川家康』 その44

『築山殿母子に対する信長の怒り』

筑山殿の通謀に対し、武田家の方から早速返書が届く。

築山殿の要求を全部入れたことは言うまでもない。

築山殿の将来の夫としては郡内の小山田兵衛という大身の家臣が去年妻を先立てて“やもめ”になっている

からそれを選んだという返事です。

徳姫からも、信長に知らせを送っています。

その書状には陰謀のことだけでなく、築山殿が夫婦仲に水をさしたこと、築山殿の行状、信康の行状の荒々

しいことなど、盛りだくさんのことが書き込まれていた。

織田信長(1534-1582年)
od.織田信長公

信長が激怒したことは言うまでもありません。

ちょうどその頃、家康は信長に名馬を献上する老臣・酒井忠次を安土に遣わしていた。

信長は忠次を閑室に招いて

「信康は武略絶倫の人物ではあるが、あの暴悪な性質では大国を保つべき素質ではないの」

と言って、徳姫からの手紙を一条、一条読んで聞かせ

「そちはこれを知っているか」

と聞いた。

それに対して、忠次は

「一々聞いていることでございます。根のないことではありません」

と答えた。

この時の忠次の態度を、改正風土記でも、三河物語でも、非常な憤懣をもって書いてあるという。

忠次は“おふう”という美女のことで信康の怒りを買って、信康を恐れ恨んでいたので、これを機会にしてその

滅亡を図ったのだといいますが、どんなものでしょう。

家臣と若君というのは不仲であることが多く、信康が勇猛な人物であっただけに、忠次には将来が恐ろしかっ

たのかも知れません。

信長は

「老臣たるその方が申し上は、いたし方ない。速やかに失わざるべき旨を徳川殿に申せ」

と言った。

忠次は承諾して退出したという。

いよいよ、徳川家が慌しくなっていきます。


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『戦国クイズ』


≪前回の解答≫
正解:天目山
信長の武田氏征伐で、勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指すも、その途上の田野で追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害しています。

≪本日の問題≫


                                        <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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