fc2ブログ

戦国有数の悪者 宇喜多直家

『謀殺を多用し領土拡大した戦国有数の悪者』

並みいる戦国武将の中でも、こと謀殺に長けた人物をあげよといえば、宇喜多直家の名前が出てくる

のでしょう。

宇喜多家は代々、備前を治める浦上氏に仕えた名家であったが、直家が6歳のとき、祖父の能家が隣

の高取山城主・島村貫阿弥に攻められ自害しています。

宇喜多直家(1529-1582年)
uk.宇喜多直家

これを機に宇喜多家は没落し、命からがら城を脱出した直家は、父とともに放浪生活を余儀なくされる。

こうした体験があったせいだろうか。成人した直家は旧主家である浦上宗景に出仕すると、仇敵・島村

貫阿弥をはじめとして、各地の豪族たちを次々と謀殺。

遂には君主・浦上氏も追放して備前を乗っ取り、59歳で病死するまで宇喜多家を守ります。

戦国有数の悪人といえば斎藤道三や松永久秀が思い浮かびますが、直家は毒殺や闇討ちを多用した

ことから、戦国有数に数えられるなど、その印象は良くないです。

しかし、流浪の身から大名までにのしあがった実力はただ者ではなく評価されることでしょう。

sa-ko 20110311 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました

『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 立花道雪
        宗麟は他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており、酒色に耽るなど横暴な
        君主としての記録も残っているそうです。これが家臣や一族の反乱を引き起こした要因
        となっています。
        政務を拒否し遊び惚けた宗麟を立花道雪が戒めたという逸話も残っています。

≪本日の問題≫

スポンサーサイト



テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

出雲の鬼 尼子経久(2)

恐るべき執念で再起を果たした出雲の鬼

『毛利元就の裏切りによって窮地に追い込まれる』

出雲守護としての地位を得た経久の勢いは止まらず 中国地方に大勢力を持つ大内氏との抗争を

はじめる

経久は単純な力勝負を挑むのではなく 近隣の有力者を味方にしたり 反乱者を助けたりとした

たかに侵攻していった

特に尼子氏傘下にあった毛利元就は安芸攻略の際に策略を使って落城に貢献し 大内氏の大軍と

激突したときにも目ざましい活躍をみせている

こうして経久は大内氏と激闘を重ねながら領土を広げていき ついには中国地方11ヵ国の太守と

呼ばれるまでになった

しかし 信頼できる味方であった元就が大内氏につくと 情勢は一変し尼子大国にも陰りが見え

てくる

さらに 1532年経久の3男が謀反を起こしたのである 敵に対しては無慈悲であったが 家臣から

は寛大な当主と慕われており 尼子軍の強さは団結力にあると経久も自負していただけにショック

も大きく 80歳になった経久は1537年に家督を孫の尼子晴久に譲る

強気の進軍を続けた晴久の軍は 小勢の元就軍に完敗し 経久はこの報告を受けて間もなく 挫折

と再起を味わった月山富田城で84年の長い人生の幕を閉じた

一代で尼子家を中国地方の大勢力に押し上げた経久は 戦国時代の到来とともに現れた下克上の

申し子であった しかし 強引な快進撃のなかで子供たちは戦いに散り 若すぎる孫・晴久に家督

を譲る他はなかったことは経久にとって誤算だったのだろう

この後 中国地方は毛利氏の勢力下に染まっていった

若き日の経久(昨日の画像)の面影が残っています。
尼子経久02

月山富田城は未登城ですので、100名城巡りの同志「みゅった殿」にお借りした写真です。
「みゅった殿」のブログは、当ページにリンクがあります。
多分 月山
月山富田城

僕はいつもマッタリしているけど、長生きした経久の人生はゆっくりした時間はなかったのだろうな~。
pig 20100607 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました


                                            <参考文献:戦国武がよくわかる本>




テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

出雲の鬼 尼子経久(1)

恐るべき執念で再起を果たした出雲の鬼

『若き日の挫折から鬼神の如き再起へ』

尼子経久は出雲守護代の子として生まれる

先代から守護・京極家をよく助け 数々の武勲をあげている名家の嫡男である

経久も勇敢果敢な武将と称えられる一方 京での優雅な文化にも触れ 文武両道の人物であった

しかし 20歳で尼子家の家督を継ぐと 経久は守護・京極家との関係を一変させる

京極家からの命令を無視して 納税や使役の一切を拒否したのである 意気盛んな経久にしてみれば 

理不尽な通例を不服としてのことだったが 幕府の命令に背いた結果となり 幕府や京極家から反感

を買って居城・月山富田城を追放されてしまう

家督を継いで数年 自信は打ち砕かれ痛すぎる挫折を味わったのである

城を追われた経久は野に隠れていたが 思いは月山富田城奪還ひとつ 放浪生活のなかで同志を募り 

僅かではあるが兵力を蓄えることができた

追放から2年後の1484年元旦の祭りに紛れて奪還戦を決行

祭りの隙を突く奇襲で城を奪うと 討ち取った700もの首を河原にさらした この中には女や子供も含まれ

かつて文武両道の名将と称えられた経久は 一転して残忍な鬼とよばれるようになる

その後も経久は奇襲と騙し討ちを重ねて国内を統一し ついに京極家を排除

1508年には出雲守護職を任命され 下克上をもって再起を果たした


「出雲の鬼」にしては、やさしそうな顔をしてますよね。
尼子経久01

「月山富田城の模型」
月山富田城は未登城ですので、100名城巡りの同志「みゅった殿」にお借りした写真です。
「みゅった殿」のブログは、当ページにリンクがあります。
月山富田城 模型

このオッチャン“しょう油顔”だから、私に似ていると思わない?
「私は、鬼じゃないけどね!」 by 1号
1号 20100606 001


ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました


                                            <参考文献:戦国武将がよくわかる本>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

吉川経家(鳥取城)の思惑ちがい

せっかくの食事が急死の原因?

『部下を助けるために切腹した 吉川経家の思惑ちがい』

豊臣秀吉の城攻めは二通りある

どちらも持久戦であるが 一つは水攻めで高松城や紀州太田城はこちらの部類

他方は兵糧攻めで三木城や小田原城・九戸城それに鳥取城がこれにあたる

1580年 秀吉は姫路城を本拠に山陰方面への侵攻を本格化していた

そのさなか 1581年2月に吉川経家は鳥取城に入城する

鳥取城の守備兵は約3,800人で 経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり 守備兵3,800人(農民兵

2,000人を含む)で籠城の準備を進めた

しかし 城内には兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3ヶ月分しか無いことを知り愕然とした

秀吉の策略により 因幡国の兵糧は秀吉の密命によって潜入した若狭の商人によって全て高値で買いと

られており 鳥取城の城兵もその高値につられて備蓄していた兵糧米を売り払っていたのである

1581年6月には 経家の予測より早く 秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲作戦を展開し 鳥取城

を兵糧攻めにした

4ヶ月もすると城中は食料が底をつき完全な飢餓状態に陥った 助けを求めて城の柵にすがりつく者もいたが

包囲軍は情け容赦なく鉄砲を撃ち放った

そして撃たれた者がまだ息があるうちに 腹を空かした城中の者たちが人肉を切り取り口にするという異常さ

を見せていた

この鳥取城の籠城は 歴史上で最も悲惨な結末に至った出来事として知られている

このありさまを見ていた城将の経家は 城内に生き残った者たちの命を助けることを条件に 自らの命を差し

出すことを秀吉に願い出た

しかし 経家によって救われたはずの命の大半が思いにもかけないことから奪われてしまった

それは飢餓状態の者が 一気に物をたくさん食べると頓死するからである

これは胃や内臓が縮んでいるためで 時間をかけてゆっくり少量ずつ食べるよう指示されたにもかかわらず

城兵たちはそれを守ることができず 経家によって助けられた命を落としてしまったのである

いづれにしても悲惨な光景が目に浮かびますね
 
「自分達が籠城するための兵糧を売り払う」これも家族のためなのでしょうし・・・ 切なくなってしまいま

すね


鳥取城は、2006年度から30年の歳月と51億2千万円をかけ、幕末期の姿へ復元する計画が進行中です。
写真は、平成21年11月1日に百名城の旅で撮った「復元城門」ですが、何か寒々としたものを感じました。
鳥取城 001

二の丸の石垣は修復されているのが、よくわかります。
鳥取城 003

仁風閣から二の丸の石垣を望む、ここからが石垣が一番よく見えます。
鳥取城 004

標高263メートルの久松山頂の「山上の丸」登城は、時間がかかるとのことでしたので断念しました。
鳥取城 005

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました
                                           <参考文献:ふるさとの戦国武将>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

吉川 広家(岩国城)

広家は東軍の勝利を確信していた

『毛利の戦闘不参加を誓う書状を黒田長政に送る』

関ヶ原の戦いでは 毛利氏の当主であった毛利輝元が 石田三成・安国寺恵瓊らによって西軍の総大将

とされた 

外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており 主家に背いても徳川加担を主張する広家と 西軍総大将の立場

を貫くべきとする恵瓊は 大坂城で激論を闘わせたとされる

しかし あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は 同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を

練り 恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で黒田長政を通じて家康に内通し 毛利領の安堵という密約を

取り付ける

9月15日の本戦には西軍として参加したものの 家康に内通していた広家は南宮山に布陣 総大将毛利

秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した あくまで西軍に加勢しようとする安国寺

恵瓊や長宗我部盛親 長束正家の使者が来訪するが 広家は「これから弁当を食べる」と言って要求を退

けたと言われる これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた

結果は家康率いる東軍勝利となり 毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった

ところが 初めの約束とは裏腹に 毛利宗家の本領安堵は反故とされ その後広家には周防・長門の2ヶ

国37万石を与えるとの沙汰があった

広家はこの沙汰に対して「私に対する御恩顧は忘れませんが 何卒毛利家という家名を残していただきたく

願いあげます 輝元は今後 徳川氏に対する忠節に励むことでありましょう 万が一 輝元が徳川に対して

弓引くようなことがあれば たとえ本家といえども 輝元の首を取って差し出す覚悟でございます・・・云々」

との起請文を書いた

広家のこの起請文に安堵した家康は10月10日になって 輝元に対し広家に与えられるはずであった周防

・長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること 毛利輝元 毛利秀就父子の身命の安全を保障する旨の起請文が

もたらされた

広家としては 黒田長政や家康の重臣たちではなく 家康と直接内応の交渉を行わなかった事は手落ちで

あり 移封後は家政の第一線から退くことになる


関ヶ原の戦い後に、岩国に転封された吉川広家が岩国城を築いた
写真は、平成21年7月14日に百名城めぐりで撮ったものです。

山上に「南蛮造」の天守が再建されています。
岩国城 001

居館と城下はアーチ型の木橋である「錦帯橋」で結ばれている。
錦帯橋の右上に小さく見えるのが岩国城です。
錦帯橋は有名で観光客がたくさんいましたが、岩国城は閑散としていました。
岩国城 003
岩国城 006

岩国城の展望台より見る城下です。観光用に再建されただけに眺望は素晴らしかったです。
岩国城 005

元の天守台です。
現在の天守は錦帯橋から見えるように、50m前に移動し再建されています。
岩国城 004

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

応援ありがとうございました

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム